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 あなたは今になって思っているはずだ。

「アイツは、実はあの当時、俺のことが好きだったんじゃないか?」と。

 そして今はもう童貞じゃないあなたは気付いているはず。

「あの場面って、もしかしたらヤレたんじゃないか?」と。

 現場にいると気付かない。未経験だと気付けない。だからこそ、今日は一つの機会を用意してみた。もう一度あの時に戻って……もしも戻ることができたなら……。


 あなたの隣に今、ひとりの女性がいる。同じ部活の、比較的仲のいい先輩だ。ちなみに名前はわからない。"あなたの"先輩だからだ。それぞれに違ってしかるべき。

 背はあなたより小さくて、はつらつとした笑顔のかわいらしい先輩。

 隣に並んだらあなたのほうが年上なんじゃないかと錯覚するけど、それでもあなたが「あ、先輩なんだな」と思える瞬間がある。

 なんていうか、恋の話となると、急に大人っぽいんだ。

 なんだろう。別にエロい話になっていくわけでもないのに、先輩が自分の恋愛話を始めると、こう……ピンク色の甘い空気が吹き出してくるというか、先輩の、普段は見えるはずのない肌の色が透けてくるというか、とても艶めいて見えてくる。

 あなたはそんな先輩と帰る方向が一緒なのだ。部活が終わるともう暗いし、人懐っこい先輩は誰かと帰りたがるから、自然、よく誘われる。

「今日さ、ついでにご飯食べに行かない?」

 そういうこともある。お互いに共働きの親はこの時間までいないことなど普通で、大人になるにつれ、夕食を用意していく頻度も減っていった。だから学校からの帰りがけ、二人で地元のファミレスに行くことも多かった。

 でも、付き合ってたわけじゃない。男女二人きりでファミレスとかにいれば普通に勘違いされるけど、あくまで彼女は先輩。あなたはあなた。

 二人きりなものだから、普段皆の前ではできない恋の失敗談や、恋愛相談にもなったりする。特に先輩にとっては男の意見というのが貴重らしく、男性心理を聞きたがっては、「なるほどぉぉ……」と深く納得したりしていることもしばしばだ。

 それで話が途切れれば、「好きな人はいないの?」とか聞いてくる。

 あなたはそのつど困っている。身の周りには今、そんなにぱっと輝く女性はいないのだ。いや、強いて言えば……。

 あなたの目は先輩を映した。

 目の前で微笑ってる、まるで無防備なお姉さんの姿。

 ……でも、無防備すぎるからわかるのだ。この人の心はあなたに向いているわけではない、と。


 現に、彼女には付き合っている男がいる。

 彼と笑ったり泣いたり……そのためのアドバイスを、あなたは求められることが多かった。

 そういう恋話をしている時のしぐさや言葉、吐息が、いつもなまめかしく、繰り返すけどあなたは何度もそれらの話に股間を刺激されている。

 だけど理性的なあなたはもちろん、すべての空気を無視して先輩に狼藉を働いたりはしない。大事な先輩だし、下手なことがあれば活動している部活全体の雰囲気を壊してしまうだろう。

 好き嫌いとか性欲とかと、この先輩はまったく別の次元に生きている人だったし、だからこそ、あなたは実際にこの時代を生きていた当時、気付けなかったのだと思う。

 先輩も、一人の人間だし、女であったのだと。

 今はそれを、少し大人になった目で見ることができる。

 さぁ、行こう。……もう少しだけ、あの頃の風景を思い出しながら、今度こそ、先輩に全身でぶつかってみようじゃないか。


 暑い季節になった。

 むせかえる暑さが、部活動に大量の汗を強要して目にしみる。しかも夏休みとなると、放課後という概念が消え去って活動は真昼間となるため、照りつける太陽に殺されるんじゃないかと思うこと受け合いだ。青春とか言うけど、文字に春を当てている意味がよくわかる。この暑さ、青春なんて感じている暇など微塵もない。

 それでも、あなたはまじめな部員だ。暑さにぶちぶちと愚痴りながらも活動日にサボることは一度もなく、やることもしっかりとこなして「おつかれさまです」という一言を忘れなかった。

 そして、校門を出て振り返ると、隣には先輩が、あなたの肩の向こうからあなたを見上げている。そんな日々。

 駅まで徒歩で、たまにどっちかがスイカにチャージして、今日もいろいろな話をしながら電車に乗る。もはやあなたは、彼氏以外では彼女のことに一番詳しい。なんなら彼女の生理の日までもを把握している。

 そういえば……最近、彼氏との話がめっぽう減ったことに、あなたはあるところから気付いていた。


 その日は夏休みも終わりが近づき、特殊シフトであった昼間の部活動が「今日で終わり」ということになった日だった。

 ついでに、上級生は今日で引退。先輩も引退する。

 そういうこともあって、部活後、部員全員で軽い打ち上げのようなものをし、だいぶ遊んでだいぶ騒いで、夜もとっぷり暮れてからの解散となった。

 店を基点に三々五々、放射状に散っていく部員達。先輩とあなたは、はじめこそ何人か同じ方向の仲間がいたものの、電車に乗って駅を降りる頃には、やはり二人となる。

「疲れたね」

 駅の階段を降りきって、小さな伸びをした先輩は言った。あなたも気持ち的にはようやく喧騒を離れ、故郷に帰ってきた気分だ。

「ちょっとだけお茶飲んでく?」

「あー、いいっすよ」

 いつものことだ。さっきも言ったとおり、ようやく定位置に戻ってきたようで、あらためてくつろぎたいという空気が先輩から感じられたし、それはあなたも望むところだった。彼女とあなたは血液型がどうのという話をしながら、いつものファミレスに入る。

