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 あなたはしばらくなにも言えなかった。

 ちぐはぐな下着姿で静かに揺れている先輩は、もう救われない。

 というか、もし救われるのだとしても、あなた自身が、その彼氏と先輩がハッピーエンドとなる方法を考えることなどありえない。

 その男と結ばれたとして、そのハッピーエンドは本当にハッピーエンドなのか。そのようには思えない。その男に先輩は任せられない。あなたが目の奥で達している結論だ。

 そんなのは先輩を救うことにはならない。それでは結局先輩は救われない。

 ……あなたはまだ何も言えないでいる。その姿を先輩は大きな瞳で映し、もう一度、「ゴメン」と言った。そして、

「わたしを抱けばいいよ。君にとってはそのための時間旅行でしょう?」

「でも……」

「お願い。わたしにとっても君と触れ合えるラストチャンスかもしれない。思い出がほしいの。せめて、この時間旅行をしてよかったなって思える思い出が……」

 上目遣いの瞳が恐ろしいほどの幽艶さを帯びる。さっきまで健康的なさわやかささえ湛えていた彼女の裸が、みるみる湿り気を帯びて色を増し……頬はまるで娼婦が男を誘うかのように紅潮し、性別に、男に対しての女がある意味を、彼女は今、全身であなたに伝えている。

 そんな自分を燻らして、先輩は一言「して……?」と呟いた。

「わたしはもう、この時間に閉じ込められたまま、自分でもどうなっちゃうのかわかんない。実際の時間にいるわたしがどうなっちゃってるかもわかんない。……わたしはこのまま消えちゃうのかもしれない。だからお願い。わたしに最後の思い出をくれることができるのは、多分、君なんだよ」

