第1141話 今は大丈夫でも
次の日。
この日もエヴァの水泳特訓に充てる。
日向の存在のタイムリミットは、残り26日。
昨日は一日中、泳ぎの練習をしていたエヴァ。もともとの身体能力の高さもあって、すでに日向や北園以上に泳ぐのが速くなっている。
「このクロールという泳ぎ方が一番しっくりきます。ゼムリアが教えてくれた犬かきよりも泳ぎやすいです」
「ダメだ、俺はもう全然エヴァに追いつけん。俺だってクロールが一番得意なのに」
「私もあっという間に超えられちゃった。教え子の成長っていうのは嬉しいと同時にちょっと寂しいんだね日向くん……」
エヴァの泳ぎも上達してきたところで、今日は応用訓練である。
まずはシャオランがプールの中に入る。
そして”地震”の能力を使って、プールの水を殴る。
「せやぁッ!!」
シャオランの拳から地震の震動エネルギーが迸り、プール全体が盛り上がるような高波を発生させた。この高波にエヴァが耐えらえれるかどうかのテストである。
大きな波が押し寄せてきて、前方にいたエヴァを巻き込んでしまう。強烈な水流によってエヴァが水の中で転がる。
(くぅ、ううう……!?)
エヴァの頭の中で、かつての海難事故のトラウマが想起される。あの日、彼女が嵐の海に投げ出されてしまった時も、海はこんな感じで荒れ狂っていた。
(だ……大丈夫……落ち着いて……落ち着いて……)
自分自身にそう言い聞かせ、過呼吸になる前に心を落ち着けたエヴァ。水中で上手く体勢を整え、『星の力』を集中させる。
(水よ、我を受け入れよ……”オトヒメの加護”!!)
エヴァが頭の中で詠唱。
集中させていた『星の力』を発散させ、周囲の水に浸透させる。
すると、エヴァが水の中で呼吸ができるようになった。水を飲み込みながら酸素も取り入れ、二酸化炭素を吐き出すと同時に水を吐き出す、という普通では考えられないようなことが可能となった。
「そして、水の中で声を発することもできる。能力はちゃんと機能しているようですね」
冷静に、しかし満足げにエヴァはつぶやく。
その一方で、エヴァがなかなか水面から顔を出さないので、シャオランが心配そうにしている。
「え、エヴァー? 大丈夫ー?」
「荒れ狂え……”ポセイドンの怒り”!!」
エヴァが水中で能力を発動。
見上げるような高波が前方のシャオランに襲い掛かる。
「はいいいいい!? え、ちょ、ええええええ!?」
シャオランは成すすべなく高波に呑み込まれ、押し流されてしまった。プールの波が静まって、ようやくシャオランが水面から顔を出す。エヴァも同時に顔を出す。
「なにするんだよエヴァ!?」
「ちょっと、能力がちゃんと使えるか確認を」
「正直に言ってごらん!? さっきの大波は水嫌いを克服できたのが嬉しかったあまりテンションが高くなって撃ちたくなったんだよね!?」
「…………まぁ、少し」
「もぉぉやっぱりぃぃぃ! 超ビックリしたんだからね!? 安心安全なプールの中でいきなり津波に襲われる人の気持ちを考えたことある!?」
「こうるさいですね。えいっ、もう一発」
「ちょっとぉぉぉぉぉ!?」
再びシャオランが大波に流される。
エヴァは無表情だが、どこか満足そう。
その様子を日向、北園、日影の三人がプールサイドで眺めていた。
「エヴァはもうすっかり水が大丈夫になったみたいだな。あれだけ怖がってたのに、たった二日間みっちり特訓しただけでここまで変わるとは」
「ねー! すごいよね! もともと運動神経が良いから、水へのトラウマさえ克服しちゃったら、あとはもうエヴァちゃんの本能が勝手に泳ぎを覚えてくれちゃったって感じかな」
「いやいや、それだけじゃなくて北園さんの教え方も良かったからこそだと俺は思うな。名コーチ北園さん」
「ふふ。日向くん、日影くんと同じ感じのこと言ってくれてる」
「でも俺の台詞の方が素敵だったと俺は信じてる」
「なんだテメェ、戦争か」
「はいはーい、喧嘩はダメだよー」
北園が仲裁に入り、二人はピタリと口喧嘩を停止。彼女の言うことなら素直に聞くのは、色々と正反対な彼らの数少ない共通点である。
しかし日影はまだ難しい表情をしており、再び口を開いた。
「たしかにエヴァも良い感じに水に慣れてきてくれたようだが、まだ油断はならねぇぞ。なにせ本番でアイツに飛び込んでもらうのは、こんなデカいプールでも勝負にならねぇほど馬鹿デカい海だ。そして『海に落ちた』ことがアイツのトラウマだからな。プールは大丈夫でも、海だとまた冷静でいられなくなる可能性もゼロじゃねぇぞ」
日影の言う通りだ。今は大丈夫そうに見えるエヴァも、自分のトラウマの直接的原因である海を前にした時、パニックにならずに済むだろうか。日向と北園も心配そうな表情を見せる。
「大丈夫……とは断言できないな……。海の深くまで潜るって、プールに飛び込むのとは次元が違う話だろうからなぁ。なんなら俺だって緊張してドキドキしてるし」
「トラウマって本当に、自分でもどうしようもないくらい、わーって湧いてきちゃうからね……。私だってまだ交通事故のトラウマが抜けきってないし」
「けど、俺たちはエヴァを信じるしかない。あいつが大丈夫であるようにしっかり支えて、ダメな場合でもカバーする。ジ・アビスを倒すにはエヴァの力が必要不可欠だ。俺たちはそれしかない」
「そうだね。エヴァちゃんが頑張れるように、私たちも応援しなきゃ!」
最終的にそういう結論に達した二人。
日影もまた二人の意見を聞いて、表情を穏やかなものにした。
「そうだな。オレだって信じてる。アイツならきっと大丈夫だってな。保護者付きとはいえ、伊達に大自然の中を身一つで生きてきたガッツはしてねぇだろうぜ」
「いざという時は日影だけジ・アビスの海に突っ込ませよう。どうせこいつなら”オーバーヒート”の推進力で、自力でジ・アビスの海から脱出できるだろうし。俺の『太陽の牙』を持たせて、俺が遠隔で”最大火力”を発動させてジ・アビス本体に突撃させる日影ミサイル作戦とか」
「テメェは本当にロクなことを考えねぇな」
そう言って日影は、日向の背中を蹴り飛ばした。
日向が蹴飛ばされた先は、いまだにエヴァの高波が荒れ狂うプールの中。
「おわぁぁぁぁ!? た、助けてー! 溺れるー! 水がトラウマになるー!」
「ひ、日向くーん!?」
「テメェの水泳特訓までやってる時間はねぇぞー。トラウマになったんなら今すぐ克服しとけー」
「こ、この鬼畜外道ーっ!」
その後もエヴァの水泳特訓は続き、二日目が終了。
三日目はいよいよ出発の時。
水嫌いを克服し、無表情ながらも自信に満ちた雰囲気のエヴァが、水着などの手荷物を抱えながら、ホテルの玄関から出てきた。移動用の車へと向かう途中で、背後のホテルへ振り返る。
「お世話になりました。ここで積んだ経験を活かし、必ずやジ・アビスを打ち倒してきます」
無人のホテルにそう告げて、エヴァは日向たちが待つ車へと走っていった。