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その日は昼頃、一度別れた。
夏休みも終盤である。が、時間旅行者であるあなたにとって、夏休み明け、という概念が心底どうでもいい。なんなら学校辞めてもいいくらいだ。
が、この時間軸で生きていくとなれば、あまりいい加減なことをし続けると人生が詰む。
先輩とうまくいった時にはムショ暮らしでした……とか洒落にならないわけで、まぁともあれ、あなたはこの世界で、ちゃんと生きなければならない。
その辺に面倒くささを感じながら二日後の昼時、あなたのスマホが、先輩のメッセージを受け取った。
『今日の夕方、出てこれる……?』
いきなり出番らしい。あなたは時間と場所を聞いて、準備をした。もちろん心の、だ。
相手がどのような男なのか、先輩の情報だけではイメージが掴みきれない。対応しきれるのか。
……しかし先輩だけでなく、なにげに自分の人生がかかっているのだ。何とかしなければいけないという気持ちは堅い。
あなたは胸を高鳴らせながら、その時を待った。武者震い?先輩の身体をまさぐっていた時とはまた別の血の沸騰が、あなたの内臓に余計なカロリー消費を強いている。
決戦場は、いつも先輩と部活帰りに行ってたファミレス。
それを聞いてやや安心するあなた。そんな場所である以上、そこまでの大惨事はないだろう。
もっとも、そういう場所を選んだのは先輩の配慮だったのだと思うけど。
……相手は社会人だから、夕方といっても日の暮れた後だ。
午後八時……先輩は店員に誘導されたテーブルまで行くと、あなたに隣に座るようお願いし、自分も席に着く。
「いてくれるだけでいいから。話はわたしがするから」
言う彼女の表情はあなたよりも硬く見える。先輩の見立てでも難航が予想されるのだろう。それとも、好きな男を断ち切る覚悟の表情なのだろうか。
あなたは気を聞かせて、ドリンクバーから先輩がいつも一杯目に選んでくるホットココアを注いできた。「ありがと」と言う先輩にはやはり余裕がない。
もっともそれはあなたもそう。今ここに脂ぎったパスタなどが運ばれてきたら、えずいてしまいそうだ。
時間が経つほどに、いつもの平和なファミレスが、まるで処刑場のように見えてくる。その"処刑場"で……先輩とあなたは、まるで今からギロチン刑に服すような面持ちで、色味のない時間をすごしている。
先輩はふと……あなたの膝に、自分の左手を預けてきた。あなたはその、細くて小さな手の上に、自分の右手を添える。
そんなので安心できるのだろうか。先輩の表情は、固いままだ。
とうとうその男は現れた。
二十四歳。社会に出ているためか、なんというか貫禄がある。女子は同学年の男がすごく子供っぽく見えるというから、これくらいの雰囲気を持っていると、男として頼もしいのだろう。
まぁしかし、学生という立場から見上げれば威風堂々と見えて萎縮してしまうのかもしれなくても、くどいようだがあなたは時間旅行者だ。心はただの小僧じゃない。
仕事帰りのようだが、職場がそれほど厳格ではないのか、ジャケットは着ているものの全体的にはラフなイメージで現れる。
顔は悪くないけどしゃくれた顎がやや鼻につく、確かにちょっと喧嘩っ早そうな男だった。
それが、先輩の雰囲気と隣のあなたに、ただならぬ空気を感じたらしい。にやけ気味に現れた表情が、やや険しくなる。
「どうしたよ?」
話したいことがある。会って話したい。先輩が彼氏を呼び出した文言だ。それに対する「どうしたよ?」なのだろう。
続いて彼氏はあなたのほうを指し示して、
「こっちは?」
「うん……」
先輩がいつもの特徴ある相槌を打ち、彼氏が座るのを待つ。そして、少しうつむいて唇を開いた。
「別れたいの……」
「どういうことだよ」
「好きな人ができた……」
男は目だけを動かし、あなたを一瞥する。そして目を先輩に戻した。
「お前さぁ、それってすげぇ裏切りだと思うんだけど、人間としてどうなの?」
「ゴメン……!!」
ちょっとまてよ。……あなたは思ったはずだ。この男は結婚していながら先輩と付き合ってるじゃないか。
現に、あなたは身を乗り出して口を開きかけた。が、テーブルの下で先輩の左手がそれにストップをかける。そして、言った。
「もう、決めたの。ごめんなさい……」
「お前さぁ……そんな理屈が通るかよ」
そしてあなたのほうも見る。
「俺、コイツと付き合ってんの。だから諦めてくれる?」
「お前な……」
あなたは、怒りなのか興奮なのか……一度大きく胸で息を吐き、再び左手でとめにかかった先輩をちらりと見ることで勇気を得て、切り出した。
「いい加減にしろよ」
「あ? 声が震えてんぞ。怖えのか?」
「ああ、怖えよ。だけど、それ以上にムカつくんだよ!」
一世一代の勇気を振り絞るあなた。
「先輩がどんな気持ちでこの別れ話を切り出してると思ってんだ!」
「やめて……」
先輩が本格的に止めにかかる。
「お店の中だよ」
「はい……」
あなたは素直にうなずいて、声のトーンを落とす。
「だれのせいでこんなことになってると思ってるんだよ」
