2章1 自分に集中する
愁が学校を休み始めてから2週間が過ぎた頃。愁の生活に僅かな変化が見え始めていた。 愁はいつも早起きだったが、それは学校に行くという一定の義務感に縛られたものであって、学校に行くのを止めた途端に起床時間はかなり遅くなった。
9時や10時に起きることはざらで、目覚まし時計で起きてもそれを止めて二度寝する、ということもあった。
そして体のエネルギーもそれほど使わないので、夜眠れなくなり、夜更かしが増えた。 愁は夜更かしが増えても苦には感じなかった。小さい頃から早寝を教え込まれていたので、むしろ楽しかった。
だがそれも一時だけ。朝起きる時間が遅くなると、それだけ夜眠れなくなる。
愁も例外ではなかった。生活リズムが完全に狂い、昼夜逆転した生活を送るようになってしまった。
もうひとつの変化は意外なものだった。
愁はテレビを全く見なくなっていた。それとゲームの類も触らなくなった。
元々愁はテレビはあまり見ない。お気に入りの番組だけを時々見るくらいだ。
だが、学校に行かなくなってからは急にテレビが煩わしい物に思えてきた。
毎朝のニュース番組も、平日のお昼にやるバラエティも、
特に夜の時間帯の番組など以ての外で……
タレントや芸能人のトークなど、愁にはくだらないものでしかなかった。
「どうして勉強がつまらないと思うんだ?先生に教えてくれないか?」
それはつい最近に担任の教師から言われた言葉だった。
不登校が始まって約3週間が過ぎた頃。愁の家に担任教師の山下が家庭訪問に来ていた。 愁の家の応接間のソファに座り、ふたりきりで向かい合っている。母の純子は山下先生に頼まれて席を外していた。
「なあ槙原、お前は成績もテストの点も悪くない。勉強は嫌いじゃないだろう?」
一体両親は先生にどんな報告をしたのだろうか。考えるだけで気がめいる。
愁は先生の質問を頭の中で繰り返した。僕は勉強は嫌いか?
イエスかノーで答えるなら、間違いなくノーだ。でも、そうじゃない。
勉強が好きとか嫌いとか、そんなのは関係ない。学校で勉強することに、頑張ることに疲れたのだ。
でも、そうは言えなくて。愁は黙っていた。
「出来ないならいい。だけどやれるならもう少し頑張ってみよう。先生方やクラスのみんなだって心配してるぞ」
嘘だ。この時愁は直感的にそう思った。自分のクラスから不登校の生徒を出すのが面倒なだけなのだ。
「逃げずに頑張ってみよう。な?」
その後一言二言言葉を交わして、山下先生は帰っていった。
安心したのもつかの間で、愁の中には新たな不安が心の中で渦巻いていた。
気づいてしまった。自分が何をしているのか。
どんなに言葉を飾っても心は偽れなくて、愁はまた苦しんでいた。
日曜の午後。愁は部屋で麦茶を飲みながらパソコンを眺めていた。
パソコンの画面には純からのメールの文面が写し出されている。
今日の愁はめずらしく機嫌がいい。なぜなら、今日は早起き出来たからだ。
学校に行かなくなってから、こんな事で愁がうれしくなったのは初めてだった。
愁は時折笑みを浮かべながらメールの返事を書いていった。そして一通り見直してから送信ボタンをクリックする。
いつもと何も変わらないメールのやり取り。だが、愁の中では小さな罪悪感が心の奥に引っかかっていた。
それは学校のこと。この前のメールの返事で学校のことを色々訊かれてしまったのだ。
…勉強のほうはどうか。美術部ではいつも何をしているのか。
愁は嘘を書き込んだ。勉強はうまくやっている、部活は楽しい……
現実と真逆の事を書いても、そんなに心は痛まなかった。
だって、本当のこと教えてどうなるの?心配掛けるだけじゃないか……
そんな感じの妙な気の使い方で、自分は損をしているんだ。なんて気づきもしなくて。 家族以外の人にも嘘をつくことになってしまった。
…でも、これでいいんだ。そうやって自分を納得させてみる。
どうせ上辺だけのつき合いなのだ。個人的な相談を持ちかけても、相手が困るだけ。
だけど、やっぱり心は痛い。
愁は気を紛らわすように麦茶を一気に飲み干してから、カーテンと窓を開けた。
今日は風が気持ちいい。愁の部屋にもすぐに風が流れ込んできて、カレンダーや紙などがヒラヒラと揺れた。
