4章2 あふれるものは
愁ははるかのことを考えながら住宅地の坂を歩いていた。下校中の中学生の姿がちらほら見えていたが、愁は気にしなかった。
どうもさっきのはるかの言葉が、頭から染みついて離れない。
(うざったいけど、気にかけてくれてるのかな…)
今までかなり強引だったし、たぶんこれからもそうだろう。はるかはどんな気持ちで自分に話し掛けているのだろうか。愁には想像もつかない。
(心配?まさかな)
今までクラスメイトと接するのだって必要最低限だった。男子女子問わずあいさつはおろか会話さえなかった。そんなやつを気にかける人間はまずいないだろう。
(でもあいつと話してると心地良いんだ。学校に来ない理由とか聞いてこないから)
それが本心なのか。愁にはわからなかった。
家の前で立ち止まって愁は玄関の鍵を取り出した。左手には結局使われなかった傘が握られていた。空はまだ曇っているが雨が落ちてくる気配はない。
(でかい家だな…)
家が大きいからか、愁は孤独感がいつもより増しているように感じられた。
(ま、今に始まった話じゃないか)
傘を傘立てに突っ込み、扉を開けて家に入る。愁はまず台所で水を一杯飲んでから2階へ上がった。
部屋に入り、借りてきた本を手に取る。どうも今すぐには読む気がしない。愁は本を机に乱暴に放り投げてから、パソコンの電源を入れた。
中学校に入学してから親が買ってくれたパソコン。最初は興味がなかった愁だったが、今では主な暇つぶしのひとつとなっていた。しかしそれも2ヶ月も経つと、段々と退屈を感じるようになっていった。
パソコンを起動してまずやることはメールのチェックだ。メールを交換する相手はロクの飼い主の原田しかいないのだが、愁は欠かさずメールボックスをチェックしていた。
そして今日も例のごとく、原田からのメールは届いていた。
(またロクの写真かな)
そう思いながら愁はメールを開いた。
1週間後。
その日、愁はまた電車に乗っていた。今日は平日で、電車の乗客はあまり多くはない。それでも愁は少し人目を気にしていた。窓から外の景色を眺めていても、頭にあるのは今日のことばかりだった。
1週間前にもらった原田からのメール。内容はロクと一緒に公園に遊びにいかないかということだった。
愁は1年ほど前にロクを拾ってから今まで会いに行ったことがない。だが原田が指定した日は仕事の都合上平日だった。愁は誘いを断るつもりはなかったが、素直に行く気も起こらなかった。
(そろそろ着くかな)
目的地は以前に中学受験で訪れた街だった。またあそこに行くのかと思うと愁は複雑な心境だった。
電車が止まりドアが開く。降りる人はほとんどいなかった。愁はのんびりとせずに足早に改札を抜けて駅を出た。
今日は前日の雨から一転して雲ひとつない快晴だった。まだ本格的な暑さはまだ先だが、午前中でも日差しが強く愁は暑く感じた。
もし雨だったら今日はここへは行かなかっただろう…消極的な愁にはあいにくの晴れだった。
原田は駅から西のほうにあるコンビニで待っているとメールにあった。愁は記憶を頼りに待ち合わせの場所へと歩き出した。
平日の昼間に中学生くらいの男が街を歩いている…警察に見つかったら補導されるんじゃないかと思うと愁は気が気でなかったが、誘いを断ろうとは思わなかった。実際今も何人かの道行く人に怪訝な視線を向けられてはいるが、それも我慢出来ないほどのものではない。
結局愁がここに来たのは断る理由がなかったからだった。拾ってから写真でしか顔を見てないロクにも会えるし、何より今は学校に行ってなくて暇だ。しかし約束の日は平日ということが愁の心を迷わせた。
今学校に行ってないんです、だから来ました…なんて原田に言うわけにはいかない。
だから、愁は嘘をついた。
