2章2 ひとつの体 ふたつの心
夢の中で僕はいつも走っている。
学校。自分の家。道無き道。
疲れも知らず、何時間も走り続けている。だけど、
前は見えなくて…行き着く先もわからないまま走っている。
何故自分は走っているのか。そんなことを考えている間も走って、走って……
何かを追い求めているから。立ち止まると追いつかれるから。
根拠もない理由に追われて、僕は今日も走る。
そして、今日も目が覚める。
水曜日の朝。叩きつけるような雨音で、愁は目を覚ました。
本格的な梅雨に入ったらしく、昨日からずっと雨が降り続いている。
最近、愁は同じ夢を見続けていた。その夢は、ただひたすらに走る夢だった。
何も考えず、暗い道を走るだけ。足を止めることもなく、言葉を発することもなく、
疲れも感じずに、走り続ける。
正直、こんな夢を見てるほうが実際に走るよりよっぽど疲れる、と愁は思った。
それに現実の自分は走ってなどいない。立ち止まっているのだ。
愁は大きな欠伸をしてから窓の外を眺めた。相変わらずのこの天気。でも、時々は雨の日もあったほうがいい。
時刻は11時を過ぎたころ。今日も愁は寝坊した。
先生に言われたこともショックだったけど、自分の中でこんな感情があったのも驚きだった。
逃げてる。自覚してからは、この気持ちが何なのかはっきりとわかるようになってきた。 罪悪感に似たような卑怯な感情。それが自分の中に重くのしかかってきた。
…お前のやってることは逃げて甘えてるだけだ。
そんな囁きが耳にこびりついて離れなかった。
寝間着のまま下に降りる。台所のテーブルには朝食と思われるパンが置いてあったが、他に何かないのか、食べ物をあさった。
出来ればインスタントの物で簡単に済ませたかった。でも、体に悪い。ニキビも増えるかもしれない。
面倒だが、ご飯や味噌汁など栄養のあるのもを選んだ。余計な心配は掛けたくないし、余らせると母さんが大変だから。
テレビをつけると、どこのチャンネルも通信販売しかやってなかった。つまらないので、消した。
ご飯をレンジで温める間、自分の思いに意識を集中する。
逃げてなんかいない。
否定しても、心のどこかでは嘘を吐いてるとわかっている。
じゃあどうすればよかったんだ?あのまま学校に行っていれば何か変わったのだろうか?
いや、きっとどうにも出来なかったはずだ。だから、ああするしかなかった。
自分でも納得しきれてない。それでも逃げてるなんて認めたくない。
電子レンジの音で我に返った。お茶碗を取り出すと、ご飯が湯気を立てていた。
温めすぎたかな。
そう思い、じっと湯気を見つめる。
確かこれは、煙に見えるけど水蒸気なんだよな。
そんなどうでもいいことを思いだし、ひとりで笑う。
お茶碗をテーブルに置いて自分の席に着いた。見た目は美味しそうな今日の朝食。
でも、ひとりで食べる食事はとても寂しくて、味気ない。
学校に行かなくなってから初めて知った事だった。
「愁。明日ね、学校行くから」
夕食の席で純子が静かに告げた。それを聞いた愁は一瞬止まった。
「え、なんで?」
「なんでって、先生に呼ばれたからよ」
愁は意味がわからなかった。
「そんなの聞いてないよ。俺行かないからね」
テレビを見ていた慶太も動きを止めた。純子とふたりで顔を見合わせる。
「行かなくちゃ駄目よ」
「嫌だよ。絶対行かないから」
予想通りの愁の反応に、純子は悲しそうに目を伏せた。
「先生に話したいことがあるって言われたの。だからふたりで来て下さいって」
愁は聞く耳を持たなかった。
「明日は都合が、悪いから…」
苦し紛れの愁の言い訳に、純子は眉をひそめた。
「愁、あなたに都合なんてあるの?ずっと家にいるんじゃないの?」
母親の言葉に愁はつい怒ってしまった。
「は?なんだよそれ!あるに決まってるじゃん。ごちそうさま」
