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さよなら喋る猫  作者: gojo
三、 吾輩
9/10

3. 2

 気が付けば川原だった。

 闇雲に路地を走り抜け、ここに辿り着いたのだった。安隆の声は聞こえない。振り切ったようだ。ヒデオは興奮しており、俺のことをきつく抱き締めたまま肩で息をしていた。


「ヒデ坊、痛えぞ。離せ」


 そう言うと、ヒデオはいくらか落ち着き、ゆっくりと俺を地面に降ろした。そして、懐からいくつかの錠剤を取り出した。

 ヒデオは病んでいる。本人にその自覚はないが、予感めいた何かによって病院で処方された薬だけは律儀に飲んでいた。ヒデオは水も使わず、器用に錠剤を飲み込んだ。すると俺の頭の奥の方が僅かにピリッと痺れた。

 俺はその痺れを気にしないよう辺りに注意を向けた。土手に沿って並んだ街路灯と橋のイルミネーションが仄かに地面を照らしている。そこはかつて野球をした広場だった。


「これからどうするんだ?」


 俺は聞いた。


「とりあえず都心へ向かおう。そして一人と一匹で生活するんだ」


「どうやって?」


 更に尋ねると、ヒデオは投げやりに答えた。


「最悪、お前が漫談でもして稼げば良い。僕は桶を売る」


「なんだよそれ」


「猫が喋れば桶屋が儲かるって言うだろ」


「聞いたことねえなあ」


 現実味のない話をしながら差し当たり橋へと向かって歩いた。街へ出るには川を渡る必要がある。こんな薄暗いところを彷徨うよりはまだ栄えている場所の方が安全だと考え、俺も都心へ向かうこと自体には賛成をした。


 しばらく進むと、草むらの中にゴムボールを見つけた。


「こんなところにあったのか」


 ヒデオが呟く。


 あの野球をした日、打席に立つヒデオに対しピッチャーは手加減をした。ヒデオは緩やかな初球を捕らえた。ボールは高く飛び、そのまま消えた。安隆や陽子、劇団員達は過剰に歓声を上げ、ホームに戻ってきたヒデオを称えた。与えられただけの『英雄』という称号。ヒデオはそれを素直に受け取り、機嫌を良くした。


 栄光の証とも言えるそのゴムボールは今や無造作に草むらに転がっていた。その佇まいに寂しさを覚え、共感を得るため声をかけようとヒデオの顔を見上げた。ヒデオはボールを見つめ、遠い昔のことを懐かしむかのように微笑んでいた。俺はあえて何も言わずに再び橋の方へと目をやった。


「あれは?」


 俺は思わず声をあげた。橋の中腹辺りにせわしなく首を振りながら走っている男の姿があったのだ。男はこちらを向くと手摺から身を乗り出して叫んだ。


「ヒデ!」


 安隆だ。

 ヒデオは我に返って面を上げ、安隆の姿を認めると踵を返し川の方向へと走った。俺も後に続く。広場を越え、地面が土から砂利に変わると、ヒデオは両手を広げて俺の名を呼んだ。俺はヒデオの胸に跳びついた。


「川の中を渡ろう」


 ヒデオはそう言うと更に川に近付いた。

 安隆がこちらに向かってくる。ヒデオにしてみれば迷っている暇なぞなかったのだろう。躊躇いもせずに靴のまま川に入った。

 その川は水深が浅い。その上、中央には大きく膨らんだ中洲があり、濡れることさえ気にしなければ向こう岸に渡ることは容易に思えた。

 ヒデオの足が膝上まで水に浸かる。思ったよりも流れが速く、ヒデオは足をもつれさせ、よろけながら歩を進めた。どうにか中州に辿り着き、砂利の丘を越え、再び水の中に入る。

 そして数歩進んだ時、異変に気が付いた。明らかに先程よりも水が濁っている。ヒデオは危険を察し、中洲へと戻った。その時、役所の方角からサイレンが鳴った。


「……増水警報をお知らせします。上流地域における集中豪雨のため川の水位が上昇しています。河川流域の方はお気をつけ下さい……」


 アナウンスが繰り返された。

 ヒデオは茫然とし、両手をだらしなく垂れ下げた。俺は砂利の上に飛び降り、怒鳴るように進言した。


「まずい。ここは元来た道を引き返そう。おい、ヒデ坊!」


 ヒデオはしばらく間を置いてから渋々後ろへ向き直った。

 丘から川を見下ろすと、それはまるで駆け抜ける獣の群れのようだった。ほんの一瞬でここまで様子が変わるものなのかと、知らしめられた現実に絶望した。中州が徐々に侵食されていく。土手に設置された急激増水を知らせる警告灯が赤く灯り、クルクルと回転している。