返事のメールには、その日は期末テストの最終日だから学校は午前中で終わってそれから行くと書いた。
これはバレないだろうと愁は思った。バレるわけがない。原田が自分の学校の予定など知るはずもないのだ。
だが本人を前にして同じことを言えるかというと話は別だった。捨て犬を保護してくれた優しく責任感のある人を目の前にして、平気で嘘を言う自信などない。それでも愁は嘘を突き通してここに来た。
(バレなければいいんだ…バレなければ)
そう自分に言い聞かせ、愁は前を向いた。横断歩道の向かいには待ち合わせ場所のコンビニが見える。まだ原田らしき人の姿は見えない。
(まだ来てないのかな)
少し胸の鼓動が速い。緊張しているのだろうか。もうずっと会ってない人とこれから会うのだ。しかも友達というわけでもない。緊張するのも当たり前だろうと愁は思った。
(うじうじしていても…しょうがない。行こう)
胸に渦巻く恐怖に似た気持ちを抑えて愁は道を渡った。
そしてコンビニの駐車場で深呼吸した時だった。
「こんにちは」
振り返るとそこには1年ぶりに見る原田純がいた。肩からバッグを下げて、コンビニから出てきたようだった。
「あ、こんにちは。久しぶりですね」
「そうだね。元気にしてた?」
「ええ、まあ」
原田はジーンズにシャツの出で立ちで既に夏の格好だ。長い髪の毛は茶色に染められていて、前に会った時とはだいぶ印象が違う。ロクを拾ったときはまだ学生ようなの雰囲気だったが、今は違う愁はと感じた。
「さっきまでコンビニで買い物してたの。ちょっと待たせたかな?」
そう言いながら原田は愁の隣にあった軽乗用車のドアを開けて、バッグを後部座席に置いた。
「あ、いえ。ちょうど来たところですから」
(これ原田さんの車なのかな)
「それであの…ロクは?」
「ああロクはね、まだ家なの。これから迎えに行くからね、乗って」
「あ、はい」
(これは緊張するな…)
待ち合わせ場所にはロクと原田が待っていて、散歩しながらみんなで公園に行く…というシミュレーションをしていた愁にとっては、車で原田とふたりきりというのは全く想定外だった。
「今日はあついね~。窓開けたら?」
「そ、そうですね」
声がうわずる。
(本当に緊張してるよ。落ち着け俺…)
ドアにあるボタンを押して窓を開ける。風がぶわっと入ってきて車内を駆けていく。外の空気は暑いが風は涼しくて気持ちよかった。
この街にあるのはどこにでもあるような生活の景色だった。人が歩いていて仕事をしていて…名前はしらないが学校もさっき通り過ぎた。そうした風景を見ていると愁は自分がひどく場違いなものに思えてきてしまった。
(もしあの時ロクを見つけなかったら、ここに通っていたかもしれないんだよな)
その事実が愁に重くのしかかる。もしあのまま受験して合格していれば、今のようにはならなかったのか…?
「難しい顔してるけど大丈夫?」
ふいに原田に話し掛けられ愁は顔を上げる。
「ええ、大丈夫です。ここに来るのは久しぶりなんで色々見てて…」
「そっか、あれから1年も経ったからね」
前方の交差点の信号が赤になり、ふたりを乗せた車は止まった。交差する道路の信号が青になり、信号待ちをしていた自動車が動き出す。ふたりの間に少し気まずい沈黙の空気が流れた。
(もうあの時のこと…納得してくれてるよな)
ロクを見つけたあの日が、愁の中学校の入学試験の日だということを原田は愁とのメールのやり取りで知った。その後は受験しなくて本当に大丈夫だったのかと何度もメールで聞かれた。
(それとも…まだ気にしてるのかな)
信号が変わり、車が動き始めた。愁はちらっと原田を盗み見るが、表情は読めない。
突然原田が愁のほうに顔を向けた。ふたりの視線がぶつかる。
「もうすぐ着くからね」
「えっと…は、はい」
慌てて愁は顔をそらす。
(やばい焦った…見てたのバレたかな?)