愁は勢いよく立ち上がり、食器を乱暴に片づけてリビングをあとにした。
「愁!待ちなさい!」
純子は立ち上がって怒鳴ったが、深追いはせず、そのまま椅子に座り込んだ。そして慶太とふたりで顔を見合わせた。
2時間後。
慶太はテレビを見ながら簡単な課題を片付けていた。そこへ食器を洗い終えた純子が声を掛けた。
「慶太」
「なに?」
慶太は目線だけを動かして返事をする。
「ちょっと愁の様子を見てきてくれないかしら」
慶太は少し考えると、わかったと返事をしてリビングを出ていった。
その頃愁はパソコンに向かって純へのメールを打っていた。そこへ自分の部屋に近づいて来る足音がしたので、愁は身構えた。
母さんかな……
「愁?開けていいか?」
ノックと共に兄の声が聞こえて、愁はほっと胸をなで下ろした。すぐにメールを保存し、素早くパソコンをシャットダウンする。
「いいよ。なに?」
愁が返事をすると、心配顔の慶太がドアを開けて部屋に入ってきた。
「入っていいとは言ってないのに…」
愁がボソっとつぶやいたが慶太は無視した。
「お前、学校はいいの?」
愁はまたか、と思った。
「…ねえ、何か用があるの?ないの?」
そして愁も相変わらずの反応。問いつめようか、どうするか・・・慶太が逡巡してる間に愁は言った。
「用がないなら出てけよ」
「お前な…」
慶太は思わず怒鳴りそうになるのを堪えた。少し深く息を吸い込み、落ち着かせる。
「えっと…ゴミ箱、」
「は?」
「一緒に持っていってやるよ」
その場しのぎの言い訳だったが、愁には不自然には聞こえなかった。
「…そう。じゃ頼むよ」
愁の言葉に慶太は不安を崩したように、ニカっと笑った。
変なやつ。そう思いながら、愁は黒のゴミ箱からビニール袋と取り出して慶太に渡した。
「じゃあな」
そう言って慶太は愁の部屋をあとにした。
愁はごろんとベッドに寝転がった。
ため息がもれる。
どうして、自分の家族はこうも勝手なのか。
大人だけで勝手に話を進めて、本人には何の相談もない。それでいきなり学校に来いだなんて。
勝手過ぎる。
慶太だって似たようなものだ。今まで冷たかったのに、急に優しくなってご機嫌とろうとして。
わからない。自分の家族なのに、わからない。
僕の居場所はどこなのかな。
唯一わかるのは、自分の部屋が一番落ち着くということ。
本当は家族とも仲良くしたいのに、なにかが心の中で邪魔していて、何も出来ない。
わからない。自分の心が、わからない。
逃げてるとか、親が憎いとか、もう全部わからない。考えたくない……辛い……
愁は、ベッドの上で静かに涙を流した。
翌朝。慶太はいつも通り6時に目を覚ました。
慶太は毎日の勉強や運動のためにも、生活リズムは崩さないように気をつけていた。
携帯のアラームを止めてから、慶太はまた枕に頭を預けた。もう少しのんびりしていたいが、そうもいかない。今日は朝のミーティングがあるので遅刻はできない。
まだ半分寝ぼけたまま、慶太はベッドから起きあがった。が、
バサッ
という妙な音がして、慶太は足下に目をやった。
「…げ」
床に散乱しているのは愁の出したゴミたち、ティッシュなどであった。
そういえば、すっかり忘れていた。
慶太は昨日ゴミ出しを引き受けてそのままだったことを思い出した。自分は様子を見るように頼まれたのに、なんでゴミと一緒なんだか。
しばし自分に呆れつつも、慶太は散らばったゴミを片づけ始めた。派手に蹴ってしまって、ほとんど袋から出ていた。
「よし、これで…」
最後のひとつを拾いかけて手が止まった。これは…画用紙か?
今までティッシュペーパーばかりの中で一際目立つ。
でも…ただの、ゴミだよな。
でも、これだけ画用紙なのもおかしい……
人のゴミをあさるなんて変人のすることだ。そう思いつつもなんとなく気になり、慶太はくしゃくしゃに丸めてある画用紙を開いた。