第1178話 海中へ
ジ・アビスの水の腕の猛攻を切り抜けて、ようやく大西洋の海岸まで到達した日向たち。
しかしここに来て、エヴァが海を見て怯え始めてしまった。彼女は日向たちとの水泳特訓により、水への恐怖心をかなり克服できていたはずだが、ここへ来て何が起こったというのだろうか。
「海怖い……海怖い……」
「エヴァ、どうしたんだ!? 早くしないと水の腕が攻撃を仕掛けてくる!」
日向は焦り、エヴァを急かしてしまう。
そんな日向に、本堂が冷静に声をかける。
「落ち着け日向。これは恐らく、エヴァとしても無理もない事だ」
「本堂さんは、エヴァがいきなり怯えだしてしまった理由が分かるんですか?」
「推測はつく。確かにエヴァは俺達と共に泳ぎを練習し、水嫌いをある程度は克服できた。しかし、『海』への恐怖がまだ拭いきれていないのだろう」
「海への恐怖……。そうか、もともとエヴァが溺れたのってプールじゃなくて海でしたからね。同じ水場であっても、やっぱりプールと海じゃエヴァが感じる恐怖も違うのか……」
「エヴァが訓練したのはあくまでホテルのプールだった。ホテルのプールと本物の海では、規模も深さも段違い。恐らくはそのギャップ……『思ったより怖い』という気持ちが、エヴァの心を押し潰そうとしている」
「なるほどたしかに無理もないことですけど、この局面でかぁ……!」
このままこの場に留まり続けていては、せっかく倒した水の腕も新しく湧いてきて、再び日向たちに猛攻を仕掛けてくるだろう。しかし今さら引き返す時間もない。どうにかしてエヴァに覚悟を決めてもらわなければならない。
「俺達が無理やりエヴァを海の中に放り込んでも、特訓前の二の舞になる。日影、攻撃を仕掛けてきそうな水の腕を潰して回って時間を稼げ」
「ちッ、仕方ねぇな……!」
「北園とシャオランも攻撃の用意を……」
……と、本堂が皆に指示を出していた、ちょうどその時。先ほどまで震え声を発していたエヴァが、今度はしっかりとした声で皆に声をかけてきた。
「その必要は、ありません……!」
「エヴァちゃん、落ち着いたの?」
北園がエヴァにそう尋ねる。
その質問に、エヴァはゆっくりと首を縦に振った。
「なんとかですが。分かっています、ここで私が足踏みしていては、皆さんを危険な目に遭わせてしまう。覚悟を決めなければ」
「うん……。つらいだろうけど、がんばって!」
「ただ……一つだけお願いがあります、良乃」
「ん? なぁに?」
「飛び込むときに、手を握っていてほしいのです……」
「りょーかい! お安い御用だよ!」
北園はエヴァの手を優しく握った。
小さく、柔らかく、そして温かい手だった。
「では、飛び込みます……。せーのっ」
エヴァの掛け声で、日向たち六人とポメは目の前に広がる海へ向かってダッシュ。ジャブジャブと足が水を蹴りのける音が立つ。
そして日向たち六人と一匹の全身が、完全に水の中に沈んだ。
残された五匹の大型犬たちは、日向たちが海の中へ潜ったのを見届けた後、すぐにもと来た道を引き返す。ジ・アビスが後ろから攻撃を仕掛けてきたようだが、それを器用に回避しつつ。
『人間たち、無事に海の中に入れたみたいだな!』
『私たちは、あとはここから離脱するだけ。最後まで油断は禁物よイビ』
『彼らとしては、むしろこれからが本当の戦いでしょうがねぇ。無事を祈るばかりですよ』
『とにもかくにも、さっさと安全地帯まで離れてのんびりしたいんよ。もう一生分働いた気がするし』
『ポメっちょ、大丈夫かなー……?』
やり取りを交わしつつ、犬たちは退避。ジ・アビスからの攻撃が当たりそうになったりとあやいう場面もあったが、五匹とも五体満足でこの戦場から離脱した。
人間たちも犬たちもいなくなると、水の腕の群れは静かに海へと引っ込んでいった。後にはただ、波が打ち寄せる音が聞こえるのみ。
◆ ◆ ◆
一方こちらは、海の中へと突入した日向たち。
さっそくエヴァが水を支配するため、能力を行使する。
(水よ、我を受け入れよ……”オトヒメの加護”!!)
エヴァが心の中で詠唱すると、彼女を中心として水の中に蒼いオーラが広がる。これで日向たちは水中でも呼吸や会話ができるようになった。
「ふぅ……成功です。私たちの周辺の海水の支配権をジ・アビスから取り返しました」
「エヴァちゃん、がんばったね! すごいよ! 本当にすごい! ぎゅー!」
「むぎゅ……」
満面の笑顔でエヴァを抱きしめる北園。
エヴァは少し迷惑な表情を浮かべていたものの、喜んではいる様子だった。
さて、どうにか第一関門は突破した日向たちだが、まだ気は緩めない。この周辺はエヴァが支配しているとはいえ、この大西洋全体は今もなおジ・アビスが支配している。例えるなら日向たちは、敵の手のひらの上に自らやって来たようなものと言えるだろう。
「何を仕掛けてくるか分かったもんじゃないぞ。四方八方から水の腕で攻撃してくるか、それとも渦でも発生させるか……」
「海水を大きく打ち上げて、ボクたちを海の中から強制追放……とかも有り得るかもね……」
「それやられたら詰みだわ。もうどうあがいてもジ・アビス倒せないもん」
……しかし、しばらく待ってみても、ジ・アビスが何かを仕掛けてくるような様子はなかった。周囲の海水は青く澄んでおり、静かである。
「ふむ……思った以上に静かだな。何も仕掛けて来ないのは楽でいいが、些か拍子抜けでもある」
「気を抜くんじゃねぇぞ。ここがジ・アビスそのものだってことに変わりはねぇんだ。何もないワケがねぇ」
日影の言葉はもっともである。
日向たちは引き続き気を緩めることなく、先へ進むことにした。
ジ・アビスとの初遭遇からここまで、実に長かった。ここまでの道中、ジ・アビスの末端である、あの水の腕と幾度となく戦ってきた。
だが、あるいはここからなのかもしれない。
ジ・アビスとの本当の戦いが始まるのは。