時
「ゴメン」
あれから少しの時間が経った。彼女は下着のまま、あなたに密着するように肩を寄せて座る。
「……続き、する……?」
あなたはほんの少しの苦笑いを浮かべて、小さく首を振った。彼女は心底すまなそうな顔をする。
「ゴメンね。わたしが変なところではちきれちゃったから……」
「先輩」
あなたは隣で顔を伏せてしまった先輩の手を取って、自分の膝に乗せる。ちなみにあなたも下着姿だ。ほとんど何も着ていない男女二人が、身を寄せ合って……
まるで、世界が終わって、二人で呆然としているかのように座っている。
「俺、ホントは先輩を抱きたいです……」
そのような荒野の片隅で、ポツリと、あなたは世界にたった一人残された女性に、今発することのできるもっとも純粋な言葉を吐いた。そして黙る。
しばらくして、少しだけ顔を上げ、あなたを見上げた彼女。その瞳があなたのそれと重なれば、あなたは言った。
「でも、多分今の先輩を抱いても、先輩はまた泣きますよね」
「……」
「俺、ホントはちょっとズルしてるんです」
「え?」
「俺は、時間旅行者です。なんでかわからないけど、それに選ばれて……過去に戻って『あの時ヤレたかも』っていうのを検証しに来ています」
つまり……と、あなたは続けた。
「ずっと後の俺がこの時間を振り返った時、先輩とならヤレるかもしれないと思ったってことです。そんな理由で……また先輩の前に現れました」
「……」
「だから、優しくもなんともない。先輩ならクリアできるって思ったから来たんです」
「……」
あなたは今、なぜそんなことを告白してしまったのだろう。言ってもその前までタイムリープすれば先輩は覚えてないと思っているのだろうか。
そもそもヤるだけヤろうと諦めたわりには、あなたには矛盾点が多すぎる。ただヤリたければ、続ければよかっただけの話だ。先輩は多少涙で頬を濡らしていたかもしれなくても、決して拒絶はしていなかった。表にしても裏にしても、彼女はあなたの思うままに身体を開いただろうに……。
まだ、彼女を救いたい……そう思っているのかもしれない。彼女の涙を見て、またそう思ったのかもしれない。
まったく……先輩も大概だが、あなたも相当手に負えない。
彼女は、タイムリープという、特殊な言葉や状況には一切触れなかった。かわりに呟く。
「わたしって、そんなに軽く見えた?」
「違います」
あなたは即答。その勢いは、なぜかちょっと怒っているくらいにも見えた。
そして言葉を、引き寄せた彼女の右手に向けて語りだす。
「俺、本当の学生の時、先輩に何も言わなかったことをずっと後悔していたんだと思うんです。そして、なんとなくですけど……先輩も俺に好意を持っていたんじゃないかってことを、後になって気付きました」
一つ呼吸を置くあなたの話は続く。
「だから……今の俺が、……いろんな事が分かった今なら……、先輩に全力で向かっていったら……うまくいく気がしたんです。てか、うまくいくようにしたかった。それを試せる機会だと思ったから来たんです」
「……」
「目的が目的だったから、まず抱いてやろうって気にもなりましたけど……でも、先輩を泣かせながらみたいな、後味の悪い抱き方を、俺はしたくない」
だってそれが、俺と先輩の永遠の思い出になるわけじゃないですか。俺、あの時は先輩となんにもなかったけど、この思い出を大事に思っているんです。
……言葉が……いままで、たまり続けていた先輩への想いが、長く長く……綴られていく。
「俺は、戻ってきてみて、改めて本当に先輩が好きだったんだなって気付かされました。先輩はほんと素敵でした。俺、さっきベッドから俺を見上げてた先輩見て、もう感激過ぎて死ぬかと思いました」
抱きたい……抱きたい……抱きたい……抱けるなら今だって抱きたい。だけど……
「……そんな先輩との思い出がこんな風に崩れるのは、俺は嫌なんです」
「……」
彼女は、再びあなたの胸に飛び込んでくる。あなたが座っているのに無理やり身体をすり寄せたからバランスが悪い格好だけど、そんなことを彼女が気にしている様子はない。
