2. 3
一週間ほど過ぎた朝のこと、見知らぬ番号から電話が掛かってきた。わたしは寝ぼけた状態のまま通話ボタンを押した。
「もしもし、陽子先輩?」
それは和泉ちゃんの声だった。
慌てて用件を聞くと、
「これから会えませんか? 渡したいものがあるんです」
とのことだった。
「オッケー、すぐ行く」
わたしはいつもの悪い癖で、安請け合いをしてしまった。
電話を切ってからいくつもの疑問が湧く。
渡したいものって何? 今は旅行中じゃないの? どうしてわたしの携帯番号を知ってるの?
考えても仕方がない。既に約束をしてしまったので、行くしかないだろう。わたしは溜息をつきながらのそのそとジーンズに足を通した。
約束の喫茶店に着くと、和泉ちゃんはオープンテラスで紅茶を飲んでいた。淡い色調のフワフワとしたワンピースを着ている。
「やあ。どこのお嬢さんかと思った」
わたしが声をかけると、彼女は上品に微笑んだ。
「とっくにお嬢さんなんていう歳じゃないですよ」
向かいの席に座り、早速疑問を投げかける。
「しばらく旅行じゃなかったの?」
「昨日、一旦帰って来たんです。事情がありまして」
彼女は頼みごとをしにきた割には堂々としていた。
「そうなんだ。事情っていうのは渡したいものと関係があるの?」
「はい実は……」
そう言って彼女は隣に置いてあった荷物を持ち上げた。
「あっ……」
思わず声をあげた。その荷物は、猫の入ったバッグだった。
「これを安隆に渡して欲しいんです」
「え? それじゃヒデ君の話し相手がいなくなっちゃうじゃない」
わたしは口走ってしまった。すると彼女は怪訝そうな顔をした。
「知ってるんですか?」
動揺しながら答える。
「あ、うん、ヒデ君の病気のことは、聞いた……」
「そうですか。何でも知ってるんですね」
和泉ちゃんは視線を逸らした。わたしはその「何でも」が何を指すのか量りきれず、牽制を効かせて返事をすることにした。
「『全て』は、聞かされていない」
彼女は動じることもなく話し出した。
「まあ、良いですけど。とりあえずこれを受け取って下さい。うちの主人、ヒデオと親睦を深めようと長期の旅行を計画したんです。それなのにあの子、猫としか話をしないものですから、だから、安隆に猫だけ返そうと思って戻ってきたんです」
開き直りとも思える発言。その言葉からは細かな感情は汲み取れなかった。
「あいつに直接渡せば良いじゃない?」
新たな疑問を投げかける。
「元夫とはいえ、新婚なのに異性と二人きりで会うのはどうかと思いまして、安隆本人にそのことを相談したんです。そうしたら陽子先輩に渡しておいてくれと携帯番号を教えられました」
「あのお、わたしは何も聞かされていないんですけどお」
「やっぱりそうだと思いました。あの人、そういうところが欠けているんですよね」
和泉ちゃんは苦々しい思い出を噛み締めるかのように眉間に皺を寄せた。未だに安隆のことを恨んでいるのだろうか。恨んでいるとしたら、そのストレスはどこか違うところへ向けられるのでは。わたしは不安になった。不安になって、尋ねた。
「別にそれくらいのお願いは聞いても構わないんだけど、良いの? さっきも言ったけど、ヒデ君の話し相手がいなくなっちゃうじゃない。それって酷くない? この間もヒデ君が楽しみにしている芝居の直前に迎えに来たりして……」
「そういうことになっているんですね……」
気のせいか、彼女の表情が夕立の前の空のように突然曇った感じがした。その泣いているようにも見える顔のまま彼女は話を続けた。
「……あれは、あの時間に迎えに来てくれって安隆に頼まれたんですよ」
「嘘、でしょ?」
意外な返答に声が裏返る。
「本人に聞いてみれば良いじゃないですか。まあ、わたしは今更どう思われても構いませんけど」
「どうしてそんなことを? 安隆だってヒデ君に芝居を見せるのを楽しみにしていたのに」
「さあ……」
いつも毅然とした姿勢の彼女が珍しく言いよどんだ。
「……たぶん、ですけど、悪役になりたかったんだと思います」
「悪役? あの自称ヒーローが?」
「あの人はヒーローなんかじゃないですよ。あの人は……」
彼女は適切な言葉がどこかに落ちていないか探すかのように、辺りに視線を泳がした。
「あの人は?」
