2章3 面接
「愁、寝てるの?早く起きなさい」
ドアがコンコンとノックされる音で愁は目を開けた。少しぼんやりとした光景が段々とはっきりしていく。
「愁、起きてるの?」
ノックがコンコンから、ゴンゴンに変わった。かなりうるさい。目覚まし時計のアラームよりノイジーなそれは、愁にとって最悪の目覚めを用意してくれた。
時計を見ると時刻は9時25分。また布団を被りながら疑問が湧く。
なんでこんな時間に母さんがいるんだ?
「愁。開けるわよ」
その声と共に純子が部屋に入ってきた。布団にくるまっている愁を見て更に顔を歪ませる。
「愁、起きなさい。今日は学校に行く日だから…」
愁はその言葉にすぐに反発した。それからふたりは10分程度言い争いを続け、愁は「絶対に行かない」と譲らなかった。
純子は時間の無駄と判断したのか、
「今日は4時の約束だから、ちゃんと制服着て、準備しといて。わかった?」
これだけ言い残すと部屋から出ていった。
残された愁は、また頭を抱えるばかりだった。
連日降り続く雨の中、愁と純子を乗せた車は学校に向かっていた。愁は後部座席で頬杖をついてぼんやりと外を見ていた。
結局負けたのは愁のほうだった。直前まで考えは変わらなかったが、後のことを考えると父親が怖かったのだ。
愁は自分が情けなかった。結局親が怖くて頷いてしまうのだ。これでは何も変わらない。
愁の家から学校までは歩いて15分程度。だが車では遠回りになるので少し時間が掛かる。ふたりは終始無言だったが、校舎の裏の駐車場に着いたとき純子が静かに口を開いた。
「愁。訊かれたことにはちゃんと答えてね」
愁は無言だった。
ふたりは言葉を交わすこともなく職員玄関のほうに歩いていった。外にはもちろん誰もいない。
愁は誰かに姿を見られるかと不安で堪らなかった。今日が雨でなければ外は部活をやっている生徒で溢れていただろう。そして必ず大勢の人に見られる。
玄関に入って、純子が事務員に用件を伝えるとすぐに担任の山下が来た。その隣には学年主任の後藤先生という有り難くないおまけも付いている。
純子はふたりに挨拶をして丁寧にお辞儀をした。愁も簡単に会釈をする。その姿は少しばかり目立っていた。
「では、お話は応接室のほうで」
後藤がそう言って愁と純子は応接室に通された。愁は入ったことのない部屋だった。壁際に本棚があり、黒い革のソファがふたつとその間に低いテーブルがひとつ。本棚の横にあるドアは校長室に繋がっているようだった。
愁と純子はドア側のソファに座った。
「元気そうだね。よかった」
担任教師の山下が微笑みながら愁に声を掛けた。
「はい…」
愁は少し戸惑った。どこをどう見れば自分が元気に見えるのか、全くわからなかった。
最初の10分は山下先生が月別のスケジュール表などを見ながら、母の純子と話をしていた。だが愁は全く集中しておらず、話は耳を素通りしていった。
純子との話が一段落し、山下先生は愁への質問に移った。
「愁くんの勉強ですが、家では何かやっていますか?数学の問題集とか、漢字など」
愁は正直にいいえと首を振った。
「う〜ん、そうですか」
後藤の顔が一瞬曇ったのを、愁は見逃さなかった。
愁は後藤明が苦手だった。表向きは穏やかな中年教師といった感じだが、目が静かで恐いのだ。何を考えるてるのか全くわからない。
「勉強のほうは休んでいる間に結構進んでいるので、来週のテスト範囲も含めて後で渡しますね。えっと、次は…」
「槙原君の生活面に関してですね。最近の愁くんは、お母さんから見てどうですか。朝はしっかり起きてますか?」
山下に代わり後藤が口を開いた。
「朝はいつも顔を合わせてなくて……食事はちゃんととっていると思いますが…」
純子は少々口ごもりながら答えた。今まで愁の生活には目を向けてなかったので、うまく答えられないのも当然だった。
「それはまずいですね…槙原くんはいつも何時に起きてるんですか?」
後藤と視線がぶつかり、それが自分に向けられたものだと愁は知った。
「大体…9時から、12時までです」
間違ってはいないが、9時というのは嘘だった。
そうですか、とふたりは考えこんだ。
「少し、生活に乱れがあるようですね」
山下先生の言葉に愁と純子は揃って頷いた。
「夜はちゃんと寝れてる?」
「はい。大丈夫です」
これも嘘だった。今日も睡眠時間は4時間程度だった。
「なるほど…昼間はいつも何して過ごしてるの?」
山下が手帳に何か書き込みながら愁に質問した。
「テレビ見たり、パソコン使ったり本を読んだりしてます。家では大体…」
「そうか。外には出る?」
一瞬考えてから愁は口を開いた。
「たまに…公園とか行ったりします」
「うん、なるほどね…」
愁はもう何度嘘を吐いたかわからなかった。その場しのぎはこれで何回目だろう。
先生は優しい。でも、心を許せない。
親にさえ本当のことを話せないのに、教師に言えるはずがなかった。
