返
一度整理する。
まず、先輩の気持ちが落ち込んだのはどこか。……これはもう、彼氏に嫁がいたと知った時点に決まっている。それはそれはショックであったはずだ。先輩はあなたに「彼と結婚したい」とまでは言わなかったが、夢中になっている様子はこれまで何度も示してきていた。
先輩が彼氏の話をする際、特別エロい話でもないのに彼女から香ってくる空気がエロ過ぎて、あなたの下半身を興奮させるものであったわけだから、先輩がママゴトのような子供の付き合いをしていたわけじゃないことはあなたも知っている。
それだけ真剣な想いを、はね返されたショックを、しかし先輩はしばらく誰にも明かさず、部活では明るい笑顔を作り続けた。
しかし、精神的には相当うちひしがれていた。あなたの存在は相当に頼もしかったはずだ。何度も二人だけの時間を過ごし、あなただけに打ち明ける身の上話も多かった。あなたに、安心を求めたのだ。しかし、そこに求めたのは安心だけだったのか……?
彼女の最後のセリフ、
「なーーんか、どっかに忘れさせてくれるような人、いないかなぁ……」
これがもし、あなたに期待したセリフだとするならば、そういう気持ちはあの時突発的に芽生えた心の揺らぎではあるまい。
なので、さっきも述べた通り、大胆にいってみよう。
時はファミレスを出て、街灯がポツリポツリとアスファルトを照らしている静かな道を歩いているころ。
まずここで、アプローチしてみることにする。
二人の間には、ファミレスに向かう時とはうってかわって会話がない。それだけにうすら寂しい感じではあるが、あなたも先輩もそれぞれに考え事があるため、空気がしらけていくことはなかった。
先輩はあなたの発言に刺激されて彼氏のことを。
……あなたはといえば、その思いつめた横顔をちらちらと目に映しながら、いきなり抱きしめても先輩なら許してくれるんじゃないか、とか思ってる。
これ、せっかくだから実行してみよう。飾ることのない先輩の素が分かるはずだ。
あなたはすべてが息を潜めているような路地で、小さく、「先輩」と呼んだ。
「……」
無言で振り向くまつげ。見上げる口元は、あなたよりも顔一つ分低い場所にある。あなたは勢いに任せて、こちらに向けられた身体を引き寄せた。
真夏の夜に瞬く星の元、二人の影が触れて重なる。
しばらく、そのままの時間が過ぎた。先輩は身じろぎもしない。街灯に照らされた二人がまるで舞台のスポットライトを浴びて、一つの場面を演じているかのようにも見える。
「何……?」
先輩の声が、あなたの耳元でした。努めて平静を保ちつつ、でも、ほんの少し魂が抜けてしまったような、呆然とした「何……?」を発する。
「わたし、彼氏いるんだよ……?」
「俺じゃダメですか?」
「……」
先輩は、嫌……とは言わなかった。
あなたは、耳と耳が触れる距離から少し離れ、首を傾ける。先輩の形のいい眉毛の一本一本まで見える距離で……少し驚いているその瞳。かわいらしい。
そのまま、唇を彼女に口元へ寄せた。強引かもしれないが、彼女は声も上げない。ぎこちなくあなたの力をその身に受けて、最後の最後で顎の力を抜く。
二人の肉体は今、初めてここで繋がった。
が、離れた彼女の唇が、お終いを告げる。
「……ここまでだよ……?」
そして、あなたの胸の下辺りをすっと押すと、フワリと身体を離した。
「励ましてくれようとしたの?」
「え……」
「君にはわかるんだね。彼氏とうまくいってないこと」
「……」
そんな解釈か。
きっと、彼女はあくまであなたを信用しようとしている。まさかあなたが「あの時、本当はヤレたかもしれないからタイムリーーープ!」みたいなヨコシマな考えを持って再び舞い降りているなどとは思いもしていないようだ。
しかも彼氏のことばかりを考えていた先輩は、それを基点にあなたの行動の意味を考えてしまっている。キスで励ますなんて少女マンガ的なことは男は考えないと思うだが、そこのところが女子脳かもしれない。