 その赤い光の中に、切り絵のような人影があった。


「ヒデ!」


 それは安隆の声だった。


「……そこを動くな。ジッとしてろ。お父さんがすぐ迎えに行く」


 岸までは僅か十メートルほどだ。しかしその間には飛沫をあげる急流が横たわっている。安隆は何か役に立つものはないかと辺りを見渡したが、すぐに何もないことを知り、覚悟を決めて呼吸を整えた。ヒデオは虚ろな目でその様子を見つめていた。


「ヒデ坊、親父を止めろ。こんな川、渡れやしないぞ」


 ヒデオは何も言わない。ただ安隆を見つめ続けている。


「ヒデ坊、しっかりしろ!」


 何度も声をかけると、ヒデオはやっと呟いた。


「大丈夫。お父さんはヒーローだ。必ず僕達を助けてくれる」


「無理だ。現実を見ろ。みんな死んじまうぞ」


「ヒーローは死なない。無敵だ。僕を守るって約束してくれた」


 完全に冷静さを欠いている。俺はなだめるように言った。


「助かりたくないのか。救助を呼ぶように伝えろ」


「それじゃ駄目なんだ。約束を果したことにならない。お父さんが僕達を救わなければ意味がないんだよ。お父さんはヒーローだ。ヒーローはそういうものだろ!」


 言い合いをしている間にも、安隆は着々と川に入る準備をしていた。上着を脱ぎ、靴を脱ぎ、軽装になって飛び込む位置を求め始めている。


「お前の親父はヒーローじゃない。ただの不器用な男だ」


「違う!」


 気持ちは痛いほど分かる。しかし俺にはヒデオを守るという使命がある。止めなければならない。そう考えていると再び頭の奥が痺れた。俺はその痺れに耐えながら声を張った。


「親父はヒーローの振りをしていただけなんだよ。偽者なんだ!」


「うるさい、黙れ! お父さんは本物のヒーローだ。僕のことを本当に大切に思ってくれているんだ。本物だ。本物のヒーローなんだよ」


 ヒデオは目を潤ませ訴えた。


「……偽者はお前だろ。猫が喋る訳ないんだ! 偽者は消えろ!」


 その言葉を聞いた瞬間、何かがゴトリと音をたてて俺の中から転げ落ちた。視界に靄が広がる。目の前の出来事が遠くの景色のように感じられ、眩しい光の中に吸い込まれる感覚に囚われる。

 俺は不安のあまりヒデオの名を何度も呼んだ。しかしヒデオは振り向かず、川辺を凝視している。更に叫ぶ。


『ヒデ坊!』


 だが、発せられた音は、猫の鳴き声だった。


 心の中にも靄が蔓延る。俺はもうお前を守れないのか。意識が混濁し、思考力が低下する。危局を打破する手段が浮かばない。俺は出来の悪い狂言回しのように、ただ成り行きを見届けることしか出来なくなっていた。

 救いを求めヒデオを見つめるが、ヒデオは俺が言葉を発せられなくなったことなぞ気にも留めていない。

 諦め、と言えば良いのだろうか、俺は心の中の靄の存在を受け容れ、首を下げた。


 ふとヒデオの見つめる先に目を向けると、そこには信じ難い景色があった。視界の靄の向こう、赤い光の中に、剣士が立っていたのだ。剣士の雰囲気を纏った安隆ではない。紛れもなく、それこそ例の芝居のビデオから飛び出してきたかのような刀を携えた剣士だ。


『ドン』


 太鼓の音が聞こえる。


『ドン』


 再び聞こえる。


 俺は悟った。

 これはヒデオの見ている景色。そしておそらく、最後の幻だ。


 どこからともなく鳴り始めた太鼓の音は激しさを増した、


『……ドンドコドンドコ…………』


 剣士は、幾分流されることを考慮したのだろう、上流の方へと刀を構えながら太鼓のリズムに合わせて走り出した。

 回転する赤い光が剣士を急かす。


『……ドコドコドコドコ…………』


 更に太鼓のボリュームとスピードは上がる。それはまるで嵐のようにけたたましく、最高の終わりを予感させる。


 そして、その盛り上がりが絶頂に達した瞬間、ピタリと音が止んだ。

 ヒデオが叫ぶ。


「お父さん!」


 その声と同時に、剣士は川へと身を投じた。


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