「じゃあ、まずは…生活リズムが乱れているようなので、お家のほうでも早寝早起きを指導して、朝御飯は一緒に食べれるようにするといいかと思います。それと勉強のほうですが、こちらが期末テストの範囲になってまして…」
山下先生は喋りながらテスト範囲が印刷してある紙を愁に渡した。左上には雑な字で「槙原」と書いてある。
「テストを受けれるようなら学校に来てもらうけど、どうする?」
「…考えときます」
勿論行く気はないが、こう答えるのが癖になってしまった。
そう、と後藤は頷いた。
「じゃあ次の話だけど……」
顔を上げた愁は後藤と目があった。愁はその目を見て後藤が何を言おうとしてるかわかってしまった。
「どうして学校に行きたくないかを教えてほしいんだ」
愁は下を向き、自分の手を見つめた。
「山下先生から大体の報告はもらってるけど、本人の口から聞きたいので」
「…愁、ほら」
うなだれる息子に純子は声を掛けた。
「やはり我々としても理由ははっきり知っておきたいですから」
…こんな事を言わされるんなら来なきゃよかった。
やっぱり教師なんか…今更そう思っても遅かった。
そうだ。納得する言い訳を考えればいい。僕は嘘を吐くのが得意なんだから。
人を騙してばかりいる自分に嫌気がさしつつも、愁はこの前の話と合わせて偽の理由を話し出した。
「その、最初は2月くらいからなんですけど…勉強が嫌いになって・・・…つまらなくて、それで……」
放課後の美術室。暗い部屋の片隅で中学2年の女子がふたり、鉛筆で画用紙に絵を描いていた。
ひとりはおとなしい印象を与える小柄な女の子。その子の絵の特徴は線の細かい繊細な描き方だ。絵の印象はどこか愁に似ている。
もうひとりの女子は顔の印象から明るい性格に見える。だが、慣れない作業に苦戦しているのか、その顔は今しかめっ面になっている。鉛筆を持つ手に余計な力が入り、寒々しい雨の風景がかなり乱雑な仕様になってしまっている。
お世辞にも絵心があるとは言い難かった。
「はるかちゃん…力入れすぎだよ。やさしく持たないと……」
「もう、わかってるよ」
か細い声の忠告に、はるかはピシッとはねつけるように返事をした。
絶対わかってないよ。
その子ははるかに気づかれないように小さくため息を吐いて、内心ヒヤヒヤしながら彼女の作業を観察した。
そしてもうすぐ完成という時、突然静寂を破る足音が廊下から聞こえてきた。美術室の扉を勢いよく開け、一目散に走ってくる。
「はるかはるかー!ねえ聞いてよ、さっきさ……あんた何してるの?」
「見ればわかるでしょ。絵を描いてるの」
体操着姿の女の子はふ〜ん、とはるかの絵を一瞥してこう言った。
「なんか…下手だね!」
その言葉を聞いてはるかは鉛筆を折ってしまい、がっくり肩を落とした。
「はぁ…やっぱりそうだよね。あたし絵のセンスないかも…」
そんなことないよ、とはるか隣の女の子が励ましの言葉を掛けた。
「初めてにしてはよく出来てるよ。ただ、ちょっと雑だけど……」
だが、やはり下手な事は認めざるを得なくて、最後は声が小さくなってしまった。
「急に美術部に入る!とか言ってさ、ホント何考えてるかわかんないよね」
「別にいいの。あたし水紀みたいにバスケ上手くないし。せめて鈴みたいに絵を綺麗に描きたいって思っただけだよー」
「ふ〜ん…じゃそういうコトにしとくよ。そうそう、言うことがあったんだっけ」
頬を膨らますはるかだったが、次の水紀の言葉にはかなり反応した。
「さっき職員室の方で槙原くん見かけたよ。なんかお母さんと一緒だったみたい」
「それホント!?」
「そういえば最近学校来てないよね。何かあったのかな…」
3人で少し考えるが、全く心あたりがない。
「あの人いじめられてる訳でもないしね……それに勉強めちゃくちゃ出来るよね?ホントに天才だって」
「そうだよね〜なんで学校来ないのかな…」
「もしかしたら、家庭の事情とかなのかな…」
鈴菜がボソッとつぶやいた。
「家庭の事情って、例えば?」
「わかんないけど、親の離婚とか…」
親の離婚。その言葉にはるかの表情が曇った。込み入った事情ならば、自分の出る幕はない。
「でもさ、それって…」
はるかが何か言おうとしたその時、下校を促す放送が入った。時計の針は5時30分を指している。
「もうこんな時間だ…2時間もずっと絵描いてたみたい」
「あ、あたしの鞄体育館だ。悪いけど先行くね」
バイバイと手を振って水紀は美術室を後にした。残ったふたりは手早く道具を片付けて簡単に掃除をした。
「ねえはるかちゃん。本当に槙原くんはどうしたんだろうね…」
「うん、気になるね」
だけどそれだけ。気になるだけで何も出来なかった。
ふとはるかの目に止まったのは、入部後に初めて描いた多少乱雑な風景画。
「これ、どうしようかな…」
「取っておく?」
「そうだね。捨てるのももったいないし」
はるかは教室の後ろのほうに画用紙を立てかけておいた。そして鞄を持って美術室に鍵を掛けてから鈴菜と一緒に昇降口に向かった。
「槙原愁…」
はるかはその名を心の中で呟き、刻み込んだ。