時々、愛がない
「芸術とは洗脳である」
これは、現代美術家のミスター・ブレインウォッシュことティエリー・グエッタの言葉だ。ティエリーとは、バンクシーが監督したドキュメンタリー映画に出てくる男のことである。映画の中で偏執狂のようにビデオを撮り続けていたティエリーは、まるでぼくの分身のようだった。
あれはいつのことだったろう。暴力を振るうワカイという担任の教師がいたころだから、ぼくは十四歳だったと思う。ワカイは三十過ぎくらいの体格のいい男で、たれ目の体育教師だった。彼の暴力は生徒を服従させる手段の一つだった。支配の構造というのは、アメとムチから成り立っているようだ。見せしめのため殴られて生け贄となる生徒がいる一方、腰ぎんちゃくのように彼に媚びへつらい、被害から巧みに逃れる生徒も多くいた。ぼくは前者の生け贄の一人だった。彼のことを人生の反面教師として、心底軽蔑していた。その思いは顔には出さないようにしていたつもりだった。しかし、相手は年長者ゆえ見透かされ、拳の標的になってしまったのかもしれない。ぼくには、憎む教師に立ち向かって殴り返す度胸もなく、為されるがままに過ごしていた。ただ、自分の立場が悪くなるようなことは表立ってはしない、そういった分別だけは持ち合わせていた。
ワカイの暴力はエスカレートしていった。殴るきっかけは些細なことであって、何でもよかった。ついには生徒を殴ることで快感を得るような表情を微かに見せ始めていた。それは一流のアスリートの流麗な立ち振る舞いとは対極のものだった。ぼくはそんな彼の挙動をいつまでも観察していたかった。そして、彼の表情を記録として残したかった。それは敵の攻撃から身を守る対策というよりも、その醜い様を撮影することで、あるステージをクリアできそうな気がしたからだった。ワカイの動く映像を何度もリピートすることを想像すると、気分が高揚するのを感じた。撮影は危険が伴う行為だが、甘美な誘惑だった。ぼくには抗うことはできなかった。
ある日、チャンスが訪れた。同じクラスのマナブが遅刻して、その日の朝一番の標的となるようだった。ぼくは、近くの席に座る生徒の後ろ側にいた。教室の中にワカイの低い声が響いた。ワカイの手がマナブの整った顔へと伸びた。マナブは抵抗しなかった。ワカイがマナブを殴る光景を、ぼくは隠し持っていた携帯で撮影した。誰にも気づかれていないようだった。
学校が終わるとすぐに家へ帰ってムービーを確認した。教師の異様な表情がうまく映し出されていた。早速編集し始めたが、特別な演出は不要だった。匿名で動画共有サイトにアップした。その短い動画はたちまち拡散され、多くの人間が知ることとなった。削除されても、次から次にアップされ続けた。世界の至るところに、ワカイとマナブの小さな分身が潜んでいるようだった。女子の間で「暴力に耐えるマナブくんが健気で可愛い」と噂になった。おかげで、マナブの人気が急上昇するというおまけもついた。
都合の悪い事を隠蔽し続けていた校長も、さすがに今回はPTAや教育委員会に言い訳ができる立場になかった。ワカイは窮地に追い込まれ、懲戒免職を宣告された。因果はブーメランのようにワカイに跳ね返ってきた。ぼくのムービーが契機だった。ワカイも生け贄となったのだ。
そんなワカイが学校からいなくなってしばらく経ったころ、彼を目にしたのはニュースの中のことだった。ワカイは車でコンビニに突っ込む事故を起こしたのだった。通報で駆けつけた署員に逮捕されたワカイは様子がおかしかったらしい。ネットの噂によると、どうやら彼はマジックマッシュルームをキメていたとのことだった。事故現場にいた人がワカイを撮影していた。ワカイは運転席で羽根のもげた怪鳥のように奇声を発していた。派手に割れたガラスからコンビニ内の光が投射され、ワカイの顔を照らしていた。カクカクと痙攣しながら叫び続けるワカイの様子は、繰り返しテレビで放送された。解像度が低く、薄ぼんやりとした映像だった。その無様な姿は、反面教師の成れの果てだった。
そうした一連の事件により、ぼくは映像が放つ魔法のような力を思い知ったのだった。開眼した、の一言だった。家には親が買っていたDVDなどのディスクがあった。ぼくはそれらを手当たり次第に観るようになった。まず気に入ったのは、ミシェル・ゴンドリーが監督した映像作品で、特にカイリー・ミノーグやチボ・マットの曲のミュージックビデオだった。DVDの同じシリーズも見て、スパイク・ジョーンズやクリス・カニンガムの映像作品にも圧倒された。その後、スパイク・ジョーンズが監督したいくつかの映画を観て完全にはまってしまい、他の監督のいろいろな映画もレンタルして熱心に観るようになった。物語を楽しむだけでなく、映像の純粋な官能性にも強く惹かれるようになっていた。