「……やっぱり優しいじゃん……」
彼女の手はあなたの肩から背中へ、どうも収まりが悪いのか、いろいろなところを行き来しているが、気付いたあなたが左手で彼女の頭を支え、右腕で形のいい腰を支えると、まるで二人は一つのオブジェクトのように安定した。
「……しよう? 続き……」
胸にうずくまる彼女の声がする。
「わたしとやりにきたんでしょ? させてあげる。いくらでも……」
「……」
「もう泣かない。わたしも気付いたよ。わたし……君のことを一番好きになるべきだった」
「先輩」
「もう何も言わないで。わたしでいい?」
「待って、先輩」
あなたはどれだけかっこつけるつもりか。ふさりと落ちた彼女の髪をかきあげて小さく覗く頬を見ながら言った。
「俺は欲張りなんです。先輩がそこまで言ってくれるのなら……今日、一夜限りは嫌です」
「……」
「あの男から、俺は先輩を引き離したい。必ずそれをして……先輩にちゃんとした未来を約束してから、抱かせてください」
「……」
「そしたら俺、安心して元のところに帰れます」
「あのね……」
彼女はふと、別のことを言い出した。
「そんなことをすると、わたしが帰れないの」
「え……?」
「君は、自分が時間旅行者だっていったよね?」
「は、はい……」
「実は、わたしもなの」
「えっっ!?」
「わたしも、過去を振り返ってる人間なの」
先輩、うってかわって静かな口調である。あなたから離れ、再び顔を見て話しやすいところに戻ると、あなた以外誰もいないのに、まるで幼児が秘密を打ち明けるかのように、小さく、不明瞭に話した。
「じゃあ先輩もヤりに?」
「あはは、それは違うよ」
「ですよね」
女の人は「あの時ヤレたかも、ヤっとけばよかった」なんて感情は存在するのだろうか。あなたはそんなことを思いながら、「じゃあなぜこの時間に……?」と訊いた。
「うん……」
先輩はこっちを見ているのに、とても遠い目をして、ベッドの上にへちょりと座りなおす。色っぽく感じる時は服越しに胸が揺れるだけでも内臓がムズムズするのに、ちぐはぐな下着姿の先輩はいつものように健康的で、不思議といやらしさがない。
「本当のわたしはね。今の彼氏と別れたんだよ。別の人とも付き合ってるって知ってからいろいろ君と相談した後に……ね」
でも、その後の彼女の後悔は深かった。付き合った人がいないわけではない。結婚話さえ出た。でも……
「後悔を、なくすことができなかった……」
その目はあくまで遠くを見つめている。あなたを見ているようで見ていない瞳。その向こうに、先輩は例の不倫男を描いているのは、問い正すまでもあるまい。
「ずっとね。ずっとずっとずーーーーっと……あの人のことばっかり考えてたんだよ。そしたらある時、急に引きずり込まれた」
引きずり込まれた……普通の人には突如不明な言葉が飛び出してきたように思えるかもしれない。しかしあなたは「あぁ……」と理解を示した。
なぜなら、あなたも同じように、突如引きずり込まれたからだ。
「その時にね。誰かの声がしたの」
彼女は、まるで自分の頭の中をベッドの上に並べるかのようなしゃべり方をした。
あなたは今になって思っているはずだ。
「彼は、実はあの当時、わたしを選びたかったんじゃないか?」と。
そして今、あなたは気付いているはず。
「あの場面が、もしかしてわたしの人生で最大の間違いだったんじゃないか?」と。
現場にいると気付かない。過ぎ去ってみないと気付けない。だからこそ。今日は一つの機会を用意してみた。もう一度あの時に戻って……もしも戻ることができたなら……。
「……」
あなたは思ったはずだ。自分と同じだ、と。なにか不思議なことが、二人の間で起きている。
ただ彼女の場合、ほんの少しだけ話が違うらしい。
「彼氏とハッピーエンドを迎えるまで、あなたは元の世界には帰れない」
「え……?」
