第1177話 前へ、前へ
地上を三人の人間と四匹の犬、そして日向を背に乗せたピレが駆け回る。空では北園と日影が飛び回る。さらにエヴァが生み出した霧の幻影まで多数出現し、全員が散開して動く。
これによってジ・アビスが生み出した水の腕もターゲットを絞れなくなり、攻撃の精度が落ちてきた。その隙に日向たちは一気に前進して距離を詰める。
だが、ジ・アビスもすぐに照準を定め直したようだ。今度は先ほどよりも狙いを研ぎ澄ませて、前進してくる日向たちに水のレーザーをお見舞いしてきた。
本堂、シャオラン、エヴァ、それから四匹の犬たちは持ち前の俊敏性を活かして、水の腕の攻撃を次々と回避。しかし日向を背に乗せて動きが鈍っているピレだけは回避しきれず、水のレーザーが胴体にかすってしまった。
薄い鉄板をも貫通する水のレーザーを受けてしまったピレ。ところが、痛みでわずかに顔をしかめたもののピレは健在だ。日向を背に乗せたまましっかりと走りを維持している。
これはピレの能力によるもの。すでに今までにおいて何度か見せているが、ピレは身体の毛の一本一本を硬質化させて、自身を鋼の塊のように頑丈にすることができる。これによって水のレーザーを防御したのだ。
日向が機動力を補うために五匹の大型犬のうちピレを選んだのは、決していい加減な判断だったわけではない。日向を乗せても動きに支障が出ないほどの体格、その大きい体格のために敵からの攻撃は回避しにくいが高い防御力によって受け止める異能、こういった要素から「この五匹の中ならピレが一番」と考えたのである。
「全員散開してジ・アビスは的を絞れなくなったけど、つまりそれは流れ弾が飛んできやすくなるってことでもあるからな。その点、どんな方向から攻撃が来てもある程度身を守ることができるピレなら安心だ」
ちなみに余談だが、ピレが防御のために全身の毛を硬化させているということは、その毛の一本一本が針のように硬く、そして鋭くなっているということでもあるが、そんなピレの背中に乗っている日向は大丈夫なのだろうか。
答えは、大丈夫。
ピレの毛質硬化能力は部位を限定することもできるらしく、日向が乗っている背中部分はモフモフしたままなのである。
「気が利くワンコだよお前は」
「ワン!」
日向の褒め言葉を受けて、ピレは嬉しそうに吠えた。
さて、散開したことで全員の位置にばらつきはあるものの、大西洋までの距離は残り二百メートルと少しといったところだ。あともう少しで海に飛び込むことができる。
水の腕の群れの攻撃もさらに激しさを増してきた。日向たちが海に近づいているということは、つまり水の腕の群れとの間合いも詰まってきているということであり、水の腕の攻撃が日向たちに届くまでの時間も短くなっている。
「日影! 空の防御は頼んだ! 水の塊の雨を叩き壊してくれ!」
「指図すんな! それくらいテメェに言われるまでもなくやってやろうと思ってたんだよ!」
緊迫した状況だが、チャンスでもある。水の腕との間合いも詰まってきているということは、日向たちの攻撃もいくらか届くほどの間合いになってきたということなのだから。
「もっと大西洋に近づくなら、少しでも水の腕を減らして、向こうの攻撃の勢いを弱めなきゃ! ”雷光一条!」
北園が両手から極太の電撃のビームを撃ち出し、それを右から左へ薙ぎ払う。前方六体ほどの水の腕が一気に消し飛ばされた。
北園の大火力を脅威に感じたのであろう。残っている水の腕の多くが北園を狙おうとする。
しかしそれを隙として、本堂が”轟雷砲”で水の腕を撃ち抜き、シャオランが”炎龍”で吹き飛ばし、エヴァが灼熱の光線を振り抜いて五体まとめて蒸発させた。
皆の総攻撃により、水の腕が大々的に減少。特に前方に並んでいた水の腕が完全にいなくなった。飛び交っていた水の弾幕も薄くなり、これ以上ないくらいの前進チャンスである。
「次の水の腕が来る前に、急ごう!」
日向の掛け声で、皆が一斉に前へと進む。
四匹の犬たちが先行しつつ、地面から湧き出ている小さな水の腕を殲滅する。
犬たちが切り拓いてくれた道を走る地上組。
この時、本堂がとあることを考えていた。
「薄々感じていたが……ジ・アビスの攻撃のパターンが少し変化しているな。具体的に言うと、此方を水の中に引きずり込もうとしない」
今までのジ・アビスは隙あらば日向たちを川の中へ引きずり込もうとしてきた。サラゴサのテルセール・ミレニオ橋では恐るべき執念でマンホールから奇襲し、北園を捕まえたこともあった。
しかし今回のジ・アビスは、ここまで本堂たちが近づいても彼らを海の中に引きずり込もうとはしない。むしろその逆で、本堂たちを海から遠ざけようとしているように感じる。あの大波攻撃などが顕著な例だろう。あの攻撃は本堂たちを後方へ押し下げるのが狙いだ。
つまりジ・アビスは、本堂たちに海の中へ飛び込まれたくないのだ。それは当たり前のことに感じるかもしれないが、視点を変えると少し事情が変わってくる。
「確かに俺達は『エヴァの能力を利用してジ・アビスが支配する海の中へ潜り、ジ・アビス本体を倒す』という作戦を立てた。しかし、本当にジ・アビスが支配する海をエヴァが支配し返すことが出来るか、その検証はまだ済んでいない」
ジ・アビスもまた凄まじい能力を持つ怪物だ。エヴァの能力を疑いたくはなかったが、本堂は少し不安だった。はたしてエヴァの能力はちゃんとジ・アビスの海の中で機能するのかと。検証しようにも良い検証方法が思い浮かばず、迫る日向のタイムリミットに引っ張られるように、勢いでこのぶっつけ本番の舞台まで来てしまった。
彼ら六人はエヴァの能力がジ・アビスに通用するか分かっていないが、ジ・アビスは明確に六人を海から遠ざけようとしている。これはつまり、ジ・アビスは分かっているのではないだろうか。エヴァの能力が自分にとって脅威であるということを。
「どの道、此処まで来たら、今さら退くわけにもいかんがな……!」
不安が少し解消されたことで、海へと進む本堂の脚にさらなる力が入ったように感じた。そのまま本堂は皆の戦闘に躍り出る。
正面から巨大な水の腕が飛び出してきた。
最前列にいる本堂を鷲掴みにする勢いで襲い掛かる。
これに対して、本堂は右腕の刃を振りかぶる。
そして水の腕を射程圏内に捉えた瞬間、縦一閃。
「”雷刃一閃”……!!」
電光の刃が水の腕の手のひらに食い込む。
瞬間、雷の斬撃が奔り、水の腕は根元まで真っ二つに裂けた。
「ナイス本堂さん! よーし大チャンス! 急げ急げ急げ!」
日向の声に合わせて、皆が再び集結しながら前進。
海岸まで残り百メートルを切り、残り五十、三十、十……。
そしてついに、日向たちは陸地と海の境界線、海岸まで到達した。
「あとはエヴァの能力発動に合わせて飛び込むだけだ!」
「エヴァ、頼んだよ!」
日向とシャオランがエヴァに声をかけた。
この戦いの勝利を確信して興奮しながら。
……しかし、エヴァは目の前の海を見て、青い顔色をしていた。
「う……海……怖い……」