ともあれこのままではダメだ。考えたあなたは苦し紛れに押してみた。
「先輩が好きなんです。彼氏とそんな思いつめるような状況なら……いっそのこと、俺と付き合ってくれませんか……?」
「……」
しかし……彼女の沈黙は深い。あなたから三十センチだけ身を離したまま、今しがた新しくインプットされた大混乱と、自分のおかれている現状を整理しているようだ。
しばらく……そして……彼女はか細く、声を上げた。
「ありがとう……」
あなたは苦笑いを浮かべる。次に言う言葉がなんだか分かったから。
「でも、ごめんなさい……」
「はい……」
この距離は現状、これ以上縮まることはないだろう。
おしまい
いかんいかん。あなたには無駄をさせてしまったようだ。
あのまま半ば強引に襲ってしまっても、先輩は騒がなかった気がするし、なし崩しな展開に持ち込めたかもしれない。が、まさかこの物語のテーマ、「振り返ればあの時ヤれたかも」はそういうのを意図してはおるまい。
そんな「やれたかも」でよければ、スタンガンやナイフをちらつかせながら先輩に迫るのとそうそうかわらないのではないか。
今の先輩はその後の展開を拒否したのだ。この「あの時ヤレたかも」に「拒否されても強引に……」という意図がないことは信じたいところだ。
あくまで合意の上で、というのが前提。そこは肝に銘じて検証を続けよう。
今の検証は失敗だったかもしれないが、収穫はあった。おかげで現実のあなたでは一生味わうことがなかった、憧れの先輩の唇の味を知ったのだから。
そんなに濃厚なキスではなかったが、それでも、自分の口腔内に伸びてきたあなたの舌を、先輩は受け入れた。彼女の生暖かく濡れた粘膜に覆われた時のいやらしさを思い出せば、その興奮は今になってもあなたの下腹部まで到達する。
これだけでも時間旅行者となった価値はあったはず。
それと、こっちの方が重要だと思うが、先輩は、やはりあなたに好意を持っていると思う。
持っていない女性がシラフで抱きつかれて黙っているか?そして、"励まし"と納得したとしても唇を受けるか?……その後も平静でいられるか……?
先輩が実は相当の男好きとかでもない限り、これを知っただけでも大きな前進だ。
あなたは時間旅行者。失敗で情報を得ながら、成功への道筋を立てよう。
少し時間を戻して、さっきのシーンをパスして次に行こうじゃないか。
さぁ次はどこにしよう。いや、まずはあまり考えず、先ほどのシーンの最後の最後。……確実そうなきっかけにしよう。
あなたが必死に先輩を説得して、その必死さに彼女が触れた時。
ちょっと場面をロールバックする。
「なかなか……忘れられないんだよ……」
結婚をしていると知りながら自分の気持ちに引きずられる先輩を見て、あなたは絶句した。理屈を通り越して感情の虜になると、こうも周りが見えなくなるものか。その想いの重さは当時を振り返っている今のあなたでも経験のないことで、継ぐ言葉を見失ってしまう。
でも、とにかくなにかを言おうとした。
「先輩の人生っすから、先輩が決めたことに俺はとやかく言える権利はないと思うんです。けど、俺は、そんな先輩、嫌です」
「……」
「繰り返しますけど、その先に先輩の幸せはない。早くその関係を清算して次に目を向けないと先輩が不幸になります。ホントお願いします。そんな先輩見るの、嫌なんです」
「……」
あなたの言葉はきっと、なんの解決にもならないだろう。だって、きっと、先輩も百も承知だからだ。しかし、それでも言い放ってくれたあなたの真剣なまなざしが、彼女にとってはうれしかったのだろうと思う。
先輩はあるところで、ふと中空を見上げ立ち上がった。必要以上に明るい声で、空に向かって声を投げる。
「なーーんか、どっかに忘れさせてくれるような人、いないかなぁ……」
……ここだ。彼女がこの話題から逃げ出そうとして立ち上がったのでなければ、可能性を感じないか?
