第1200話 あなたの未来に希望は無い
「深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗いている」
十九世紀のドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの格言である。
日向たちは現在、ジ・アビスという深淵に潜り込んでいる最中である。
だからこそ、これから先の状況はある意味、予測されて当然のことだったのかもしれない。
彼らが深淵を侵すのならば、深淵もまた彼らを侵すだろうから。
◆ ◆ ◆
やむなくネプチューンとラティカとポメを置いて、六人でジ・アビスのもとへと向かい始めた日向たち。
暗闇の深海を潜っていく。
深く、深く、潜る。
深海六千メートル地点に到達する。
身体が冷える。
太陽の光は、この深海までは届かない。
海水は陽光によって暖められることがないので、水温はせいぜい1℃前後。
ラティカの能力の範囲外に出たからか、日向たちの身体を包む海水の圧迫感も急激に増してきた。
見上げれば、ポメが全身から発している眩い光も、いつの間にか見えなくなっていた。
そしてジ・アビスの幻聴はさらにひどくなってきた。
もう、隣にいる仲間の声がロクに聞こえなくなるくらいに。
(日下部日向……どうしてあなたは戦いを続けるのですか……)
(義務感ですか? それとも罪滅ぼしですか?)
(あなたは諦めてもいい……誰もあなたに文句を言う権利は無い……)
「うるさいな……お前が俺の何を知ってるんだ……」
不機嫌そうに、日向はそうつぶやいた。
それを北園が隣で見ていて、日向に心配そうな視線を向ける。
「日向くん、だいじょうぶ……?」
「あ、ああ、北園さん。うん、俺は大丈夫。ごめん」
「ううん、気にしないで」
「そういう北園さんこそ大丈夫? 顔色が良くないように見えるけど……」
「う、うん……」
北園はそう返事をしたものの、やはりいつもの元気が無い。彼女もまた日向と同様にジ・アビスの幻聴攻撃を受けているのは明らかだ。そして北園だけでなく、他の仲間たちも。
日向も皆に何か声をかけてやりたかったが、頭の中で鳴り止まないジ・アビスの声が日向の意識を捕まえて放さない。けっきょく日向は何を言おうか考えがまとまらず、皆に声をかけることなく無言で泳いだ。
深海七千メートルに到達。
ジ・アビスが待ち構えている地点まで、あと千メートルだ。
しかし、ここに来てジ・アビスの幻聴はより一層の激しさを増してきた。もう幻聴しか聞こえない。頭の中で何百もの声が鳴り響くような感覚。耳を塞いでもシャットアウトできない。
いったん落ち着いていた幻覚の症状も再発した。それも、一回目の時のような断片的な映像ではなく、より鮮明に、そしてストーリーが立っている。
(日下部日向……。我らアーリアの復讐に巻き込まれ、星殺しの剣を手にさせられた少年……)
(あなたがこれ以上戦いを続けても、得られる物は何もありませんよ……。どうして今もなお戦い続けるのですか?)