 ここまでは、いつもの調子の先輩だった。


 ドリンクバー。

 あなたはあなたの好きなドリンクをテーブルに置き、先輩の向かいに座る。

 外は夜だというのに、いまだ暑さの残る空気がうっとうしく纏わりつくようで、ファミレスの食欲をそそる匂いを運ぶ空気は、まるで別世界のように澄んでいた。

 そのような空気の中で見ると、女性の夏服はとても清潔感があって美しい。露出している腕や首筋がすっとなめらかで、あらためて先輩のことをきれいな人だと感じられる。

「なんか、やっと帰ってきたって感じだね」

 先輩は、さっきあなたが思っていたようなことを口にした。

「こうなると……」と、あなたを起点にして、テーブルを囲むように手を広げて、

「安心するわ」

 言って微笑む。あなたは尋ねた。

「先輩は今日、遅くても大丈夫なんすか?」

「うん。今日は誰も帰ってこないの」

「帰ってこないとか、あるんすね」

「昨日から三日間出張」

 母親の話だ。父親の方は単身赴任でもともと月に一、二度しか帰ってこない。

 兄はすでに家を出ているから、家に帰っても「だーれもいないの」らしい。

「そっちは遅くても大丈夫?」

「はい。俺はもう何でもどうでも」

「そう?」

 先輩の雰囲気がふわりと明るくなった。明日は部活もない。これは暇つぶしを見つけたぞ、といったところかもしれない。

 しかしあなたも彼女と二人でいる時間は楽しい。だから普段は決して「こういうのって彼氏の役割じゃないですか?」などとは口にしない。彼女が話題を挙げるままに、他愛のない話でだらだらと盛り上がる、この時間があなたは大好きなのだ。わざわざ墓穴を掘るような真似はしない。

 実際、ドリンクのおかわりを取りに行くのもはばかられる程に楽しい時間が流れていく。


 ひとしきり話したところで、ふぅと満足そうに息を吐いた先輩は、

「やっぱり君と話してるのが一番安心する」

 ともらした。あなたは少し照れくさくなり、愛想笑いみたいなのをしてみせたが、先輩のその物言いには、少し引っかかる部分もあった。

 だって彼氏は?……ってとこ。

 今日は、なぜかそれがとても気になった。

 彼女は、いわゆる姉属性ではない。あなたのことを弟のように扱い、叱るところは叱るしっかり者のような雰囲気は微塵もなく、むしろ頼りない小動物が一生懸命生きてます……というような風情がある。

 だから、その「安心する」には、言い捨てて心地よい井戸がいる……みたいな意味など、込められてないと思われる。

「先輩」

 それがあなたは気になってしかたなくなって、つい訊いた。

「最近彼氏とはうまくやってるんですか?」

「……」

 途端、彼女の大きな瞳はキョロキョロと泳ぎ、一瞬あなたを見て視線だけをそらす。

「うん……」

 頭の中で何かを整理してるのだろうか。会話も何もないのに何度かうなずいてみたり、まぶたを閉じてみたり……。

 挙句「別れてはいないよ」と口走って目をそらす。

「なんかあったんすか?」

「ううん……」

 小さく首を振る先輩がなんとなく鈍い。

「まぁ、なんていうかさ……、いろいろ難しいよね」……なんて微妙な言葉を先輩は噛み締め、時計を見た。

「あ、そろそろ出る?」

「いや、ホント大丈夫っすか? なんか話があれば聞きますけど」

「大丈夫だよ。今日はわたしがおごるね」

「いや、いいっすよ」

「いいんだよ。今日はつき合わせた気がする」

「そんなことはないっす」

 あなたは、変なことを聞いてしまったんだと軽く後悔した。しかし思いなおす。

 ……あなただからこそ、聞けることなんじゃないか?と。

 勘定を済ませる先輩の、小さな背中と長い髪を見下ろしつつ、あなたはこのファミレスから二人別れるT字路までの道で、言うべきことを整理していた。


 二人で歩く道は人もいない、音もない。あ、嘘だ。夜の虫の声が若干する。でもそれだけだ。

 街灯が一定間隔で二人を照らし、それがなおさら二人だけの世界を作り出しているようにも見える。

 彼氏の話でちょっと落ちてる先輩に対して不謹慎だけど、こんな時にがばっと抱きしめてしまっても、先輩なら許してくれるんじゃないかとかは、あなたは当時から思っていた。

 実際に当時そんなに積極的なら、多分こんな時間旅行の必要もなかったわけだが、相変わらずこの場面ではあなたは動かない。

 彼女は今、確かにあなたには特別に心を開いている気はする。しかしだからといって、今の時点で、しかもこんな場所でそれをして、拒絶された後のことを思うと、容易には実行できない。

 ……と、思ったし、今は代わりに行うべきことがある。

「先輩、やっぱさっきの話、相談に乗らせてもらえませんか」

「え?」

「ほら、先輩いつも言うじゃないですか。男の視点で話が聞けるから参考になるって」

「……」

「ちょっと、落ち着ける場所に行きましょうよ。酒匂公園とかは?」

 ここから程近い公園だ。この時間なら誰もいない。外は夜も更けてだいぶ落ち着いたものの、相変わらずふわふわとした熱気が辺りを包んでいるから、一時間二時間くつろいでも凍える心配もない。

 あなたは帰り道ではない曲がり角を曲がる。

 先輩は、黙ってついてくる。

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