と思っただろう?……心配しなくていい。別にあなたは先輩とヤレなくても元の世界に戻ることはできる。簡単だ。この本を閉じればいい。あなたはVIPだからね。
ともかくも、先輩の時間旅行には、あなたと違った条件が加味されているようだ。
「でも、実際にここに戻ってきてみて、あらためて彼氏を探って……闇が思った以上に深かったことを知ったの」
まさか結婚しているとは思わなかった。現実の彼女は、そこまでを知らぬ間に別れたし、その後彼氏とはまったく別の人生を歩んだから、知る機会はなかったわけだ。
「わたし、どうしたらいいかわかんなくなっちゃって……」
いざタイムリープしてきたら、答えなんてない、袋小路じゃないか……そういう気持ちになったようだ。
彼氏とうまくいく道もない。元の場所にも帰れない。
だからなおさら、彼氏にすがりつくしかなかった。もともと過去に戻ってやり直したいくらい愛していたことは間違いないし、今の自分にとっては、彼にしか答えがなかったから……。
……そういうことらしい。彼氏の存在が唯一、彼女が生きるためのよすがとなっていたわけだ。
「彼氏が結婚する前に戻るとかは考えないんすか?」
「あのね。ここに戻ってきて、もう一つ思い出したことがあったんだ、わたし」
それが、あなただった。
「ここに戻ってきてさ。君と楽しい人生送ってることを思い出したんだよ。あぁわたし、この頃こんなに楽しくしてたんだなって……」
彼女にとってはそれが唯一の癒しとなった。
彼氏が結婚する前に戻ることもできる。だけど、彼氏がいつ結婚したのか。その前に、正妻となっている女の子といつ付き合い始めたのか……そういうのはまったく知らないし、そこまで戻った時、一体自分は何歳で、どのように彼氏に出会えばいいのかも分からない。
このタイムリープがどこまで気が利いたものなのかもわからないし、試してもっとひどい状態でにっちもさっちも行かなくなってしまう可能性を考えると、彼女は動けなかった。
だってここにはまだ、癒しがある。自分の人生で一番楽しかった瞬間が、この思い出の時間軸には、残されているのだ。
「だから、答えもないまま、わたしは君との時間を楽しんでたの」
彼氏といる時間はもちろん楽しい。多分楽しい……。
なにより胸が躍るし、彼氏に声をかけられるとその都度うれしい。
幸せだった。ちょっと乱暴に抱かれても、終わった後に髪をやさしくなでながら、ずっと隣で顔を見ていてくれる彼氏が好きだった。
でも、その恋にゴールはない。いくら求めて尽くしても、彼氏との未来は閉ざされている。
知っていながらどうしようもなかった。彼女は時間旅行のリスクを、まるで宇宙に一人残されて漂い続ける人形のように思っているようだった。
「だから……君にずっと友達でいてほしかったの……」
あなたはその宇宙に見える、たった一つの星であったのだろう。
「そして、先輩は彼氏を追いかける……と……」
「そう……」
その目はうつろに、中空を映している。
「でも、君に抱かれるってことになって、このホテルに来て……思ったの」
「なにを……?」
あなたは声には出さなかったが、そういう目をした。それが充分に先輩に伝わっている。その目に答えるように、先輩は呟いた。
「わたし、なんで彼氏を追ってタイムリープしたのかなって……」
「……」
「君は、こんなにわたしのことを想ってくれてるじゃん。こんなにやさしいんじゃん……なのにわたしはあの頃、彼氏のことしか見てなかった。何にも気付かなかった。気付けないことは後悔できないけど、どうして同じ後悔をするなら、そっちの後悔ができなかったかなって……」
一度、揺れる心を収めるために、深呼吸をし、彼女は続ける。
「どうして……君と再会することを一番に祈れなかったかなって……そう思ったら悔しくてさ……」
泣いちゃったの。ゴメン。
……その声を、先輩はうつむいてベッドにこぼした。
「君とハッピーエンドになることを祈って祈って……時間旅行者になれてたら……」
彼女の声は本当に、手の届かない宇宙の向こうで一人呟いている人形のように思えた。