あなたはちょっと彼女に親身すぎて、何か面倒を背負ってしまいそうなきらいはあるが、ここは押しどころかもしれない。
というわけで、「忘れさせてくれる人、いないかなぁ……」と、彼女が立ち上がって伸びをした時。ここから行ってみよう。
……あなたはその背中に向けて、静かに言い放った。
「俺……どうですか……?」
「え?」
振り返り、あなたを見下ろす先輩。あなたは告白してしまった。である以上、もう気持ちは止まらない。
「俺です。その彼氏ってヤツを超える包容力とか、そういうのは全然分かりませんけど……でも、俺、先輩がソイツを忘れられるように頑張りますから」
キョロキョロと動揺している彼女の瞳。その目は、改めてあなたを値踏みしているようにも見える。
ん……?さっきの「どっかに忘れさせてくれる人いないか」発言はあなたに言ったんじゃないのか?……いや、あるいは思い得る最高の反応が返ってきたことに戸惑っているのか。
何にしても、動揺が彼女の声の周波数に出た。
「でもわたしっ……まだあの人と付き合ってるし……」
「別にすぐじゃなくてもいいんです。でも、先輩のこと、俺は好きだし、先輩は、そんな負のスパイラルから抜け出してほしいと思うし……」
「……」
「だから、俺でよければ……俺、待ちます。だから先輩も早く目を覚ましてほしい」
あなたは思ったよりも純朴なことを言う。いやしかし、それは当然かもしれない。ナンパで数撃って引っ掛けた女の子に対して「あの時ヤレたかも」みたいに思うのならともかく、こんな"青春マッタダナカ"みたいな場面で「ヤレなかった」などという禍根(?)を残すくらいだ。そもそもあなたが純朴でオクテな証拠なのだろう。
先輩は、深く感銘を受けているようにも見えた。その目に「コイツ、めんどくさいなあ」といったオーラは微塵も見られない。気のせいかもしれないけど、少し潤んでいるようにすら見える瞳が少しだけ動いて、「もう帰らなきゃ……」と言った。
それでも、「わかった、付き合う」と即答しない先輩の反応。複雑な乙女ゴコロってヤツがあなたと彼女の関係をなかなか引き寄せない。そんな先輩の性格を考えても、「ヤレるかも」なんて気持ちは早合点だったのかもしれない。
しかし、この時間旅行はもう少し続く。
寄り道した公園を出る二人。風紀委員に雰囲気を壊されなくてよかった。
さっきの、街灯がポツポツ並んでる寂しい道に戻って進むことになる。
二人とも無言だ。……でも、さっきとは違う。何が違う?
……彼女が喉の奥から燻らしている吐息。これが、ほんの少し暖かくて甘たるい。あなたはそれを、微弱ながら感じつつ、歩いている。
なによりの大きな違い。彼女は、その細い腕を、きゅっとあなたの腕に絡めているのだ。
それも、堂々と密着はせず、控えめに控えめに……まるで、くっついていることを気付かれないようにしているつもりなのかと思えるほどに控えめに、手首だけ引っ掛けているその姿。どう捉えればいいのか、微妙に分からない。
あなたはほんの少しの動揺を胸に、それを甘受して進んだ。二人とも無言だ。
なお、先輩はもともと人懐っこい性格だけど、部員の誰かとこんな風にしてる姿は見たことがない。
無意識なのか、なにかのサインなのか……あれこれと煩悩ばかりが回る午後十一時。これはひょっとしたら……とか思ってしまうオトコゴゴロ。
……やがて、いつもの分かれ道に差し掛かる。あなたは左折。先輩は直進で、お別れの時間だ。
彼女は何もなかったかのように腕を放して、
「今日はありがとう……」
「あ、はい」
ひょっとしたら……とか思っていたあなた。ほんの少しだけの動揺が「あ」に出て、すぐに「まぁそうだよな」と納得する。
「またね」
「先輩……。俺が言ったことは冗談じゃないですから。ホント、先輩の笑顔が好きだし、だからずっと笑っててほしいんで……」
「うん、ありがとう」
彼女はそれから、少しだけもじもじとしたしぐさを見せ、視線だけ少し外しながら言った。
「あのさ、さっきの返事……少し、待たせてもいい……?」
あなたの告白の返事だ。あなたはうなずき、冗談混じりに、
「もちろんっす。期待していいんですか?」
すると、彼女はにこりと微笑む。
「じゃね。今度ラインしてもいい?」
「待ってます」
そして一歩、ほんの少しの未練を香りに残して、彼女は離れる。身の軽そうな身体と白い服装は、まるで夜の闇に浮かび上がった妖精のようにすら見えて美しい。
あなたは、「ばいばい」と手を振ったその妖精が路地に消えていくまで、静かに見送ったのだった。
おしまい
…………
……
おい!!!!オマエ!!!
見送ってどうするんだ!!!「あ、はい」じゃねぇんだよぉぉ!!
分かっているか。普通に青春してたら、あの妖精は捕まらんのだよミスターデイビス君!!
あなたが今回やることはヤることだ。彼女を夢見る少女にさせとくだけではダメなのだ!
……というわけでもう一回戻そう。今回はほんのちょっとだけ。
いいか今度はうまくやれ。でないと本当にホトケビームだからな。
いくぞ?繋ぎとめる方法は思いついたか?
……えっと、腕を組んで、分かれ道が見えてきたところから。