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公演終了から三日後のこと、わたし達劇団員はミーティングのために駅前のビルの一室に集合していた。そこは、一階から三階までが商業テナント、四階より上はホテルやレンタルルームといった施設だ。
窓から外を見下ろすと、洒落た服装の若者やスーツ姿の男性ばかりが歩いている。それに対し団員達は、大半が上下黒のジャージ姿だった。
明らかに場違いな雰囲気の彼らをたしなめるように、わたしは苦言を呈した。
「あのさ、今日は稽古をしないで、話し合いだけって言ったよね? それなのに、どうしてジャージなの?」
すると団員達は誇らしげに反論をしてきた。
「これが僕達の正装です」
さも一体何がおかしいのですかと言わんばかりだ。
「いい? こんな繁華街でジャージ姿の集団がウロウロしていたら、ちょっとおかしいなあって思わない? わたし達は大衆に対して共感して貰える芝居を提供しなければならないのに、一般的な常識や価値観を無視してどうするの? 少しはこいつを見習って……」
そう言って安隆の肩に手を置いた時、違和感を覚えた。
「……って、あんた、なんでそんな格好なの?」
普段は誰よりも率先してジャージを着ている彼が、なぜかスーツ姿だったのだ。
「これは男の正装だ」
当たり前の発言だが、当たり前に聞こえない。
そんな安隆を見て団員達が騒ぎ始めた。
「ジャージ先生! 俺たちのジャージ先生はどこへ行っちまったんだよ!」
安隆が応じる。
「お前らのジャージ先生はもういねえよ! 痴漢の容疑で捕まったのさ! 今日からはこの俺、スーツ先生が担任だ!」
団員達が益々騒ぐ。
「うわあああん、ジャージ先生!」
「痴漢さえしなければ良い人だったのに!」
「覗きさえしなければ教師の見本だったのに!」
「スーツ先生なんて嫌だ!」
安隆は椅子の上に立ち、高らかに笑った。
「ハッハッハッハッ……」
団員達は泣き叫びながら机やら床やらを叩いている。
しばらくはそんな寸劇を暖かく、いや、生暖かく見守っていたのだが、いよいよ度が過ぎるほどうるさくなってきたので、私はノートを丸め安隆の頭を叩き、一言発した。
「注目!」
静かになったのを確認し、更に述べる。
「隣の部屋では会社勤めの方々が真面目に会議とかしているの。あまりうるさくするとこの部屋を追い出されてしまうから、いい加減にしなさい」
彼らは拗ねた顔をして頷いた。
「はい、姐さん、すいませんでした」
団員達はわたしのことを「姐」と呼び、恐れている。
彼らは黙って席に着いた。
「さてと……」
一呼吸置き、ミーティングを始める。ここに至るまでの馬鹿騒ぎはいつものことだった。
反省会、収支報告、今後の予定組みと、順調にスケジュールを消化し、残りの時間を、雑談も兼ね、お客さんから回収したアンケートを回し読みする時間にあてた。
辺りが活気付く。既に全てのアンケートに目を通していたわたしは、この間に喫煙所にでも行こうと思い、席を立った。
その時、安隆が近付いてきた。わたしは先手を打って自然に振る舞わなければならないという気持ちになり、慌てて声をかけた。
「スーツ、似合ってるじゃない」
「サンキュ……」
安隆は少し引きつった笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「あの……」
何か言い辛そうだ。賑やかな室内において、わたし達の周りだけは静かな空気に包まれた。
「……あの、あのさ、今夜、時間あるか?」
「あ、うん」
ろくに話も聞かないまま、わたしは誘いに応じた。
車を走らせ、目的のレストランに着いた時にはとうに日が暮れていた。
ミーティングを終えた後、わたしは車を取りに一旦自宅に戻り、ついでにフォーマルな服装に着替え、再び安隆と合流した。そして現在に至る。
安隆曰く、「……今夜、ヒデ達と一緒に食事に行くことになってるんだ。一緒に来てくれないか?」とのことだった。気が重い。ヒデ君達ということは、おそらく和泉ちゃんやその再婚相手も同席しているということだ。今更だが、安請け合いしたことを後悔した。
目の前に建つオレンジ色の灯りに照らされた洋館は、いかにも一見客を拒絶しているかのようだった。
「ちょっと大丈夫? この店、高そうだよ?」
心配になり安隆に尋ねると、彼は平然とした態度で答えた。
「大丈夫だよ。看板のところにオムライスの写真が飾ってあったからな。オムライスを扱っている店は庶民的って決まってんだよ」
そんな理論は聞いたことがないと思いながらも、自信満々に店内へと向かう彼の姿に頼もしさを覚え、わたしは後に続いた。
店内に入ると、ヒデ君達は一番奥の席にいた。
