佐藤太郎の最悪の日
その日は佐藤太郎にとって最悪な日だった。
午後のコンビニでのバイトでの出来事である。
その時間のシフトは太郎と、辰宮姫香という名の女子大生のバイトのふたりだった。
姫香は19歳の若い娘で、色白で細面で整ったかわいらしい顔立ち。モデルのようにスレンダーな体形と、かなりの美少女といえる。
なので太郎は少なからず浮かれた気分になっていた。
しかしその浮かれ気分は長くは続かなかったのである。
そこに40代半ばくらいの2人の男が入店してきたのだ。
ひとりは金髪だが髪の根本が黒く伸びはじめた汚らしいロン毛の男。
もうひとりは短めだが、やはり金茶色に染めた髪。
どちらも不健康に太った体で薄汚い無精ひげを生やし、ダボダボのデニムと下品な刺繍の入ったブルゾンを着ている。
手首にはゴツい虎目石や水晶の数珠ブレスを着けた、いわゆるオラオラ系である。
人に怖がられるのが偉いと思っている人種であることが一目でわかる風体だ。
その2人組が、太郎の居るレジにやって来たのである。
そして空になったミックスサンドの包装を投げつけて言った。
「おい、にいちゃん。今朝、このサンドイッチを買ったんだがな、これはいったいどういうことだよ」
「え?はい、何でしょうか?」太郎は答える。
「このサンドイッチには卵が入ってるじゃねえか。俺は卵アレルギーなんだよ。アナヘラシー起こしたら、お前どう責任取ってくれるんだ?」
・・・アナヘラシー?アナフィラキシーのことか?しかし面倒そうな客だな。。これは災難だ。。
太郎は心の中で嘆いた。
「あの・・ミックスサンドに卵が入っていることは見ればわかることですし、責任といわれましても」
太郎が答えると、男たちは大声で怒鳴り始めた。鬱陶しいが予想通りである。
「アホかお前、なんで客がいちいちそんなこと確かめなきゃいけないんだよ!アレルゲンをちゃんと説明するのは店員の義務だろうがボケ!」
太郎はオラオラ系が苦手である。この種の輩に凄まれると足がすくむ。
「す・・すみません。責任とはどうすればいいんですか?」
「別に俺たちは恐喝しにきたんじゃないんだよ。代金を返金してくれりゃいいんだ」
太郎はもうとにかく彼らに早く帰ってもらいたかった。
「はい・・あの、ではサンドイッチの代金380円お返しします。。」
「どアホ!購入した代金全額だよ。2000円返金しろ」
「え、あ、あのレシートはお持ちですか?」
「そんなもん捨てたにきまってんだろうが!ああ、早く返金しろよ」
・・・困ったな。。どうしよう?
そのとき、太郎の隣から声がした。
「それは言いがかりじゃないですか。警察を呼びますよ」
ストックルームから出てきた姫香だ。かすかに声が震えている。
短髪の方の男が姫香の方を向いて大声で怒鳴った。
「ああっ?言いがかりとは何だ姉ちゃん、警察だ?呼べるもんなら呼んでみろ!これからお前にずっと付きまとって犯すぞコラ!」
凄まれて姫香は今にも泣き出しそうな顔になった。
「あ、あのすみません。お金はお返しします。申し訳ありません」
太郎がそういうと男たちは勝ち誇ったようにニヤつきながら太郎に向き直った。
「にいちゃん、話が分かるじゃねえか。またちょくちょく買いにくるぜ」
その日バイトを上がる前にやってきたオーナー店長に太郎が散々怒られたことは言うまでもない。
「そんな輩に返金する馬鹿が居るか。毅然と対応しろ。返金した分はバイト代から差し引くからな」
散々な目にあった日の、数少ない救いといえば退店するときにかけられた姫香からの一言だったろう。
「藤太君、ごめんね。今日は私をかばってくれたんでしょ」
藤太とは姫香が付けた太郎のニックネームだ。
佐藤太郎というあまりに特徴の無い名前を、うまく略したもので太郎自身も気に入っている。
「いや、俺が怖かっただけだ。じゃあお疲れ様」
太郎はそう言い残して店を出た。
一人暮らしの殺風景なアパートの部屋に帰った太郎は激しい自己嫌悪に陥っていた。
バイト先での出来事は姫香のいうとおり、奴らの言いがかりである。
もっと毅然と対応すべきだったのだ。警察を呼んでもよかった。
それが出来なかったのは姫香をかばったからではない。
ただ怖かったのだ。お金を払っても奴らに早く帰ってもらいたかったのだ。
・・・俺は弱い、力もなければ度胸もない、何者でもない男だ。。
何者でもない男。
日本でいちばん多い苗字である佐藤姓に、太郎という特徴の無い名。
まるで役所の書式見本に書かれているような、佐藤太郎という名前が、すべてを言い表していると常々感じていた。
裕福でもないが、貧困でもない平凡なサラリーマン家庭に生まれ育った太郎は、優秀でもないが底辺でもない大学に通っている。
特技も無ければ趣味と言えるほどのものもない。
良くもなければ悪くもない、ほとんど他人に記憶されないほど特徴のない容姿。
いつも典型的なユニ●ロ・ファッションで非常に無個性である。
親友と呼べるような友人も居ない。
もちろん恋人と呼べる女性など居たこともない。
太郎とて若い男なので人並に恋心を抱くことはある。
たとえばバイトで知り合った姫香はとてもかわいいし、太郎にも気さくに話しかけてくる。
佐藤太郎というあまりに特徴のない名前に藤太というニックネームをつけて呼んでくれているのも、密かにうれしかった。
しかし姫香と付き合いたいかと言えば、それは無理だと思うのだ。
あれほどかわいい女の子なら、他の男たちも放っておかないだろう。
とてもじゃないが、自分などが相手にされるわけないと思うのだ。
出来ることと言えばせいぜい、姫香の裸体を想像してマスターベーションするくらいのことである。
・・・いつまでも落ち込んでいても仕方ない。エロ動画でも見て寝るか。
太郎はちゃぶ台に置かれているノートパソコンの電源を入れた。
エロ動画を見ながら、動画の女優の身体に姫香の顔を脳内コラージュしてマスターベーションするのだ。
エロサイトに入る前に、太郎は日課であるSNSサイトへの書き込みをすることにした。
つぶやき系のサイトで、日記代わりに毎日の出来事をつぶやいている。
フォロワーもなければコメントひとつ付いたこともないが、なぜかこの習慣はもう2年も続けている。
そこに今日の最悪の出来事をつぶやくつもりだった。
しかし、その日はいつもと違っていた。
前日のつぶやきに、初めてコメントが付いていたのだ。
Tomyという見知らぬハンドルネームの人物のコメントは、つぶやきとはまったく無関係のものであった。
ただ一言こう書かれていた。
『瀬田の唐橋に行け』