先を促すように尋ねる。
「あの人は、不器用な人なんです。不器用で、寂しがり屋で、他人の視線ばかりを気にする、そういう人なんです」
不器用なのは認めるが、「寂しがり屋」や「人の視線を気にする」という点については理解しかねる。わたしは何も言わず、和泉ちゃんを見つめた。すると彼女は露骨に大きな溜息をつき、全く違う話題を振ってきた。
「みんなは元気ですか?」
「みんな? あ、ああ、団員ね。元気だよ。もう和泉ちゃんの知らないメンバーばかりだけどね」
そのやり取りでその場の雰囲気は変わり、他愛もない会話をすることしか出来なくなってしまった。
結局わたしは笑顔で猫を受け取り、笑顔で彼女を見送った。
一人になると、掌が汗で濡れていることに気が付いた。
緊張なんかしてんなよと、わたしは自分で自分を叱りつけた。
安隆に電話をしたところ、「昼は仕事だから夜に来てくれ」と言われた。なぜこんなにこき使われなければならないのかと思いながらも、わたしはその言葉に従うことにした。
日が暮れた頃安隆の家に行くと、彼は丁度帰宅したばかりだった。
「ほら」
猫の入ったバッグを差し出す。
「茶でもしていくか?」
彼はわたしを部屋に招き入れた。
この部屋に入るのは二年前の引越しの手伝い以来だ。あの時は何もない殺風景な部屋だったが、今では、生活の臭いが立ち込めている。流しには汚れた食器や魚の焼き網、焦げたフライパンが山積みになっていた。
「まあ、座れよ」
小さなテーブルの前に座布団を出される。わたしは緊張しながらそこに正座した。すると安隆はキッチンでお湯を沸かし始めた。
「料理なんてするんだ」
彼の背中に話しかける。
「は?」
「流しに食器が置いてあるから、料理してるんだなあって思った」
安隆は一瞬無言になり、それからたどたどしく返事をした。
「あ、ああ、まあな。特にお湯を沸かすのとインスタントコーヒーを淹れるのが得意だ」
「そんなのに得意も下手もないでしょ」
「それはどうかな? ほらよ、違いを楽しめよ」
そう言うと彼は、湯飲みに入ったコーヒーをテーブルに置いた。
「いただきます……」
湯飲みを手に取る。
安隆はわたしの隣に座り、思い出したように猫の入ったバッグの蓋を開けた。猫が飛び出し、出窓の縁に乗っかり丸くなる。どうやらそこがお気に入りの場所みたいだ。
わたしはその様子を見ながら呟いた。
「これで良いのかね。ねえ、レオン」
「和泉だって医者に相談くらいはしてるだろ。これで良いんだよ」
彼は、わたしの言いたいことを全て察しているかのようにそう言い、コーヒーを啜った。
それから、長い沈黙が漂った。
安隆は、コーヒーを飲み終えると、わたしに背中を向けて横になり、ネコジャラシのような玩具で猫にちょっかいを出し始めた。
わたしは我慢が出来ずに訴えた。
「ねえ、やっぱりヒデ君が心配だよ」
安隆は首だけこちらに向け、片眉を上げた。
「は? なんで?」
「なんでって、分かってるでしょ?」
更に問い詰める。
「要領を得ねえなあ。全く意味が分からん」
「惚けないで。ヒデ君がまた虐待を受けたらどうするの?」
安隆の表情が石のように硬くなった。
「虐待? 誰がそんなこと言ったんだ?」
わたしはレストランの駐車場でのことを思い返した。
「実は、ヒデ君が猫にそれっぽいことを話しているのを聞いちゃったんだ」
そう言うと、安隆はわざとらしく笑い出した。
「ハハハ、そうか、聞いたんだな。そうかそうか……」
「虐待で心が壊れたのに、その原因の人物と一緒にいて病気って治るもんなの?」
安隆は笑いながら再び猫にちょっかいを出し始めた。
わたしは流石に苛立ち、声を強めた。
「ねえ!」
すると安隆は、背中を向けたまま不気味なほど静かに喋り出した。
「陽子、お前は勘違いをしているよ。あいつの病気はそういう病気じゃないんだ」
わたしは戸惑いがちに尋ねた。
「どういうこと?」
「虐待なんか行なわれていない。ただ、ヒデ自身は虐待を受けたと思い込んでいるんだ」
「え? あ……」
わたしの頭の中に、『幻聴、幻覚』、そして『妄想』という言葉が浮かんだ。
