12. いい子
「えーっ溝口!? お前マジで言ってんのそれ」
急に聞こえてきた自分の名前に、高校生の溝口涼香はびくりとして立ち止まった。
「あいつ地味じゃん! おっぱいはでかいけどさあ」
別の声が涼香を揶揄する。何となく教室の中で何が行われているのか察してしまい、回れ右しようかどうしようかと逡巡した。諦めて帰ろうかな。でも辞書はいるんだけどな。
「ばっか、ああいうのが我儘言わずにこっちの言うこと聞くからいいんだって」
今度こそ硬直して立ち竦む。彼だ。明るくて友達が多くて、ちょっと成績は良くないし校則違反で髪染めてるけど女の子にモテるサッカー部の彼。
眼鏡でおさげでダサくて地味な自分とは対極にいる彼。
「うわー彼女持ちの言うことは一味違うわー」
「うっせ!」
どっと笑いが起きる。
憧れの彼に擁護されたことがただただ気恥ずかしくて、涼香は黙って俯いた。不思議なことに、あんまり嬉しいとは思えなかった。誉められたはずなんだけど。
「いやでも分かるかも。あいつ尽くすタイプって感じするわ。何でもやってくれそう」
「えー重くねそういうの? 俺もっと可愛くて明るい子がいいわ、瀬尾とか」
「瀬尾はただのビッチだろ!」
「むしろ××××?」
ぎゃはは、と聞くに堪えない単語が飛びかう。流石に許容量の限界で背を向けて立ち去ろうとした。そこに追い討ちをかけるように、例の彼がこう言った。
「お前ら馬鹿だなー、瀬尾みたいなぱっと見ビッチより、意外と溝口みたいな地味系の方があっさりヤらしてくれんだぞ?」
ぐわ、と頭に血が昇った。それからひゅーっと音を立てて血が下がっていった。くらくらする。自分が立っているのかへたり込んでいるのかも分からない。
それからどうやって帰ったのかは記憶にない。
彼はその後も何人かの女の子と付き合って、長くても半年で別れた。情熱的だ。熱しやすく冷めやすいのだ。涼香の淡い恋心めいたものは燃え上がるどころかくすぶりもせずに消滅した。
***
ジリリリリ……。
アラームを止めて起き上がる。
「……嫌な夢、見ちゃった」
昨日はちょっと夜更かしし過ぎたかも知れない。
猫耳ちゃんとのバトルが白熱して夢中だった。それに結局ユウヤの予言が的中して、日付が変わると同時に強制移動食らってしまったし。その場から動くなと共闘相手の少年は言ったが、あちらが【こびと】探知スキルを持っているわけでもないのだ。こっちから探さないと再会は難しいだろう。
今日は借りていた本を返して事前演習の計画書を埋めてメールで担当の教授に提出。お昼はトマトがあるからツナ缶でサラダ素麺にしよう。
取りとめもなく色々なことを考えながら寝癖を整え、カフェオレを啜り、家を出る。大学までは地下鉄を乗り継いで十数分。駅を出た途端じりじりと太陽が肌を焼く。今日も暑い。
「あれー? 溝口じゃん。課題?」
「……茅野君」
とてもとても後悔した。夏休みなのに図書館なんか来るんじゃなかった。
「えー誰ー?」
「高校の同級生、今は学部違うけど」
「ふーん」
聞いた割には興味もなさそうに相槌を打つ彼女は、彼の新しいカノジョだろうか。相変わらず情熱的な生活を送っているらしい。
「教育学部だもんな溝口。ガッコの先生とかマジ似合うわー。あっけど溝口も共通の政治史取ってるよな確か! ノートコピらして!」
今度持って来るよ、と約束してすぐに別れた。助かる助かると繰り返す彼は本当に嬉しそうだった。
面倒見が良くて逆らわなくて便利で巨乳で優等生の学級委員長。人生イージーモードだ。
『ミグゥ、移動したら動かないでそこにいて? 僕が迎えに行くから』
十中八九ゲームのことしか考えずに放った少年の言葉はその分だけまっすぐで、余計なことを思い悩む必要を感じさせない。自分も同じくらいゲームのことだけ考えていたい。
「あー……MP回復用のポーション補充しなきゃ」
ときめいたりなんかしない。
背中を預けて戦えるパートナーなんて、リアルじゃ絶対に手に入らない。
手に入らないものに憧れたりなんかするもんか。