か
しかしあなたは一つ、大事なことを忘れている。
汗と涙に濡れた顔……限りなく歪んで縮み上がっていた顔の筋肉が、あるところですっとゆるんだ。やっと気付いたか。
そう、あなたと先輩は、時間旅行者なのだ。
先輩は時間を戻す気はないのだろうが、あなたまで時間のルールに縛られる必要はない。
戻ればいい。そして、今日はあらかじめ、先輩の家の前にいればいい。
あなたはそうした。午前十時半。あなたのスマホが鳴り出した頃には、あなたはすでに先輩の家の脇に潜んでいる。
先輩と会話をし、通信が切れた時、あなたの目の前を通り過ぎて、先輩の家の前に止まったセダンをあなたは見た。
それに呼応して、玄関から吐き出されてきたのは確かに先輩だ。あなたは再び走り、車に乗り込もうとする先輩の前に立ちはだかった。
「え!?」
先輩はもちろん驚いている。今目の前で起きていることは彼女にとって、ありえないことだろう。運転席の男も多少慌てたようで、車から降りるとつかつかと二人に近づいた。
「なんだよ。今日が終わったら別れてやるって言ってんだろ」
「お前殺すぞ!!! 知らねえ複数人の男に抱かせるとか、犯罪だろ!!」
「本人が了承してんだよ」
「喜んで了承してるとても思ってんのかよ!」
「人の喜ばないことを平気でする女を、どうして喜ばせないといけないんだ?」
どこまで利己的なんだ。いや、利己的というのか。あなたの頭の登録単語数では適当な単語が思いつかない。
「とにかく、女ご無沙汰でたまってる奴らが三人も待ってんだよ。行くぞ」
「お前はそれでいいのかよ!!」
「ん?」
「お前だって先輩のこと、ちょっとは愛してたんだろ!? そんな先輩が……いろんな男にぐちゃぐちゃに汚されてもいいのか!!」
「俺の秘密を探るような女は、社会的に抹殺しなけりゃ気がすまない」
「……」
男がその言葉を吐いた時の彼女の顔……。
先輩にとって、この男との付き合いは、生きてきた中でも一番大切な思い出であったはずだ。だからこそ、リスクを冒してまで時間旅行者となった。
しかし、その結果得られたのはこの男の本性と絶望……そして今また、さらに負わされようとしている、癒されることのない傷……。
「お前……ふざけんなよ? コラ……」
その、先輩の表情が、心情が、あなたの胸の奥を激しく揺らし、その部分から黒い霧が噴出したような感覚がした。
……今まで、あなたには殺人事件の動機となる「かっとなって人を殺す」という感覚がよく分からなかった。
しかし、今なら分かる。自分に力があれば、この男を殺したい。死ぬまでぶちのめしてやりたい。
衝動的だった。あなたは大して人など殴ったこともない拳を、湯気が出るほど握り締め、力の限り振り上げる。
ガツッという音がした。
完全に奇襲となったその一撃は男の顎の根元を捉え、脳を揺らす。
ぐらりと崩れ、男は片膝をついた。しかしあなたも計画性があったわけではない。次がノープランだった。
「野郎!!」
ぼぉっと突っ立っていたあなたに一瞬で組み付いた男。あなたは鈍器のような膝で腹を思い切り打ち抜かれる。内蔵が割れたかと錯覚するような痛みが胃を貫いて、あなたは地面に突っ伏してのた打ち回った。
男は無抵抗となったあなたの身体を、さらに何度も踏みつける。
そのままあなたを殺してしまいそうな勢いの男に、飛び込んだのが先輩だ。
「もう行こう!」
「殺さなきゃ気がすまねぇ!!」
「わたしの家の前だよ!? これ見られたらさすがに傷害罪だよ!?」
「……」
「今からあんたたち、お楽しみでしょ? いいの!? 警察沙汰になって!!」
男は説得されたようだ。黙って先輩を助手席へと放り込む。
そして……図らずもさっきと同じような構図となって、あなたの前から車は去っていった。
しかしあなたは諦めない。
「時間旅行者、ナメんなよ……?」
と、アスファルトに突っ伏したまま息巻いている。
喧嘩では勝てない。このままでは先輩は救えない。
……しかし、あなたは、諦めない。
今の場面に包丁を持ち込むことはできる。しかし、それが先輩を喜ばせ、自分を満足させる未来に繋がらないことも理解できる。
まず、情報を集めよう。どうしようもなければ包丁だ。……あなたの頭はそういうツイートを残して、時空を飛んだ。
もう、「あの時ヤレたかも」などという主旨からはまったく外れて、あなたはその後、いくつかのタイムリープを繰り返す。
例えば、今の時間にあらかじめタクシーを呼んでおき、彼の車を尾行して、先輩がどこへ連れて行かれるのかを把握してからタイムリープ。
連れて行かれたアパートを下見してタイムリープ。
情報を聞くために、先輩と二人きりで話せる場面にタイムリープ。
……そしてさまざまな情報を集めていくうちに、あなたは面白い情報を知った。
さぁ、復讐タイムだ。
状況を確認しておこう。
今は犯行当日の土曜日、午前十一時十五分。先輩がひどい目にあうはずのアパートの前に、あなたはいる。ちょうど先輩がアパートに連れてこられる時間である。
ほら現れた。パールカラーのセダンがアパートの前に止まり、中から男と先輩が、それぞれのドアから降りてくる。
ちなみにこのアパートはあの男の家ではない。当たり前だ。家には、愛する妻が、愛するお子様と一緒に待っておられる。女一人を裸にひん剥いて、乱交なんてできるわけがない。
ここは、この前の日……つまり、先輩が男に別れ話を切り出した夜の内に、男が「憂さ晴らし」と称して、飲み仲間を誘って飲み明かした時、話を聞いて「ヤっちまおうぜ」と乗ってきた三人のうちの一人の家だ。二十三歳、ワンルームの一階に一人暮らし。まぁ、提供場所としては最高の条件なのだろう。
そして"男優"として、すでにアパートで待機しておられる他の二名は、いずれも妻子もちのオジサマたち。
そして、この部屋には盗聴器が仕掛けられている。お住みになっておられる二十三歳の男は非常にずぼらな性格であり、一階だというのによく窓を開け放ったまま部屋を出て行くため、仕掛けるのは簡単だった。
ただし、今日だけはさすがに後ろめたいことをするという認識はあるのだろう。窓は硬く閉じられ、ドアにはチェーンまでかかっている。
それをすべて知っている。つまり、今、ここに至るまで、あなたはいくつもの失敗を繰り返し、ようやくここにたどり着いた。ミスを恐れることはない。何度でも時間を戻せばいいのだ。
ところで、あなたはタイムリープを繰り返し、その仕組みに気付き始めている。
まず、この世界は現実とは繋がっていない。現実とは時間軸を別にするもう一つの現実であり、時間の流れはたった一つしかない。
タイムリープをするとその時々の"本人"に戻るため、複数の同一人物が同じ時間ですれ違うということもないし、未来が存在しないから過去にしか戻れない。
つまり、あなたが時間を戻している限り、彼女は蹂躙されることはない。ついでを言えば、あなたが未来に戻らないのなら、本当に現実では失踪してしまうことになる。
それを飲み込んでなお、あなたは先輩が堕ちて戻れなくなったこの夢の中で、彼女と共に生きようとしている。
そして、過去にしか戻れないルールに耐え、あなたはただひたすらに似て非なる時間を繰り返し、莫大な時間を経て、今、ここに戻ってきたというわけだ。もはや執念。
絶対に先輩を救う。……あなたは今、そのために生きている。




