鳥の巣、インキュベーター
空を流れるひつじ雲が、秋の訪れを涼しげに伝えていた。緑の木々が微かに色づき始めるころ、フォー・ザ・バーズの三枚目のアルバム『体験、思想、知恵』がリリースされた。一般的にアルバムの三枚目は、アーティストの勝負作といわれている。レコード会社によると評判もまずまずのようだ。アルバム発売記念ツアーの動員もよく、わたしたちフォー・ザ・バーズの演奏は観客を熱狂させていた。
ツアーの全てのライヴが終了し、開放された気分の中だった。リーダーであるわたしに、メンバーのブルーからメッセージが入った。彼女はフォー・ザ・バーズから脱退したい旨を告げたのだった。唐突ではあったが、なんとなく予感はあった。わたしは他のメンバーに伝える前にブルーと二人で話をしようと考えた。
次の日、ブルーの家を訪れた。ブルーはいつものようにコーヒーを淹れてくれた。わたしは言った。
「この美味しいコーヒー、もう飲めなくなるのかな?」
ブルーは軽く微笑んで、首を少しかしげるだけだ。わたしは続けた。
「もうほんとうに辞めてしまうの?」
「レッド、ごめんね。もう引き返せないところまで来てるんだ」と、ブルーは答えた。彼女の頑な性格から、もう心変わりはないように思える。
外で鳴く鳥の声がうっすらと聞こえてきて、バンドのこれまでが思い出された。女の五人組をリーダーとしてまとめていくのは、並大抵のことではなかった。曲のアレンジ、楽器のテクニック、ステージでのコスチューム、ジャケットのデザインなど、ちょっとした意見の相違からメンバー間でのぶつかり合いは発生する。才能豊かな人間たちゆえに、少しの妥協も許すことができない。バンド崩壊の瀬戸際まで追いつめられた場面も幾度となくあった。そんなひりひりとした緊張感も曲に反映された。
動揺を抑えながら、わたしはブルーに尋ねた。
「脱退というのは、わたしから距離をおきたいということ?」
「うーん、そういうわけじゃないんだよね。新しい空気を吸いたいというか……。しばらく一人になるのもいいかなと思って」
「一人になる?」とわたしは繰り返した。
フォー・ザ・バーズの五人が演奏する映像が浮かんだ。わたしたちはメンバー全員で曲を作るようにしている。メンバーの各人が持ち寄ったモチーフをもとに、まずセッションを行う。メンバー間で意見を交換する。何回も演奏を重ねる。メロディーやアレンジを固めていく。いわゆるヘッドアレンジというものだ。歌詞も同時に考えていく。曲の方向性が見えてきたら、各楽器や仮歌をレコーディングソフトのトラックへ録音してデモを作る。
レコーディングの本番を迎えると、より丁寧に音と歌を作ることになる。いくつもの糸が織りなして精緻な模様が形成されるように、曲の全体が現れてくる。スパイスとして、不協和音やノイズを加える。リズムのブレイクなども忘れない。そうしたサウンド処理は、ギターを担当するブルーの力によるところが大きい。ブルーがいなくてはフォー・ザ・バーズは存続できないだろう。
わたしは祈るようにして続けた。
「だったら、バンドの方は少しお休みして、ブルーのソロを作るっていうのはどう? 今度のアルバムもセールスがいいみたいだし、わたしたちも少しはわがままをいえるような立場になったと思えるんだけど」
「そうね……。でも、なんか疲れちゃった。説明するのはちょっと難しいんだよね。とにかく、もう無理……。レッド、あなたは理解できないと思うわ。ほんとうにごめんなさい」
ブルーの顔は親密さを消し去り、断固とした仮面をまとっていた。エッジのきいたギターのカッティングのような、強い意思が伝わってきた。その響きに触れたわたしは、シューゲイザーのように静かにうつむくしかなかった。
別れ際にブルーは愛用の青いピックをくれた。それは形見のように、わたしとの別離を伝えていた。外に出たわたしはぼんやりと歩き始めた。わたしは真っ白な雪の積もった薪で、青く白い炎の燃えかすだった。そんな落ち込んだ気分を引きずりながらも、他のメンバー三人に相談しなければならない。ブルー以外のメンバーで予定を合わせて、四人でセッションを行うことにした。
セッション当日、「ブルーがバンドを抜けたいといってるの。引き留めることができなかった。リーダー失格ね」とわたしは説明した。メンバーは意外にも冷静だった。最近のブルーの様子から、薄々感づいていたようだ。ドラムのイエローはムードメーカーらしく、明るいシャッフルのビートを刻みはじめた。ザ・スミスの『パニック』のようなリズムだった。ベースのグリーンは相変わらずのクールさで、メロディーのようなラインを静かに弾き始める。キーボードのピンクは、やわらかな音色で和音を控えめに乗せる。言葉は必要なかった。自らをやさしく慰めるような演奏は、エンドロールのようにバンドのこれまでを回想させた。初めて音を合わせたとき、傑作が完成したとき、デビューが決まったとき、チャートに入ったとき、最高のライヴを終えたとき……。才能溢れる素晴らしいメンバーだ。わたしたちは全員新しい旅への準備ができている。きっとうまくいくことだろう。
演奏はいつしか止まって、わたしは最後にジョン・ダウランドの『流れよわが涙』を独唱した。こうしてラスト・セッションは静かに終了した。
後日、レコード会社の説得も空しく、フォー・ザ・バーズの解散が発表された。活動終了の報道を受けて、アルバム『体験、思想、知恵』は爆発的なセールスを記録した。バンドの最後を飾る記念碑的な作品となった。