原田の様子を窺うが特に表情に変わりはない。車は市街地の大きな道路を抜け、丘へと繋がる坂道に差し掛かった。前方には10階建てか、それ以上はあるマンション群が見える。
(まさか、あれじゃないよな。高そうだし立派だし…)
内心失礼な事を考えていた時、原田が口を開いた。
「いつ見ても立派だねーあのマンション。私が越してきてすぐ建設が始まったんだよ」
知ってた?とでも言いたげな表情で原田はこちらに顔を向ける。
「えーっと…じゃあこの近くなんですか?」
「そ。あそこの角曲がってすぐ」
愁と原田の乗った車は右折し、肌色のアパートの駐車場に停まった。愁は車を降りて周りを眺めた。住宅街の少し隅に位置する3階建てのアパート。まだ新しいのか、壁の塗装は比較的綺麗だ。
「ほらあそこ」
原田が2階の真ん中の部屋を指さす。
「ロクが見てる」
見るとロクがテーブルか何かに登っているのか、ベランダの窓ガラスに前足をついてこちらを窺っている。しばらくしていなくなったかと思えば、また窓に足をつけて愁と原田のほうを見ている。
(かわいいやつだな)
自然と笑みがこぼれる。
「たまにこっちから帰るとああやって窓からこっちを見てるの。おかげでソファーのまわりが散らかるけどね」
原田に付いていきアパートの正面にまわる。階段を上がって2階に行くとロクの吠える声が聞こえてきた。
はいはい今開けるよ、と呟きながら原田は鍵を開けてドアを開いた。
愁はドアを開けた途端にロクが飛び出してくるかと思っていたが、意外にもロクは玄関にお座りの姿勢で待っていた。
「ただいま。今日はお客さんが来てるよ」
原田に頭を撫でられた後にロクは愁にすり寄ってきた。
「久しぶりだな!」
愁は珍しく大きな声を出して挨拶し、ロクを撫でた。ロクのほうは遊び相手がやってきて嬉しいのか愁のことを覚えているのかわからないが、落ち着きがなくうれしそうに尻尾を振っている。
「おまえの命の恩人だよ~」
なんてふざけて言ってみる。
(…覚えてるわけないか)
ロクとじゃれていると奥の部屋から原田が戻ってきた。手には弁当が入っていると思われるランチバックを持っている。
「お弁当用意出来たから行こうか」
「はい。近くの公園でしたよね?」
「そう。車で5分くらいだからすぐ着くよ」
ロクにリードをつけて愁と原田は部屋を出る。が、ロクに勢いよく引っ張られてリードを手渡された愁はあっという間に階段を降りてしまった。
少し落ち着けと愁は心の中で思ったが、ロクは外出がうれしいのかかなり興奮した様子だった。
「いつもこんな感じなんですか?」
ロクに引きずられないように踏ん張りながら愁は聞いた。
「そうだね~、最近全然遊びに行ってなかったからかな?」
その後も愁はロクに引っ張られ続けたが、なんとか車の後部座席にロクを乗せてふたりは出発した。
「たぶんね」
車で坂道を上っている時に原田が口を開く。
「ロクは愁くんのこと覚えてると思うよ」
唐突に言われて愁は少し戸惑った。ロクはというと、さっきまでの暴れようが嘘の様に後ろでおとなしくしている。
「割と誰にでも人懐っこいけど今日は特別嬉しそうだから」
愁は原田の顔を見たが真面目なのかふざけているのかよくわからない表情をしている。
「どうですかね…」
愁はどっちでもよいという風にそっぽを向いた。窓の外の、街全体をぼんやり眺める。
「そうだ、学校は本当に大丈夫だった?」
「え?ええ、テスト終わってすぐ来たんで大丈夫ですよ」
愁は内心ドキッとしたが、落ち着いてあらかじめ用意した答えを言った。時刻は午前11時前。時間も見計らって家を出てきた。少し早すぎたかもしれないが。
(大丈夫。絶対ばれない)
愁は自分で心を落ち着ける。原田は、
「そっか」
と言っただけでこの話は終わった。
原田の反応が少し引っかかった愁だったが、ふたりの乗った車はもう公園のすぐ手前だった。
嘘をついたこと。勿論後ろめたい気持ちはある。だけど本当のことを話そうとは愁は思わなかった。とにかく今はテストが終わって解放された中学生を演じなければならない。
愁は一呼吸入れて車を降りた。
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