第1130話 ジ・アビスについて
”最後の災害”の初期段階で、フランスはジ・アビスの攻撃を受けた。
まずは大津波が発生して、海岸線沿いの街が一斉に攻撃された。この時はまだ世界全体への電波妨害も起こっておらず、膨大な量の海水に街が押し流される様子がテレビでも放映されていた。よって、巻き込まれた街から離れたところに住んでいるミシェルも事情を知っていた。
それから半日もしないうちに、このパリのセーヌ川でも異変が起こる。突如として川の水の量が異常に増し、あの超巨大な水の腕が出現したのである。
川の中から次々と現れる水の腕。
それらが一斉に街へと叩きつけられた。
叩きつけられた水の腕は、洪水となってパリの街に流れ込んだ。
洪水となって流れ込んだ水から、さらにまた水の腕が出現する。それこそ、まるで街中を這い回るように、水の腕はパリの街を蹂躙した。
さらに同時に、パリの街の中にレッドラムも多数出現。洪水から逃れようとする人々を次々と始末してしまった。あの日のパリはまさに地獄そのものだったとミシェルは語る。
当時、ミシェルの家族たちもパリの中心街へ買い物へ出かけていた。洪水の範囲のど真ん中だった。今に至るまで連絡が取れず、この家にも帰ってきていないので、恐らくはもうダメなのだろう。
中心街を沈めた洪水は、ミシェルが住んでいるエリアである郊外の高地まではやって来なかった。街の大半は沈めたことで満足してしまったかのように。しかしミシェルと同じように洪水の範囲外にいた人たちも、ほとんどはレッドラムに狩られて犠牲になってしまった。
家族たちは中心街へ出かけていたが、ミシェルだけはその日、あまり気が乗らなかったので一人で留守番をしていた。それが結果的に功を奏し、洪水の範囲外であるこの家に留まることができた。運よくレッドラムにも見つからず、今日まで隠れ続けることができた。
ジ・アビスの襲撃からおよそ三日後、街は悲しいくらいに静かになった。
家の中の食糧も尽きてきたので、意を決してミシェルは外に出た。
水没した中心街を初めて見た時の衝撃は、今でも彼女の心に焼き付いている。
平和だった日常を失い、隣人も家族も友人も失った。
ミシェルはしばらく茫然自失としながら、サバイバルの日々を過ごした。
どうにか気持ちに折り合いをつけることができたのは、外に出るようになって五日後のことだった。
その五日後の昼に、ミシェルは飲料水を調達するため再び外へ。ちなみに当然ながら、この街を沈めた水はあの水の腕が出てくるので、飲料水には使えないし、そもそも近寄れない。なので飲めそうなペットボトル飲料などを探した。
どうにか水を調達し、家に帰ろうとするミシェル。
ふと、水没してしまった街を見てみた。
何もかもが、水の底に沈んでしまっていた。
街も、車も、木々も、人も。
水面には木屑の一つも浮かんでおらず、綺麗な湖のようだった。
その時、ミシェルは違和感を覚えた。
災害発生直後より冷静になっていたからこそ、気づけたのかもしれない。
「いくらなんでも、水面が綺麗すぎないかしら……? ゴミとか、川辺に停められていた船とか、人間の遺体の一つも浮かんでいないなんて……。それとも私が知らないだけで、津波や洪水で沈んでしまった街ってこんな感じ?」
……と、その時だった。
ミシェルは遠くの方に、一体のオオカミのマモノを発見した。
そのオオカミのマモノは、もう何日も食べたり飲んだりしていないという様子だった。身体はひどく痩せ細り、乾ききった舌を口からだらしなく垂れ下げていた。そして、水に溢れているこの街を見て、砂漠のど真ん中でオアシスを見つけたかのように水辺へ走り寄っているところだった。
その水は危ない。
そう声をかけてやりたかったミシェルだったが、自分まで巻き込まれてしまったらと思うと怖くなり、傍観に徹してしまった。
水辺に近づいたオオカミのマモノは、さっそく口を近づけて水を飲もうとする。
だがその瞬間、人の腕くらいの大きさの水の腕がたくさん出現して、オオカミのマモノを捕まえてしまう。そしてオオカミのマモノの抵抗を抑え込み、無理やり水の中に引きずり込んでしまったのだ。