 彼女はまるで、さっきのあなたがそうしたのをトレースしたかのように、あなたを押し倒してもつれた。今度は彼女が上。あなたが下。

 彼女の唇が、あなたを求めて重なって……頬であなたを感じながら、きつくあなたを抱きしめる。

「初めから君が好きならよかった。それに気付ければよかった……」

 あなたに添うその姿は、まるで宝箱を開けた子供のように中身のすべてを求め、全身であなたに吸い付いてくる。

 普段なら絶対に触れることのない場所同士が触れ合うたびに、あなたはその部分がとろけてしまいそうで震えた。しかし……。

 ……あるところで、あなたは彼女の背中に手を回し、最大に密着して彼女の動きを止める。

「先輩。一つだけ聞いていいですか?」

 あなたの口の先に、彼女の耳がある。そして彼女の口の先にもあなたの耳がある。

 ムードを壊されたくないのか、あなたの声に対して彼女の声はひそひそと囁くようだった。

「なに?」

「彼氏とは、どうするんですか?」

 あなたはその瞬間、最高に空気の読めない言葉を吐いた。男が情事の間にそのような話題を出すなど、愚の骨頂以外の何物でもない。

 しかし、そんな阿呆なあなたには言い分があるらしい。答えない先輩にあなたは言葉を加えた。

「先輩。あんまりさびしいことを言わないでください。俺、確かに先輩とヤリたいです。だけど、それは俺が先輩のこと、本当に好きだからです」

「じゃあいいじゃん!!」

 先輩がありったけの声で叫ぶ。

「わたしも好きだよ!! だから抱けばいいじゃん!! もう理屈なんかいらないよ! お願いだからもう何も言わないで!!」

「先輩が、時間旅行から戻る方法を見つけてあげることはできなくても……先輩がどうすれば一番幸せかを一緒に考えることはできると思うんです」

「やめてよ!!」

 先輩の腕に再び力が入り、まるであなたを締め上げるようだ。

「わたしのことなんか、単なるヤリマンだと思ってくれればいいよ! 彼氏がいて、なのに君に抱かれようとしてるんだよ……!?」

「そんな先輩を、俺がもらってもいいですか?」

「え……?」

「俺が先輩を、彼氏から引き離します。喧嘩になっても。ぶん殴られても」

「そんなことしたら……」

「どうせ先輩は帰れないんでしょ? その彼氏と一緒にいたって先輩はまた泣くことになる」

「でも!!」

 彼女は、あなたが憎たらしいもののように爪を立ててくる。

「さっき言ったでしょ……? わたしにとって、唯一の道しるべなんだよ。あの人を追うためにここにきた。あの人を追わなきゃ……」

「俺がなればいいじゃないですか」

「何に?」

「道しるべです」

「だって、君は帰るんでしょ!? わたしを抱いて、それがかなったらいつまでも時間旅行者ではいられないんじゃないの!?」

「俺は帰りません」

「え……?」

 爪が、ゆるんだ。あなたは言う。

「この時間軸に、俺も一生い続けます」

「そんなことしたら……現実から、あなたはいなくなっちゃうかもしれないんだよ?」

「現実の先輩は、今ここにいるわけですよね?」

「……うん」

「現実の俺も、今はここにいるわけです」

「……」

「なら、俺たちの現実は、ここにあります」

 あなたは現実において、先輩よりも不満のない生活を送っている自信がある。もちろんその生活に未練がないわけでもない。

 でも、先輩がそれで救われるならいい。自分はどの生活をかなぐり捨ててでも、先輩を救いたい。その先に、先輩と結ばれる未来があるのなら、現実に戻れなくてもいい。

「あるべき現実から二人で失踪して、別の、同じ時間で結ばれる。……面白いじゃないっすか」

「……」

 あなたは先輩の背中を解放した。先輩が動きたそうにもそりと動いていたためだ。

 自由になると、先輩は少し身体を離し、今日何度目だろう……あなたをじっ……と、その目で見据えている。あなたが時間旅行者となってからすでに何度か体験しているように、この人はたまにこうなる。