和泉ちゃんがわたし達の姿を見つけ立ち上がり、頭を下げる。隣に座る男性もそれにならい一礼すると、至って自然に向かいの椅子を二脚、後ろへと引いた。
「どうぞお掛け下さい。お忙しいところ急にお呼び立てして、申し訳ございません」
安隆とは対照的な品の良さそうな男性。わたし達よりだいぶ年上だろう。
「いえ、こちらこそお招き頂き、恐縮です」
安隆も紳士的に応じた。
そんな彼を見て、スイッチが入ったなと思った。彼は時折、ある種の人格障害ではないかと思えるほど、違うキャラクターを演じることがある。ふと和泉ちゃんを見ると、彼女も同じことを考えたらしく、一瞬鼻で笑う仕草を見せた。
各々が自己紹介を終え、お勧めの料理を注文する。
「一度、こうしてお会いしたかったのですよ……」
間宮と名乗る男性は落ち着いた口調で話し始めた。
「……和泉から、学生時代からお世話になっていたと聞いています。お二方は、今もご一緒に活動をされているのですよね。羨ましいなあ。私も学生時代は……」
当たり障りのない話も織り交ぜつつ、間宮氏は、自身も再婚であること、男の子供が欲しかったこと、和泉ちゃんとの馴れ初めなど延々と話を続けた。
安隆はいちいち大袈裟に相槌を打ったり笑ったりしてみせた。ただ、常にヒデ君のことが気になるらしく、「面白いな」や「凄いな」といった同意を求める台詞を所々で投げかけていた。
しかしヒデ君は何の反応も示さなかった。間宮氏はその様子を認めると、益々話をした。きっとこの人なりの気の遣い方なのだろう。
食事を終えると、話題はこれからのことについてになった。
「まずはしばらくの間、三人で旅行にでも行こうと思うのです……」
熱く語る間宮氏。その隣で和泉ちゃんは何度も頷いた。
するとヒデ君が突然立ち上がった。
「レオンが外に出たいって言ってる」
ヒデ君はテーブルの下からバッグを取り出した。バッグの中には猫の姿が見える。
全員困惑した表情に変わった。
「そうだな。少しは外の空気を吸わせてあげた方が良いかもな」
安隆が言う。
「はい」
ヒデ君は短く返事をし、店の外へと向かった。
残された大人達は互いに視線を送り合い、最後に、三人が同時にわたしの方を向いた。
「……あ、わたし、様子を見てくる」
そう言わざるを得ない。
外に出ると、ヒデ君は駐車場の隅で猫と向かい合い、しゃがみ込んでいた。
「やあ」
声を掛ける。
これでも、第一声はどうしようかと悩んだ末の言葉だ。案の定ヒデ君は振り向きもしない。わたしはこめかみの辺りをいじりながら縁石に腰を掛けた。
ヒデ君と猫の横顔を見つめる。その時、ヒデ君が何か喋っていることに気が付いた。猫に話しかけているようだ。猫は熱心にヒデ君の顔を見上げている。
ペットと話をする人は良く見かけるが、ヒデ君のそれは何かが違うように思われた。虚ろな目が、まるでわたし達とは違う景色を見ているかのようだった。わたしは話の内容が気になり、それを聞こうとしゃがんだ姿勢のまま近付いた。ヒデ君は何も反応しない。もう一歩近付く。まだ話を聞き取れない。もう一歩近付く。
わたしは夜の駐車場で一人、奇妙な『ダルマさんが転んだ』をしばらく続けた。
「おい、なにやってんだよ……」
突然背後から声をかけられ、わたしは勢い良く立ち上がった。
「……帰るぞ」
振り返ると、そこには安隆が立っていた。背後には和泉ちゃんと間宮氏もいる。いつの間にか食事会はお開きになっていたようだ。
「あ、お代は……」
そう言ってカバンから財布を取り出そうとした時、安隆が小声で言った。
「間宮さんが支払ってくれたよ」
良いの?という視線を安隆に向ける。良いんだよ!という視線が返ってくる。
わたしは恐縮しながら頭を下げ、礼を述べた。
「……ご馳走様でした」
間宮氏はそんなわたしに対し、笑顔で応じた。
「機会がありましたら、またお会いしましょう。ヒデオ君も喜ぶでしょうし」
わたしは、「喜ぶ」という言葉の意味を思い出すのに、少し時間がかかった。
安隆を送るため、車を走らせる。
彼は何も言わず外を眺めていた。ヒデ君とわたしがレストランの外にいる間に何やらあったらしく、機嫌が悪そうだ。
「料理美味しかったねえ」
「ああ」
話しかけても気のない返事しかしてこない。
いたたまれず、わたしは煙草を吸うことにした。窓を少し開けて火をつける。すると安隆が迷惑そうに口を開いた。
「今日日煙草を吸うなんて社会不適合者だけだ」
わたしは笑いながら応じた。
「へえ。そんな話は初めて聞いたし、何よりあんたには言われたくないなあ」
彼は相変わらず窓の外を眺めながら言った。
「お前の体の心配をしてんだよ。煙草やめた方が良いんじゃないか」
「わたしの彼氏でもないのにお説教?」
「彼氏だったら、説教しても良いのかよ」
送って貰っているくせにどれだけ図々しいのだと思い、わたしはあえて返事をせず、フーッと音を鳴らして車内に煙を吐き出した。