バンドの解散を機に、わたしは以前から打診を受けていた新しいイベントスペースの仕事を引き受けることにした。深い喪失感の底で、自らをなだめるように仕事に没頭していった。自分は客寄せの看板だと自覚していたが、いつしか業務の細部まで本格的に関わるようになっていた。会場の名前も決めてよかった。『赤い小鳥たちのために』は、レッドというわたしの名前とフォー・ザ・バーズを組み合わせたものだ。雛を育てる鳥の巣、インキュベーターという意味を込めている。空を高く飛んでいたわたしは、巣を作るために地上近くへと舞い戻った。
スタッフを決める面接の場にも、わたしは顔を出した。バンド活動の経験から、ほんとうに優秀な人材を自ら見極めたいと思ったからだ。フォー・ザ・バーズのファンも多くいたようだ。そんな中にエリコを見つけたのだった。不安定な小鳥のような彼女は、わたしの目を捕らえた。一見すると彼女はガラスのように儚げで、髪も短く、か細い印象だ。しかし、目に見えない密かな光と熱量を持っているのが感じられた。フィジカルな領域を内包する量子的な世界をわたしは認識したのだろうか。彼女の描く抽象画の色彩は、それを裏づけているかのようだった。
エリコの入社が決まり、しばらくして仕事も慣れてきたころに、彼女を誘って二人で食事をすることにした。なんとなくエリコと話をしたいと思ったのだ。エリコから誘われたようにも感じられた。互いに気が通じ合うという感覚だろうか。店は『ラ・ヴィータ・エ・ベッラ』というイタリアンにした。エリコは最初こそ硬くなっていたようだが、お酒も入ってくると、少しずつ打ち解けてきた。フォー・ザ・バーズについて訊いてみると、エリコは自身の思い入れを滔々とまくしたてた。そんな彼女を見るのはこころよかった。デザートのジェラートをたいらげるころには、わたしたちは上機嫌に出来上がっていた。
店を出ると、気持ちのよい夜風が髪を揺らした。エリコは少しふらついている。
「ちょっとエリコちゃん、大丈夫なの?」
「レッドさん、すいません。わたし、あまりお酒が強くなくて。でも大丈夫です」
わたしはエリコの手を握って支えてあげた。思いがけず、透き通るような白い肌のなめらかな感触が伝わってきた。エリコはわたしより七歳くらい年下のはずだが、もっと若い少年のような無垢な美しさが染み渡ってくる。彼女は少し頬を赤らめて、手をしっかりと握り返してくる。わたしはエリコをいたわる親鳥のような気持ちになる。ふと、まぶしい光をともなってブルーの意識が現れたように感じられた。
フォー・ザ・バーズを維持し、完璧な作品を作るというプレッシャーに押しつぶされそうだったわたしは、心身ともにブルーに支えられていた。わたしはリーダーといっても、単に司令塔のような存在だった。無意識のうちにブルーの献身的なサポートに依存し過ぎていたのかもしれない。それは彼女にとって重い枷のような負担だった。やさしいブルーは不平などを口にすることはしなかった。わたしを注意して苛立たせるようなこともなかった。そうしたブルーのメッセージが、エリコを通じて聞こえてきた。エリコの顔を見つめたわたしは、不思議な表情をしていたはずだ。エリコは言った。
「レッドさん、今日はどうもありがとうございました。よかったらまた誘ってくださいね」
「エリコちゃん、なんかわたし元気出たかも……。こちらこそありがとう。気をつけてね」
エリコはもうふらついていなかった。背筋を伸ばし、にこにこと手を振りながらエリコは帰っていった。わたしの奥にしまわれていた感傷をエリコはやさしく癒してくれた。エリコの姿が夜の闇に消えていくのを、わたしはいつまでも見送っていた。
『赤い小鳥たちのために』は開業して以来、事業は順調だった。音響設備に力を入れていたし、優秀なスタッフのおかげも大きかった。会場の規模のわりには、手ごろな利用料も人気のようだった。国内外のミュージシャンたちのライヴや、有名な劇団による舞台の予定がスケジュール表を埋めていた。
『ある変奏』というイベントの問い合わせが入ったのは、開業後一年半くらいたったころだろうか。会場で小説を生成するという今までにないプロジェクトであるため、アドバイザーのわたしのもとへ会場スタッフから相談の連絡が来た。何かおもしろいことが起こるのではという予感があった。初めての試みでもあるので、早速、主催者とスタッフの間で打ち合わせが行われた。
主催者側の要望は、コンピューターとネットワーク・サーバーの持ち込み、会場内でのネットワークの使用、スクリーンへの映像出力、PAシステムへの音楽の出力、などである。協議の上、会場の対応は問題ないという結論だった。
ちなみに、どんな曲を場内に流すのか主催者に尋ねたところ、即興をベースにしたような、展開が読めないような曲ということだった。オウテカの『コンフィールド』『ガンツ・グラフ』および以降の曲、 エレクトリック・マイルス前期、それからスティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックもイメージしているとのことだった。
新しいイベントが、卵の殻を割るように、うちの会場から生まれることになる。お気に入りの曲を聴くときのような、初めてのデートの前夜のような、うきうきとした気分だ。
ふと、エリコの声が聞こえるような気がした。
「『ある変奏』にフォー・ザ・バーズのメンバーを呼ぶことはできませんか?」
深いむらさき色の闇に浮かんだエリコのすべすべとした白い腕を、わたしは思い出していた。