「俺が和泉と離婚するよりもずっと前から、あいつは病んでいたんだ。俺が気付いた時には、ヒデは和泉のことを酷く恐れるようになっていたよ。遺伝が原因だとか、子供は罹りにくいとか、色々と言われているみたいだけど、現在でも明確な発祥のメカニズムは解明されていないらしいよ。精神病ってことで心の病気と思われがちだけど、実際には脳の機能の問題と言った方が正確なんだろうな。少なくとも、和泉が原因ではないよ」
わたしは確認するように尋ねた。
「本当なの?」
「ああ。終日家族で一緒に過ごした時でさえ、俺がずっと様子を見ていた時でさえ、ヒデは和泉に殴られたとか言っていたよ。仕舞いには、目からの光線で脳みそを直接攻撃されるとも言っていた……」
そこで安隆は言葉を詰まらせた。後ろからでも唾を飲み込んだ様子が窺える。
「……そして、俺は怖くなって、益々家に寄り付かなくなった。芝居に没頭して、現実から逃げたんだ。でもな、逃げ切れるもんじゃないんだよ、現実ってさ。ヒデと和泉の二人きりの生活も限界になって、ある時、そうだ二年前、和泉には責められ、ヒデには助けを求められたんだ。だから俺は、俺は、俺はヒデの妄想を全て肯定した。ヒーローを騙り、ヒデの目の前で和泉のことを敵と罵ったんだ。和泉は泣いてたよ。当たり前だよな……」
彼の肩は震えていた。
「それから俺は、自分の保身のためだけにヒーローの振りをし続けたんだ……」
何も言えなかった。ただ、色々な思いがないまぜになり、涙が零れた。
和泉ちゃんにとって、病んだ息子と二人きりで夫の帰りを待つ日々はどれほど辛いことだっただろう。その上、虐待の濡れ衣を着せられてどれほど悔しかっただろう。
だからといって安隆を咎める気にもなれない。繕うためだけにヒーローを演じ続けた姿が、あまりにも憐れで、あまりにも惨めで。
「何もかも俺が悪いんだ。だから俺は悪者として責められなければいけないし、いつか英雄にやられなければいけない」
そう言うと安隆は寝返りを打ち、わたしのひざの上に頭を乗せて仰向けになった。
わたしは泣き顔を見られたくなくて、彼の目の上に手を置いた。
「俺は駄目な奴なんだ……」
「知ってるよ」
かすれた声しか出ない。
静かな時間が流れる。猫がわたし達のことをジッと見ている。
「なあ、陽子……」
ふと安隆はわたしの手の上に手を重ね、口を開いた。
「俺と付き合わないか?」
いつからか、そういうことを言われる気配はしていた。しかし言って欲しくないという思いから、自意識過剰な考えだ、そんなことを言われる訳はないと、頑なに予感を否定し続けていた。
でも、やっぱり。
白けたような、悲しみのような、怒りのような、表現しにくい複雑な気持ちが湧き上がる。理知的に頭の中を整理しようとするが一向に片付かない。
「馬鹿にするな……」
考えがまとまるよりも先に自然と言葉が零れ落ちた。無意識ながらも上出来な表現だと心の中で頷き、立ち上がる。安隆の頭が座布団の上に落ちる。わたしは捲くし立てるように言葉を続けた。
「和泉ちゃんに甘えて、ヒデ君に甘えて、今度はわたしが犠牲者? 自分が悪いだなんて口先だけで、全く反省していないじゃない。世間から悪い奴だと後ろ指を差されたところで何の解決にもならないよ。どうせあんたのことだから可愛そうな自分に酔いしれて、わたしか誰かに慰められて、それでお終いでしょ? 悪いことをしたら謝る。それが社会常識ってもんだよ」
安隆は体を起こした。
「いつか、時が来れば和泉にもヒデにも謝るつもりではいるさ」
「いつかあ? 意味が分かんない。食いたい時に食い、寝たい時に寝る、これはあんたが言った台詞だ。謝る気があるなら今すぐにでも謝りに行け!」
わたしの勢いに気圧されたのか、彼は無言になった。
その時、猫が安隆のもとにやってきて体を摺り寄せながら彼の顔を見上げた。それを見た安隆は気合を入れて立ち上がった。
「分かった。今からヒデのところに行こう」
彼は頭にタオルを巻いた。
「送るよ」
わたしは涙を手で拭い、車のキーをちらつかせた。
アパートの前に車をつけるため先に部屋を出る。玄関の扉を閉めて煙草を咥える。そしてポケットからライターを取り出した時、手を止めた。
頭の中に、いつか安隆と交わした車内での会話が蘇っていた。
「煙草をやめろ、か……」
呟きながら吸うか吸うまいか一瞬悩む。一瞬悩んで、結局、火を点けた。
わたしは、過ぎたことを鼻で笑い、煙を深く吸い込んだ。