「そんなこと、本当にできるの……?」

「俺、先輩と同じ時間旅行者ですけど、一つ違いがあります」

「違い……?」

「俺は、帰るのに条件が課せられていないんです」

「え……」

「だから、帰りたくなければ、帰らないことができます」

 なぜかはあなたにはわからない。先輩と自分で、どこに差があってそういう時間旅行者になったのか。

 しかし、そんな真実の探求には、あなたはまるで興味がなかった。今、目の前で溺れている彼女が見えていれば、それでいい。

「君は……それでいいの?」

「はい」

 あなたは即答した。どうやら現実の世界の、すべての関係や感情を、先輩のために本気で捨てるつもりらしい。

 ……正直呆れるけど、先輩は、その言葉に顔をうずめるようにして、長い間、泣いていた。



 あなたは想像以上に、馬鹿で愚直で男らしいようだ。

 その馬鹿さ加減は死ななきゃ治りそうにないけど、正直、あなたを時間旅行者に選んで、よかったかもしれないと今では思っている。

 さぁ、彼女を救ってやろう。そして、「あの時ヤレたかも」を、今度こそ現実のものにしようじゃないか。

 あなたと先輩は、その後互いに乱れることなく、同じベッドで手だけ繋いで朝まで眠った。

 ほとんど裸のままだ。なんかもう、青春過ぎて泣けてくる。

 厳密には先輩の方が先に起きたらしい。仰向けに眠るあなたを邪魔しないようにやわらかく肩を抱きしめて、あなたが起きる時までずっと、その横顔を見つめていた。

 あなたは、起きて少し驚いた表情を浮かべ、先輩はその慌てようを微笑わらう。

 その無邪気な笑顔を見ているとまるで生娘のようで、そしてその生娘が下着姿でいることに、あなたは「うっ……」と声を出しかけた。

 ほら、少し後悔しているだろう。あなたは昨日、どう考えてもこの身体を抱けたのだ。挿入の瞬間が否応なく思い浮かび、思い浮かべばあなたの欲望ははちきれそうになった。

「おはよう」

 それには気付かず微笑む彼女。間違いなく、今何をしても許してくれるだろうけど、あなたは息を止めるつもりでそれをこらえる。本当に馬鹿で生真面目な男だ。

「おはようございます」

 を言う声も上ずっていて、先輩の顔をさらにほころばせてしまっている。まぁ彼女が幸せそうにしているのは、あなたにとってもいいことなんだろうけど。


 さて、しかし実際、あなたに何ができるのか。

「彼氏に連絡とってください」

 ホテルで朝食を取って、チェックアウトを済ませた二人。どこへ行くでもなく、しばらく街の景色に溶け込みながら歩いたところで、不意にあなたはそう言った。

「どうするの?」

「俺が別れてくれるよう、頼みます」

「え、そんなのダメだよ……」

「だって、先輩見てる限り、絶対に気持ち引きずると思うんです」

「そんなことない。わたしはもう、君を信じることに決めたんだから」

 そうだろうか。

 いや、信じてくれたことを信じられないわけじゃない。しかし、先輩は決して、押しに強い女性ではないと、あなたは思っている。

 おまけに相手は堂々と不倫をするような男だ。面の皮が厚いことは間違いない。

「大丈夫だよ。もともとのわたしは、あの人と別れてるんだよ?」

「俺に、なにか手伝えることってないっすか?」

「……」

 彼女はしばらく口をつぐんだ。

 空は今日も青空だ。そういえばあなたに親からラインが飛んできたけど、「部活のヤツと遊んでる」と書き捨てて、後はそのままにしている。

 後の事情とかどうでもいいから、ホントに黙っててほしい。今は先輩だけだ。

 この先輩と共に生きていくには、まず不倫している男との関係を断ち切ってもらわなけばならない。

 どんな男なんだろう……。ひょっとすれば、面と向かって争うことになるかもしれない男だ。ここに来て、男のスペックが気になりだすあなた。

「ちなみに、先輩の彼氏って、どんな男なんですか?」

「ちょっと年上で……」

「どれくらいです?」

「今年二十四歳だね」

 すると社会人か。まぁ結婚しているのだ。学生とは考えにくい。

「背は、君より少し高くて……小さなことにも気を配れる人」

 そうだろう。でなければ男の不倫など速攻でバレる。

 気になっているのは、彼女が別れ話を切り出したとして、すんなり別れてくれるかだ。

 おととい、彼氏は深夜に電話してきて、それが通じないとなると家にまで押しかけてきた。その粘着ぶりと男の面の皮の厚さ。先輩では押し切られてしまいそうな気がする。

 先輩は別れたことがあるから大丈夫って言ったけど……その時の現実よりも、男と先輩の関係は深くなっているはずであり、正直、自分の観測では不安しかない。

「あと……男の人相手だと、かっとなると手が出る」

 うわ……しかも出た。そういうパターンか。

 殴られた記憶など小学校から先、ない気がする。どうなる?……どういうことになる?……あなたは少し血の気を引きながら、さまざまなシミュレーションを頭の中でし始めた。

「だから、いないほうがいいと思う。大丈夫だよ。わたし、頑張ってみるから」

「俺、昨日言いましたよ。ぶん殴られても先輩と彼氏を引き離すって」

 呼吸を浅くしながら、言うことは言うあなた。なかなかかっこいい。

「……」

 あてもなく歩き続ける先輩とあなたに、また無言の時間が訪れた。先輩はなにかに葛藤している。あなたは、頭の中で、したこともない戦いのシミュレーションに没頭している。風景なんて何も見えやしない。

 どれくらい歩いただろう。っていうか、ここはどこだ?とにわかにキョドる街が二人を包んだ時、先輩が、少し申し訳なさそうな声を上げた。

「……じゃあ……彼と話す時、隣にいてくれる……?」

「……はい」

 ほら、やっぱり先輩も不安なんだ。強がっていても、内心は不安でたまらないはずであった。

 じゃああなたはどうすればいい?……今から必要なのは、ボクシングジムへの入門か。

 ……そんなことばかり考えているあなたは、それでも先輩に目を配して、とにかく自分を奮い立たせようとしている。

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