そのまま、オオカミのマモノは二度と浮かび上がって来なかった。
犬やオオカミは、とても泳ぎが上手い動物だ。
単純に水の中に落とされたくらいなら、自力で岸まで辿り着けただろう。
それが、いきなり水の中に沈められ、それっきり浮かび上がってこない。
もしかすると、人間や動物、それ以外の無機物だろうと、この水に入ってしまうと、そのまま底まで引きずり込まれてしまうのではないか。
……と、ミシェルは考えたのである。
「私が提供できる情報はこれくらいかしら。どう? 何かの参考になった?」
「いやもう、めちゃくちゃ参考になりました。ありがとうございました、ミシェルさん」
そう言って頭を下げ、日向はミシェルに礼を述べた。
一度引きずり込まれたら、二度と地上には戻れない。
まさに”深淵”の名に相応しい『星殺し』だと言えるだろう。
「上昇負荷というより、上昇不可ってことか……。また厄介な能力を……」
「上昇負荷? なにそれ日向くん?」
「あ、いや、こっちの話。ともあれ、さっきジ・アビスの水の腕から逃げていた時、なりふり構わず”最大火力”で一掃したのは正解だったかもな。巻き込まれていたら、そのまま沈められていただろうから……」
日向と日影には”再生の炎”があるが、水の中で溺死した場合、復活できるようになるのは地上に引き上げられ、再び呼吸ができるようになったタイミングだ。ゆえに日向と日影にとって、溺れるほどの大量の水は一種の天敵だと言える。
ここで、今度はシャオランが口を開いた。
「ジ・アビス本体はたぶん海の中にいて、その海の中に入ったら二度と地上へ戻ることはできない……って、ちょっとヤバくない? ジ・アビスが潜んでいる水深によっては、ボクたち詰みかねないよ?」
たしかにシャオランの言う通りだ。ジ・アビスが海の深いところに隠れていては、日向たちのあらゆる攻撃は届かない。ジ・アビスが海そのものならば、潜水艦などの「海底へ行く手段」も恐らくすでに沈められてしまっているだろう。基本的に海軍の基地は海の付近に建設されているものだ。
「ふむ……。日向の”星殺閃光”なら、どうにか地上から海底まで届きそうにも思えるが……」
「それでもたぶん、あまり深い場所だとさすがに無理ですよ。それに俺は、エヴァみたいに『星殺し』の正確な位置は分からないので、狙い撃ちっていうのも難しいでしょうし」
「オレたちがどうにか生身で海底まで行って、ジ・アビスをぶちのめす……ってワケにはいかねぇのか?」
「ジ・アビスが潜む水深にもよるが……難しい話だろう。人類の潜水の世界記録は214メートルと聞くが、大西洋の最も深い場所は水深8486メートルにもなるという」
「お、オレが”オーバーヒート”で速攻かましたとしても、どうにかできそうな深さじゃねぇな……」
「そこまでの深さの場所は流石に限られているが、それでも4000メートル程度の水深なら広範囲に及ぶ海域だ。そして水圧の問題もある。水深4000メートルの場合、人間の肉体にかかる負荷はざっと400キロだ。ダイビングスーツを着ればどうにかなる、という話でもないぞ」
「そんでもって、一度海の中に入ったら、ジ・アビスを倒さない限り、二度と地上には上がれねぇ……か。厄介すぎるぜこいつぁ……」
本堂と日影のやり取りを聞いて、日向はエヴァに声をかけた。
「なぁエヴァ。ジ・アビスってけっこう深いところに潜っていそう? 正確な深さは分からなくていい、参考程度に聞きたい」
「そうですね……やはり正確な深さはまだ分かりません。ですが……かなりの距離を感じます。相当深いところにいるのは確実です。単位は、ええと……数千めーとるは確実かと」
「了解、ありがとう。……あーもう、いよいよ大変なことになってきたなぁ」
このままではジ・アビスと戦う以前に、ジ・アビスのもとまで辿り着くことができそうにない。相手が手出しできない場所で引きこもるというのは、ある意味で最強の戦法の一つかもしれない、と日向は思った。