第1192話 深海八千メートルへの入口
日向たち六人と一匹は、巨大なクジラのマモノのネプチューンの背中に掴まって、ジ・アビス本体が潜む大西洋最深部を目指す。ポメラニアンのポメは本堂が抱いている。
ネプチューンのすぐ側では、彼女の娘である子クジラのラティカが追従して泳いでいる。相変わらず不安そうな表情であるが、しっかりと母親についてくる。
やはりと言うべきか、ネプチューンの遊泳速度は日向たち人間と比べて圧倒的に速い。日向たちは日影深海ジェット便という奥の手を使ってここまでやって来たというのに、ネプチューンは少し泳いだだけで、もうすでに日向たちと同じくらいの距離を進んでいる。
「すごーい! はやーい! クジラの背中に乗って海底遊覧なんて、なんだかロマンチックだね日向くん!」
「言われてみれば確かに。惜しむらくは、ネプチューンけっこう容赦ない速度で泳いでいるから、気を抜いたら振り落とされそうで遊覧気分どころじゃない点かな……!」
ツルツルでしがみつきにくそうなネプチューンの背中だが、意外と隆起に富んでいるので、しがみつくことができる場所は多い。日向たちは今まで感じたことがないような水の抵抗をその身に受けつつ、しっかりとネプチューンの背中に張り付いている。
『これでもあなたたちを落とさないように加減はしていますが、厳しそうなら言ってください。減速しますから』
「とりあえずは大丈夫だと思う。このままのペースで頼む」
ネプチューンにそう返事をする日向。
……と、ここでまた北園が日向に声をかける。
「そういえば日向くん、ネプチューンさんには標準語なんだね。目上の人とか年上っぽいマモノとか、たとえばゼムリアさんとかには敬語で話してたから、ネプチューンさんに標準語なのはなんだか意外だなって」
「そういえばそうかも。初めて会った時は思いっきり敵対しちゃって、その時に標準語だったからかな?」
「たしかに日向くん、敵のマモノさんには標準語だもんね」
「ゼムリアさんとは、俺は結局一度も戦わずに、初めてまともに会話した時はレッドラムを追い払う時で、すでに味方だったからなぁ」
談笑する日向と北園。
その近くで、本堂とシャオランも会話をしている。
「ふぁ……。なんかちょっと眠くなってきたかも。ねぇホンドー、いま何時くらいだっけ? あ、スマホは車の中に置いてきたんだっけ。じゃあ誰も時間は分からないかな」
「一応、完全に俺の感覚頼りだが、この海に潜ってからの時間を測ってはいる。ざっと夜の十時くらいだ。作戦開始から七時間ほど経過しているな」
「ひゃあ、もうそんな時間だったんだね。この深海じゃ昼も夜も変わらず真っ暗だもんね。どうりで眠いワケだよ」
「子供によっては、そろそろ寝る時間だからな」
「なんだか他意を感じるコメントなんだけど!?」
「海だけに、鯛か」
「違うし!」
「実際、俺達がこの海に潜ったのは昼過ぎだった。そこから俺達なりに急いだものの、予定していた魚介類の協力は得られず、ペース的に厳しいものがあったことは否めない」
「深夜一時から五時くらいなら、戦闘中でも興奮状態であまり眠気も疲れも気にせず戦えると思うけど、さすがにここから半日を過ぎるとマズいだろうね……」
「ポメ、お前の体力はまだ大丈夫か?」
「ワン!」
「ふむ。元気そうでなにより」
「体力が大丈夫かどうかと言えば、エヴァだよ。いつもこれくらいの時間帯には眠くなっちゃってるでしょ? 大丈夫なの?」
そう言ってシャオランが、近くにいるエヴァを見てみる。
エヴァも二人の話を聞いており、しっかりと返事をしてきた。
「問題ありません。さすがにこの状況で眠くなるほど私も子供ではありません」
「いや、子供かどうかというより、エヴァの体質の問題だと思うんだけど……」
「私が眠ってしまうと、あなたたちを深海に適応させる”オトヒメの加護”が途切れてしまいます。今はラティカもいますが、彼女の能力よりも私の能力の方が強いですし、私が頑張らないと」
「頼りにしているぞ、エヴァ」
「お任せください」
本堂に頼られて、エヴァは自分が少し認められたような気がしたのだろうか、どこか少し嬉しそうに返事をした。
ネプチューンたちと共に移動を開始してから、しばらくの時間が経過する。一時間は経過しただろうか。
「この下です。この真下からジ・アビス本体の気配がします。私たちはジ・アビス本体の真上にいるようです」
エヴァがそう言った。ここからずっと下へ、下へと潜っていけば、いよいよ日向たちはジ・アビス本体のもとにたどり着く。
必然と、皆の表情にも緊張が走る。
決着の時は近い。
……と、その時だった。
日向は、誰かに自分の名前を呼ばれたような気がした。
「ん? 誰かいま俺の名前呼んだ? 北園さん?」
「ううん? 私は違うよ?」
「じゃあ日影?」
「いや違ぇぞ? そもそも北園の次はオレに聞くって、なんつうか、振り幅があり過ぎだろ。男か女の声かも分からなかったのか?」
「まぁうん、そうなんだよ。男か女か、誰の声だったのか全くよく分からなかった」
他の皆にも聞いてみたが、誰も日向の名前を呼んではいないようだった。日向の気のせいだったようだ。
「おかしいなぁ、誰かは分からないけれどたしかに名前を呼ばれた気がしたのに」
「疲れて幻聴でも聞こえたんじゃねぇか? ここから先が思いやられるぜ」
「まぁ、いっそ疲労性の幻聴だってハッキリ分かれば嬉しいんだけどな。敵の能力とかじゃないことを祈るばかりだよ」
冗談めかして日影にそう返す日向。しかし実際問題、本当にこれが敵の能力による攪乱攻撃だったりしたら大変だ。日向は密かに気を引き締め直すことにする。
一方、ネプチューンの娘のラティカは、母親であるネプチューンに声をかけていた。
『お母さん……やっぱり戻ろう……? この先はダメ……』
『何を言ってるのラティカ。ここまで来て引き返すわけにはいかないでしょう。日向たちにも迷惑がかかります』
『でも……この先は本当にイヤな気配が……』
『大丈夫よ。大丈夫だから。お母さんがついてるわ。だから勇気を出して、行きましょう?』
『お母さん……でも……』
それでもなお不安そうな表情をしていたラティカであったが、やがて諦めたようにうつむき、母親について行く。
そのやり取りを聞いていた日向は、ネプチューンに声をかけた。
「娘さん、本当の本当に大丈夫?」
『ええ、心配いりません。これでも芯は強い子なんですよ』
「そう言うなら信じるけど……。そういえばお前はどうなんだネプチューン? 娘さんと比べると、この”怨気”に満ちた海の中でもけっこう平気そうにしてるけど」
『私はどうやら、わりと平気なようです。自分で言うのもなんですが、強い心で耐えているのかもしれません』
「まぁたしかに、性格的にしっかりしていそうではある」
やり取りもそこそこに、日向たちはジ・アビス本体を目指して、さらなる潜行を開始。
深海八千メートルへの入口は、ただでさえ真っ暗なこの深海よりも暗く、底が見えないように感じた。