今日の空は雲が多い。だがしっかり青空も見えてるので、曇りという訳でもない。
愁は窓から顔を出し、風を感じていた。この空を眺めていると、嫌なことも全て忘れられそうだった。
流れる雲と、その下に広がる街並みを眺めていて、愁は思いついた。窓から離れ、勉強机の中にあるお目当ての物を探す。
愁は色鉛筆とスケッチブックを取り出すと、窓際に椅子を持っていき、準備を始めた。
…絵を描くなんて本当に久しぶりだ。
美術部での愁はひたすら寡黙だった。他の部員が声を掛けるのを躊躇うほど、熱心に取り組んでいた。それほど集中していたのだが。
最後に真剣に絵を描いたのはいつだろうか。愁は中学からの短い記憶を辿った。
たぶん冬休みの学校だったはずだ。もうあの時から6ヶ月も絵を描いてない。
何故ずっと絵のことを忘れていたのか。それは愁が一番よくわかっていた。
「心に不安や気掛かりなことがあると、筆が鈍ることがある」
愁が唯一尊敬している中学の教師が、そんなことを言っていた。
愁はまず普通の鉛筆を手にした。勿論今だって心配事がないわけじゃない。だけど今は比較的気分は晴れやかだ。ストレスを感じてる時よりは良い絵が描けると、愁は思った。
捉えようによってはその先生の言葉は、「気分で絵を描いてる」の様に思われたかもしれない、と愁は思った。
だが、描いてみてやはり先生の言葉に間違いはないと確信した。真剣さは、淀みのないまっすぐな心から生まれるものなのだ。
やはりいい作品が描けるかどうかは、気持ちの問題らしい。
「何か大きな不安があっても自分に集中する、その心が大事なんだ」
教わったときはよくわからなかったが、今ならなんとなく意味がわかる。愁はそんな気がした。
最初の10分はずっと建物の輪郭を書いていた。愁は絵を描くときは空はいつも最後にしている。
そして遠くにある小学校の校舎に修正を加えて、愁は鉛筆を置いた。
愁の鉛筆の細やかな線は、変わらない街並みを丁寧に映し出していた。モノクロなその世界は、まるで自分の心を表しているようにも思える。
ここまでは良い出来だ。愁は画用紙の下半分を見てそう思った。
愁はひとつひとつを本当に丁寧に描く。それ故か、美術部の顧問からはこんな事を言われたこともあった。
「君の絵はとても上手だ。だが、美しくはない」
これを聞いたときは、絵が上手い=綺麗ではないのかと愁は先生を疑った。
だけど今なら、その違いが少しわかるような気がする。
愁はどこを何色で色づけるか決めてから、いよいよ空に移った。
窓からの景色は変わることがないが、雲はそうではない。絶えず動いていて、決して止まってはくれないのだ。
愁は悪戦苦闘しながらも、抽象的ではあるが雲の輪郭とそのふっくらとした特徴を描いていった。
これは結構いいのが出来上がるかも。そう期待した矢先に、愁は誤って手前の家に余計な線を重ねてしまった。
手が滑った。
まずい。
なんとか修正しなきゃ。愁はそう思い、机に消しゴムを取りに椅子を立った。
ところが、机の上にあった山下先生が持ってきたプリント類を見た途端に、別のイメージが頭に流れ込んでいた。
「逃げてちゃ駄目だ、一緒に頑張ろう。」
いつも耳障りな、担任教師の声。
逃げる。どうしてそんな、卑怯な言葉に聞こえるんだろう。
僕は、逃げてるつもりなんてない。
愁はその言葉でひとまず片付けて、邪魔な線をこれまた丁寧に消していった。
そして消えてしまった家の屋根の部分を修正にかかる。だが、頭では別のことを考えていた。
……自分は勉強や学校に疲れたといって、逃げてるだけ。
正に現実逃避。そんな言葉がしっくりきた。
さっきまでの自信がみるみるしぼんでいく。今までになかった感情が心に溢れてきて、愁は手を止めた。
「君の絵はとても上手だ。だが、美しくはない」
そうだ、美しくない。こんな寂しい心で絵なんか描いたって、綺麗でもなんでもない。
期待していた。自分に。でも、所詮その程度のものだった。
がっかりとは違う感覚。失望だった。
どうして、自分はこうなんだ。
愁はその絵が書いてあるページを破りとった。そしてくしゃくしゃにして、ゴミ箱に捨てた。
注:作者は絵についての知識は皆無です。