並行して、家にあったデジカメで映像を撮り始めるようになった。ティエリー・グエッタのように、とにかく何でも撮った。雪解けの川面の反射、桜の花片の流れる軌跡、車窓を流れる緑の田園、物陰へと走る黒猫、色とりどりの紫陽花と傘、縁日で泳ぐ金魚たち、遊ぶ子どもの声や影、打ち上がる花火と浴衣、ウォータースライダーの水しぶき、稲妻の青白い光と響く音、工事の重機と倒れる壁、ごみを漁って飛び立つカラス、風でたなびくグレイの煙、交差点を行き交う車、夕暮れに霞む桃色の雲、解けて崩れる雪だるま、夜の街の電飾の瞬き、月光と夜景と山の闇……。
自分で撮影をしていくうちに、構図や色合い、絞りなどのテクニックを用いて表現することも意識し始め、ますますのめり込んでいった。高校を卒業するころには、家族からも狂人のように扱われ、気味悪がられるようになった。ちょっとした映像おたくの出来上がりだった。ガラス製のレンズはぼくの第三の眼と化していた。現実世界のミニチュアを手の中に収めたようだった。そんなぼくに近寄ってくるマニアックな女の子はいなかった。撮りためたデータの入ったSDカードは、机の上で山のようになっていた。
ぼくは映像の世界を志した。親元を離れて専門学校に通い、映画とシナリオをみっちり勉強した。卒業した後、『ヴィデオ・フロム・フレネシー』という映像制作会社に入った。小さな会社なので、テレビのCMからネットニュース番組の映像、結婚式のムービーまで、幅広く制作している。今はまだアシスタントなので、ディレクターのもと、毎日夜遅くまで働いている。正直、デートをする暇もない。目の回る忙しさだが、将来のいつの日にか、自分の映画を発表してみたいと考えている。
たまの休みの日には、仕事とは別に個人で短い映像作品を制作している。いいものができたら『きのこフィルムズ』という名前で、動画サイトにアップする。「きのこ」はマジックマッシュルームが由来だ。この世界に入るきっかけを作ってくれた、かつての横暴な教師への謝意も込められている。魔法のきのこが魔法のドアを開いたともいえるからだ。きのこ雲を模したトレードマークも自分で考えた。日本人のぼくにとっては、きのこ雲はある種アイデンティティでもあり、そのシェイプに心が固くなるような思いがある。
先日、ある編集者から『きのこフィルムズ』宛に一本のメールが入った。ぼくの映像作品を見て興味を持ち、連絡してくれたのだった。あるイベントが企画されており、その模様をドキュメンタリー映像として記録してくれないか、という依頼だ。音楽を感じさせるぼくの作風と『きのこフィルムズ』という名前が、主催者のフィーリングに合っているようだ。詳細を連絡してもらったところ、そのイベントとは次のようなものだった。
「タイトルは『ある変奏』。今回が第一回目の開催となる。
主催者は書籍の著者と担当の編集者、およびスタッフ。
会場は『赤い小鳥たちのために』。音楽のライヴや演劇などのための劇場のようなマルチスペース。
観客がイベントの主役となる。会場で観客が送信するテキストを、プログラムがクラウドから読み込んで小説が生まれていく。このイベントで制作される小説は何らかの形で発表される」
最後の項目にある「小説が生まれていく」というところはよくわからないが、面白そうなのでぜひ参加させてほしいという返事をした。逆に、ぼくなんかで大丈夫だろうかという気持ちもある。随分思い切った依頼だと思う。責任重大だ。『赤い小鳥たちのために』という会場について調べてみたら、フォー・ザ・バーズというバンドのリーダーだったレッドという女性が関わっているようだ。
自分が撮影した映像がドキュメンタリー映画となって正式に発表できたら、どんなに素晴らしいことだろう。『きのこフィルムズ』の代表作の一つになるかもしれない。雄弁な言葉のような、洗練された詩のような映像を目指したい。ミスター・ブレインウォッシュのように、観てくれた人たちを洗脳してみたい。暴力的な教師を観察していたときのように、今のステージをクリアできる気がしてきた。しがないアシスタントのぼくでも、羽ばたくことができるかもしれない。
映画のタイトルは『時々、愛がない』がいいなと思った。




