第1179話 溺死した街
エヴァの能力を利用して大西洋へ潜った日向たち。
この海を支配するジ・アビスを倒すまで、地上には戻れない。
ここは海の中ではあるが、いま日向たちがいる地点は水没した陸地でもある。水の底にあるのは砂やサンゴ礁ではなく、草木と道路だ。普段は地上に存在するはずのものが水の中にあるという光景は、見た目以上に異様な雰囲気である。
……と、ここで日向たちの前に現れたのは、少し急な坂道だ。水の中とはいえ、歩いて上るぶんには特に何の問題もない、ただの坂道である。
しかし日向たちはこの坂を見て、なにやら思い悩んでいるような表情をしている。
「ジ・アビスの水の中って、俺たち浮上できなかったよな……。この坂道、登れるの?」
そう、それが問題だ。ジ・アビスの水の中では、生物も無機物もあらゆるものが沈められ、浮かび上がることができなくなるのだ。
「エヴァ、お前の能力が効いている水の中ならジ・アビスの能力も無効化できる……とかそういう話はない?」
「残念ながら、無いようです。ジ・アビスの”怨気”の能力は無効化できているようですが、この浮上不可能力だけは無効化できないみたいです。私の支配領域ごと、その上からジ・アビスの支配領域で押さえつけられているイメージ……と言えば伝わるでしょうか」
「言わんとしていることはなんとなく分かったような。うーん、しかしどうしようか。思わぬ障害が現れちゃったぞ」
試しに日向は坂道に足をかけ、登ってみる。
ダメでもともと、である。
ところが、日向は坂道を登ることができた。
特に何の制限もなく、普通どおりに。
「お? お? なんか登れたぞ」
「これはどういうことでしょうか。ちなみに私は特別なことは何もしていませんよ」
日向に続いて、他の仲間たちも坂道を登ってみる。
皆、特に支障なく登ることができた。
そのまま日向たちは坂道の上まで到達。
試しに日向は、今度は泳いで海面を目指そうとする。
しかし、それは駄目だった。いくら頑張ってもまったく浮上できない。
もしかすると、地伝いであればジ・アビスの水の中でも浮上することができるのかもしれない。水の中を泳いで浮上するのではなく、坂道や崖をよじ登るという方法であれば。
「実際に坂道の上に上がることができた以上、そう考えるのが自然なんだろうけれど、いいのかなこんなの。ゲームで言うと仕様上の穴とかバグとかを利用しているみたいで、なんかズルしてる気分になるような」
「ジ・アビスを構成する『星の力』はあくまで一割程度。そう考えると、一割に見合わない規模と性能を持つ能力を設定されたことで、思わぬ弱点が出てしまったのかもしれません。身の丈に合わない強力な能力には、よく何らかの制限が設けられるものです」
そのエヴァの説明を聞いて、日向は妙に納得した。
続いて北園が口を開く。
「地伝いでも上に行けるってことは、つまりいま来た道を戻れば、私たちはいつでも地上に戻れるってことなのかな?」
たしかに理論上は北園の言う通りなのだろうが、そんな彼女の発言に対して本堂が首を横に振った。
「今この時点であればな。しかしジ・アビスを倒すために海底深くに潜ったらそうもいかなくなる。地上から海底までの道のりというのは、ずっと下り坂というわけにはいかない。断崖絶壁も存在する。水の中ゆえ、飛び降りてもゆっくりと沈むだけだが、そこから戻るには何十メートルもの高さの崖登りをすることになるぞ」
「うわぁ大変そう……」
「そうでなくとも、日向のタイムリミットの事を考えるなら、いちいち引き返すような余裕も無い。この一度の潜行で決着をつけるぞ」
「りょーかいです! よーし、がんばらなきゃ!」
北園が気合いを入れ直したところで、一行は先へ進む。
少し進むと、なだらかな坂の下に、明るい茶色の屋根の家が立ち並ぶ街が見えてきた。ポルトガルの首都であるリスボンだ。日向たちは道路の上を泳いでリスボンへと向かう。
リスボンは家も、車も、街灯も、木々も、路線電車も、あらゆるものが水の中へと沈められている水没都市と化していた。沈んでいる家々の上を日向たちは泳いでいる。泳ぎながら、この街の惨状を見下ろしている。
特にひどいのは、地上へ浮かび上がることもできなかった水死体が街のあちこちに横たわっていることである。水位を増す海から逃げようとしたのか、建物の屋根の上で溺れている死体もいくつか発見した。
「想像以上にひどいことになってるな……地獄だよこれ……」
「魚たちにも分解されないまま、死体が今に至るまで残ってしまっているのか。いや、大西洋の魚たちもこの街まで上がる事は出来なかったのだろうな」
「この街だけじゃなくて、きっと周辺の他の街もこんな感じになってるんだろうね……フランスのパリだってほとんど水没してたし……。ボクたちがジ・アビスを倒して、ここにいる皆の無念を晴らさないと」
「こんな状況でこんなこと言うのもアレかもだけど、シャオランが珍しく頼もしい発言」
「今のボクはジ・アビスの”怨気”を警戒して”空の練気法”を周囲に展開してるからね。少し勇気も湧いてきてるよ」
「頼もしいんだけど、なんか少し調子も狂うというか。話しかける身としては、やっぱり普段の泣き叫んでいるシャオランの方が張り合いもあるかも」
「ひどい」
やり取りを交わしつつ、日向たちは水没した街の上を泳いでいく。言ってしまえば、空を飛んで街を横断しているようなものだ。日向たちの泳ぎのスピードはゆっくりだが、先へと進むペースは見た目以上に早い。ポメラニアンのポメも犬かきで日向たちについてくる。
泳いでいる途中で、日向がエヴァに声をかけた。
「エヴァ。この街で魚の気配はあるか? 大西洋の魚たちはこの街まで上がって来られないかもだけど、この街で飼われていた熱帯魚とかが、この水の中で野生化している可能性もある。お前が言っていた『魚を進化させて移動手段に使う』って作戦を実行できるかも」
「先ほどから探っていますが、小さな気配の一つすら感じません。ジ・アビスが支配する海の中ということだけあって、ジ・アビスの気配を異常に濃く感じますから、そのせいで小さな気配を見落としているのかもです。もう少し注意深く探ってみます」
「あぁ、頼むよ。さすがに俺たちの泳ぎだけで大西洋の海底深くまでっていうのは、どれだけ時間がかかるか分かったものじゃないからなぁ」
そう言って日向はエヴァとのやり取りを打ち切ろうとする。
しかし、ここでエヴァがハッとした表情を見せた。
「あ……ちょっと待ってください」
「ん、どうした? 何か見つかったか?」
「この気配……何もないところからいきなり現れた……。それにこの禍々しい気配……レッドラムが来ます!」
「あっ、そういうのはお呼びでない……!」
「SHAAAAAAAKKK!!」
日向のお断りも虚しく、水底の街の建物の陰から赤い魚影が出現した。人間など一口で丸かじりにできそうな、大きなサメ型のレッドラムだ。