しかし安隆は虫を払うかのように右手を軽く振っただけで、顔をこちらに向けることさえしなかった。
「何があったのか知らないけどさあ。感じ悪いよ」
そう言っても彼は何も言わない。そこで、別の話を振った。
「ヒデ君、元気なかったね」
「あいつはいつだって元気がないさ」
仕方なく返事をしてやったという雰囲気だ。
「その言い方も感じ悪いよ。それに、ヒデ君に失礼だ」
安隆は一瞬こちらに視線を向け、溜息をついた。
「しばらく放っておいてくれよ」
いよいよ我慢ならなくなり、わたしは苛立ちをあらわにした。
「はあ? ココ、ワタシノ、クルマ。分かってる? だいたい今日誘ってきたのはあんたでしょ? 干渉されたくないなら最初から呼ばなければ良かったじゃない」
「ヒデの話し相手になってくれれば、それで良かったんだよ」
「残念でしたあ。ヒデ君は何も話してくれなかったよ……」
そう言った時、駐車場でのヒデ君の姿が頭をよぎった。
「……そう。ヒデ君は、ずっと猫に話しかけてたよ」
すると安隆は、突然身を乗り出してきた。
「レオンにか? お前、話の内容は聞いたか?」
その反応に少したじろぎ、わたしは弁解するように即答した。
「何も、聞き取れなかった」
「そうか……」
彼は落胆とも安堵ともとれる調子で呟き、小さく何度か頷いた。
「それが、どうかしたの?」
「どうもしないよ」
安隆はまた外に視線を向けた。
「どうもしない訳ないでしょ? 明らかに今、ピクンッてなってたよ。何か隠してるのお?」
居心地の悪い車内において、少しでも会話を成立させようと軽い気持ちで尋ねた。
安隆はしばらく、唸ったり、溜息をついたりを繰り返し、そしてわたしが思っていたよりも遥かに重々しい調子で口を開いた。
「ヒデはレオンと話が出来るんだ。そしてレオンにしか本心を打ち明けない……」
その日の深夜、わたしはパソコンのキーボードを叩き、検索を行なった。主な収入源である広告の原稿を作成している最中だったのだが、安隆から聞いた話が頭から離れず、無意味とは知りながらもネットに救いを求めたのだ。
目的とする単語が並ぶ。そのいくつかのページを開いてみる。
『…………精神疾患の一つ。主な症状は、幻聴、幻覚、妄想……』
ヒデ君が患っている病気の説明だ。
三日前、『剣の行方』最終公演の日に、ヒデ君が精神病を患っていることが判明した。あの時、和泉ちゃんはヒデ君を病院に連れていったのだ。その事実は先程レストランで安隆に知らされた。
ただ彼はずっと以前から、断定的ではないにしろ、気が付いてはいたようだ。だからこそ、適切な治療を施せるであろう間宮家にヒデ君を引き渡した。ヒデ君のための決断、それはつまり、そういうことだったに違いない。
ディスプレイに表示された文字は酷く冷たく、それだけを見ていると全てが絵空事のように思えてくる。
その考えを振り払おうと、『幻聴、幻覚……』と頭の中で反芻しながら過去のヒデ君とのやり取りを思い返した。
言われてみれば、不自然な点もあった気がする。しかしそれは先入観とも取れる。あの人は精神病、あの人も精神病と適当なことを言われたとしても、「言われてみれば」と思うのではないか。少なくともヒデ君は普通に会話が出来たし、料理も上手だったし、日常生活を送る上で何ら問題はなかったように思えた。
わたしは、症状の進行具合よりもむしろ、なぜ心を患ったのかが気になった。
ヒデ君が駐車場で猫に話しかけていたことについて、安隆が、「話の内容は聞いたか?」と尋ねてきた時、わたしは咄嗟に、「何も聞き取れなかった」と嘘をついた。意図的ではなく、反射的にそう答えてしまったのだ。本当は、いくつかの単語は確認出来ていた。
「……お母さん……赤い目……叩く……叩かれる…………」
その時は然して気にも留めなかったが、心を患っていたという事実、猫にのみ本心を打ち明けるということ、三日前の怯えた表情、それらの点と重ね合わせると、一本の線が見えてくる。
二年前の安隆と和泉ちゃんが離婚した時のことについてもそうだ。その線に繋がる。二人の離婚した原因が安隆の生活態度にあったということは、彼らを知る者であれば誰でも知っている。しかし、安隆がヒデ君を引き取った事情については誰も分からなかった。離婚後、和泉ちゃんは実家に帰ったと聞いている。いくら安隆の方が幾分か収入があったとはいえ、普通ならば不在がちな父親よりも祖父母と暮らしている母親の方に親権がいくものではないか。その疑問も、一本の線の上に置けば納得がいく。
ヒデ君は和泉ちゃんから『虐待』を受けていたのではないか?
肌寒くなる。安隆の、「ヒデに、お前のことをずっと守るって約束した」という言葉を思い出す。
和泉ちゃんの罪、隠そうとしている安隆、それらはわたしの中で確信となっていた。