「てめえが横槍入れたからだろうが」
「違えだろ」
あなたは、立ち上がってテーブルに両手をたたきつけたい衝動を必死にこらえながら言った。
「結婚してんだろ? お前」
「は……?」
彼氏は一瞬、刃物を首に突きつけられたような顔をする。先輩も同じように、一瞬ものすごく気まずそうな表情を浮かべたが、観念したように、
「ゴメン……偶然知っちゃったの……」
実際は、偶然ではあるまい。彼女は彼と結ばれるために時間旅行を行ったわけだから、当然さまざまな方法で探りを入れたのだろう。
今度は彼氏の声が血の沸騰で震えている。
「お前、頭おかしい女だったんだな。偶然知れるわけねえんだよ」
断言できるほどに周到だったのだろう。この男の神経質さが自信となって覗える。
「俺をつけてきたか、スマホのパスワード割ったか……なににしても、そんな女だったんだなぁお前……」
「それは逆ギレだろ。いい加減にしろよ」
「てめえは黙ってろ」
男に一種、殺気のようなものがこもる。意味があるのか分からないが、テーブルに拳骨を押し付けて、それに力を込めてにじらせている。彼なりの威嚇なのか、それとも怒りの捌け口としているのか。
「いいよ。別れてやる」
まるでその声は、青筋の立ったこめかみから聞こえてきたようだった。
「だけど、人の秘密穿り出すような真似しやがったことは、人間としてゼッテェ許せねえ」
この男は本気で、自分が自分のことを棚に挙げていることに気付かないのだろう。すべての非は、彼女にあるように言った。
「お前のせいで俺はもう、消えねえ傷を負ったよ。あぁ人間不信だよ。俺に純粋な心を返してほしいね」
「……」
「できねえだろ、そんなこと。だからお前にも消えねえ傷を負わせてえわ」
「……おい」
あなたが割って入ろうとするが、男は止まらない。
「そうだな。お前でAV撮らせろよ。仲間も呼んで盛大にパーティした動画を一生残してやるよ。それが交換条件だ」
男は、何も口を挟ませない勢いで立ち上がる。
「準備したら連絡するからな。シカトこいたら家まで押しかけるからな」
この間、二人は何も言い返せない。男はそれだけ病的な威圧感を持っていた。
一方的に言葉を叩きつけた男。最後のバンッとテーブルに拳を打ち付けると、足を踏み鳴らして去っていく。
後には、大型の台風が残した爪痕のように、目いっぱいの気まずい空気が店内全体に漂っていた。
二人はしばらく声も出ない。
「ゴメン……言っておけばよかったね。彼、潔癖症だから自分の落ち度とか指摘しちゃ、絶対話がこじれちゃうんだよ……」
なんてエゴだ。落ち度だらけの男が、自分の落ち度に逆ギレ。あれほどに自分のことを棚に挙げて人を糾弾できる自信。……どんな生き方をするとああなるのか、ちょっと知りたくもなる。
しかし、先輩に作りたい流れがあったのなら、それを崩したのは明らかにあなただった。それを重々承知しているあなたは男の悪口を言っている場合じゃない。
「ごめんなさい……余計なことをしました……」
ちなみにあなたたちはもう店にはいない。いられなかった。
災害の原因であるかのようにそそくさと、逃げるように会計を行って店を飛び出した二人はとりあえず家への道を歩いている。
「ホント、俺のせいで余計に話をこじらせました」
先輩は「いいよ」と微笑む。
「わたしだって言ってやりたかったんだもん。ちょっと気持ちよかったよ」
「スミマセン……」
「いいってば。君がいたから、わたしは今日ここで別れ話を切り出せたんだから」
「先輩は、あんな男が好きだったんですか?」
「あれがなければいい人なんだよ。これはホント」
それに、実はタイムリープしてくる前の彼女は、彼のそういう側面をあまり知らなかった。なにせ傷が深くなる前にうまいこと嘘をついて、別れてしまったわけだから。
「AV……」
あなたはポツリと、無視をできない言葉を吐いた。彼女の表情が曇る。
AVを撮らせる。
世の中にはリヴェンジポルノという、男気のかけらもない悪習が横行している。画像や動画をだれもが高画質で記録できるようになったのと、それを簡単に世界に配信できるようになったのはとても便利なことだと思うが、そのせいで、だれもがAV嬢として世界にデビューしてしまえる世の中となった。
確かにそんなのを世界中にばら撒かれたら、女の子にとっては一生の傷として残ることになるだろう。
先輩は、こっちを見ずに言った。
「たぶんね、あの人も、頭が冷えればそこまではしないよ。だって……」
わたしのことだって……、ちゃんと愛してくれてたんだから……。
彼女はその言葉を飲み込んだ。だけど、あなたにはそう言いたい先輩の胸の内が分かった。
信じたい。せめて、それを信じていたいという気持ちが、ありありと顔に浮かんでいた。だからこそ、あなたも胸が苦しくなる。
「もし、彼氏から変な連絡があったら、必ず俺に教えてください」
「……」
彼女は何も答えない。
代わりに、彼女は帰る方向とは少し違う方向を指差した。
「これからちょっと公園で遊んでいかない?」
「公園?」
「ブランコしたい」
その意味はよく分からなくても、あなたがそれを拒絶するはずはなかった。