「得られる物など何もないだって? 馬鹿なことを。狭山さんを止めないと、俺たち人類はこの星ごと滅ぼされる。この戦いは俺たち……この星に住む生命たちが生存権を得るための戦いだよ。戦わない理由が無い」
終始この幻聴を無視してやろうと思っていた日向だったが、ここで思わず返事をしてしまった。あまりにも煩わしかったのでつい反射的に、といった具合だった。
だが、ジ・アビスの幻聴は一方的に日向へ声を送り続けるだけかと思っていたら、意外にも先ほどの返答に対して返事をしてきた。
(確かにその通りです。私たちはあなたたちを、そしてこの星を滅ぼす。あなたたちは私たちから、かつての日常と安寧を取り戻さなければならない。ごもっともです)
「納得したか? じゃあもう話しかけるなよ」
(ですが、たとえあなたたちが私たちに勝利しようとも、あなたたちがかつての日常と安寧を取り戻すことは決してない)
「それは確かにそうかもしれない。これだけ街も自然も破壊されて、多くの人々が犠牲になったら、復興にどれだけの時間がかかるか分かったものじゃない。おまけに俺は狭山さんごと、この星の魂を……『星の力』を斬らないといけないって言うんだから、どうあがいてもこの星は無事では済まない」
でも、と言って日向は話を続ける。
「でもな、俺が生きているうちにこの星が復興することは叶わないかもしれないけどな、その次の世代か、さらにその次の世代くらいには元通りになってるさ。人間なめるなよ」
言ってやったぞ、と言いたげに鼻を鳴らす日向。
しかし、ジ・アビスの幻聴は止まらない。
(なんという……甘い考えでしょう……)
「なんだって?」
(あなたの言う通り、あなたたちが勝利したとしても、この星は無事では済まないでしょう。大地は枯れ果て、海は死に果て、空は荒れ果てる。人間もマモノも、今日を生きるための食糧や、雨風を凌ぐための居住にさえ苦労することでしょう。そんな世界では何が起こるか、あなたには想像がつかないのですか?)
「何が……起こるって言うんだよ」
(争いです。人間もマモノも、互いに互いの食糧を奪い合い、あるいは相手を食らうために殺し合う。相手の住処を奪うため、あるいは己の住処を守るために殺し合う)
「殺し合い……」
(たとえ私たちが滅ぼされたとしても、私たちが手を下すまでもなく、この星は終わりを迎えるでしょう。残酷で無慈悲な混沌の時代の到来によって)
「混沌の時代……」
(あなたが守ろうとした人類やマモノが、あなたが守った人類やマモノを殺すのです。こんな馬鹿げた話がありますか?)
「…………。」
日向は、何も言い返せなくなってしまった。
有り得ない話ではない。そう思ってしまった。
(それでもあなたは戦いを続けるのですか? 何があなたをそんなに突き動かすのですか? 父親のような正義のヒーローへの憧れですか? それとも幼少期に犯してしまった罪を償うためですか?)
「俺とお前は初対面のはずなのに、妙にこっちの個人的な事情に詳しいじゃないか……。狭山さんがお前に伝えたのか? プライバシーの侵害だぞ」
(あなたが私たちに勝利すれば、あなたは英雄として称えられるでしょう。そして力無き無辜の民は、英雄となったあなたに縋るでしょう。『どうか私たちの安寧を脅かす人間を、マモノを、殺してください』と)
「それは……」
(もうお分かりでしょう。あなたが私たちに打ち勝ったとしても、その先にあるのは血塗られた未来。この先のあなたの人生において、あなたに安寧が訪れることはありません)
「でも……俺には仲間や友達が……それに家族だって……」
(そもそもあなた、この戦いから先を生きるには、あなたの影たる日影に勝たねばならないことをお忘れではありませんか? ”復讐火”を隠すという渾身の策を消費した今、あなたは彼に勝てるのですか?)
(希望的観測ではなく、あなたはもっとしっかりと未来を見つめなければならない。絶望しかない未来から目を背けてはならない……)
(いやそもそも、あなたには未来というものそれ自体が無いのかもしれない)
「くそ……やめろ! これ以上何も言うな! 何も言わないでくれよ頼むから!」
たまらず、日向は声を上げてしまった。
その表情は、非常に辛そうであった。
その時。
ジ・アビスの幻聴が、今までになく優しい口調で日向に声をかけてきた。
(ですが……そんな未来からあなたを救う方法が一つだけあると言ったら、どうしますか?)
「え……?」
(その方法を知りたければ、こちらへ来てください……。この海の最も深い場所で、あなたを待っています……)
こちらへ来てください。
あなたを待っています。
その言葉のみが、日向の頭の中で繰り返されるようになった。
「…………。」
日向は、無言で泳ぎ続ける。その目的はジ・アビスの討伐か、それともジ・アビスが言う「方法」とやらを知るためか。
もう、日向自身にも分からなくなってしまっていた。