3. 1
俺は、陽子の運転する車に揺られながら昔のことを思い出していた。
俺の中で最も古い記憶は少年の泣き顔だった。俺という自我が目覚めた時、その顔が目の前にあったのだ。少年は救いを求める目でこちらを見ていた。何かを伝えようと口を動かしていた。しかし言語として認識出来る音は一向に発せられなかった。
「大丈夫だ。安心しろ。俺がここにいる」
小声で俺は言った。
俺には、少年が何を言おうしているのかが分かっていた。それだけではない。目覚めた瞬間から、自身の名前、存在理由、現在の状況、全てを理解出来ていた。
俺の名前はレオン。
その少年ヒデオを守るために、ヒデオの妄想から生まれた、喋る猫だ。
それからの二年間、課せられた使命に俺は忠実に従った。しかし今、俺とヒデオは離れ離れにされようとしている。ヒデオの不安が遠くからでも感じ取ることが出来た。
「ここからは歩いて家を探す」
安隆がそう言って俺を抱えて車を降りる。陽子は頷いてクラクションを短く鳴らし、早々にその場を去った。
エンジン音が遠ざかると辺りはしんと静まり返った。そこは閑静な住宅街だった。似たような家がいくつも並んでいる。俺は数日ではあるが間宮宅に世話になっており、界隈の道を把握していた。しかしそれを安隆に伝える術を持ち合わせていない。俺が何を言おうと、ヒデオ以外の人間にはただの猫の鳴き声にしか聞こえないようだ。歯痒いが致し方ない。安隆は住所のメモだけを頼りに家を探し始めた。
「違う、そっちだ」
時折、そう言ってはみる。
「そうか、お前もヒデに会いたいよな」
しかし、見当違いの返事がくるだけだった。
数十分が過ぎ、ようやく間宮の家に着いた。安隆は一度咳払いをし、インターホンのボタンを押した。
「はい」
和泉の声が聞こえる。安隆が申し訳なさそうに名乗ると、和泉は急いで外に出てきた。
「安隆。ヒデオは? ヒデオは一緒?」
和泉の呼吸は乱れていた。
「どういうことだよ」
安隆は呆然としながら尋ねた。
「ヒデオが帰ってこないの。レオンを探しにいったのかも」
「何で、ちゃんと……」
安隆はそう言い、続く言葉を咄嗟に飲み込んだ。
「ごめんなさい。わたしがちゃんと見ていなかったから」
「やめてくれ。そんなことを言うな……」
安隆は大袈裟に首を振り、拳を強く握った。
「……とにかく、探してくる」
安隆のその言葉を聞くと、和泉は警察への通報とタクシーの手配を済ませ、夫が帰るまで家で待機するから何かあったら連絡をくれと、数枚の紙幣を交通費として差し出した。安隆は手を震わせながらそれを受け取った。
タクシーが到着すると、安隆は急いで俺を連れて乗り込み、自宅の住所を運転手に伝えた。
移動する車中にて安隆は珍しく俺に話しかけてきた。
「なあ、レオン。俺はどうしたら償いが出来るんだ?」
もしものことがあったらどうすればいい? ヒデは何を望んでいる? 和泉は? 俺に出来ることはないのか?
それらはもはや独り言であった。俺は黙って聞いていた。
「お前を見ればヒデは安心するんだろうな。俺は猫にも劣る……」
安隆は乾いた笑い声をあげた。
車内からアパートを見ると、部屋の灯りがついていた。出掛ける前は確かに消したはずだ。ヒデオはそこにいる。安心すると共に緊張感が漂った。安隆が唾を飲む。
タクシーを降り部屋の前に立つと、室内から馴染みのある音が聞こえてきた。安隆は慎重に扉を開け、中の様子を窺った。部屋は綺麗に片付いていた。扉をくぐり奥の部屋へ行くと、そこにヒデオが座っていた。テレビの画面には芝居の映像が映っており、そこから刀の合わさる音が響いていた。
「お帰りなさい。遅かったね」
ヒデオは拍子抜けするほど日頃と変わらぬ様子だった。俺はその調子に合わせ、いつものように溢した。
「ヒデ坊、腹が減ったぞ」
ヒデオが言う。
「食事の準備ならしておいたよ」
すると安隆が答えた。
「ヒデ、気持ちは嬉しいが、お前はもうここで料理なんかしないで良いんだよ。食事なら家でお母さんが用意してくれるだろ。お母さんが心配している。一緒に帰ろう」
「お父さん、僕は分かったんだ。ほら見て……」
ヒデオは安隆の発言なぞ意に介さず、テレビを指差し、神々しささえ感じられるほどの落着いた表情で話を始めた。
「……お父さんは過去にも悩んだんだ。でもね、最後には正義が勝つんだよ」
「ヒデ、それは芝居だ。作り物なんだよ」
安隆はそう呟いた。
「ヒーローも迷うことがあるんだよね。僕も危うくお母さんに騙されるところだった。だけど真実に気が付いて、ここまで逃げてきたんだよ。お父さん、僕と一緒に敵を倒そ……」
「ヒデ!」
安隆は目を瞑って声を張り上げた。声を張り上げ、両手、両膝を床につけ、頭を下げた。
「……頼む、聞いてくれ。お父さんはヒーローじゃないんだ。全部嘘なんだよ」
痛み。ヒデオの感情が俺の中に流れ込み、胸が疼いた。ヒデオは立ち上がり、黙って安隆の後頭部を見下ろした。
安隆が話を続ける。
「お父さんは駄目な男なんだ。お前のことをずっと騙していたんだよ。本当は、今も昔もお母さんの方がお前のことを大切にしているんだ。分かってくれ」
テレビから賑やかな音楽が流れ、無言の二人を包み込んだ。ヒデオの顔を見上げると、その両口角が鋭く吊り上げられていた。
「どうしてそんなことをするの? ヒーローはそんなことをしないんだよ……」
胸の奥が燃えるように熱くなる。
「ヒデ坊、落着け!」
瞬間、テーブルの上の食器が安隆目掛けて飛んだ。ヒデオがそれらを投げ付けていた。突然の出来事に安隆はうろたえ、転がるように後ろへと退がった。その隙を突き、ヒデオは俺のことをバッグから取り出して乱暴に抱え上げ、勢い良く外へと飛び出した。
鉄製の階段が大きな音を上げ、後方から安隆の声が聞こえる。その声は徐々に遠くなっていった。