2. 1
わたしはベッドの上で、その温もりの余韻を確かめていた。
さっきまで隣に寝ていた男は誰だっただろう、そんな惚けたことを考えた。ひょっとしたら夢だったのかもしれない、そうとも思った。飲みすぎたようだ。朦朧とした意識を目覚めさせようと煙草に手を伸ばした時、浴室のドアの開く音がした。
「おい、陽子。バスタオル借りるぞ」
安隆の声。
ああ、やっぱりこいつか。
煙草を咥えるまでもなく、一気に意識は現実に引き戻された。ほんの数十分前まで、わたし達は乱暴に交わっていたのだった。
溜息をつくわたしをよそに、安隆はベッドの脇に散らばった自分の服を拾い集め、そそくさと着替えを始めた。
「帰るの?」
とりあえず聞いてみる。
「ああ」
彼は振り返りもせず、素っ気無く返事をした。
もうとっくに電車のない時間だ。むしろ早朝と言っても良い。どのようにして帰るのかと疑問に思うと、彼はそれを察したのか、タイミング良く言葉を投げかけてきた。
「歩いて帰るよ」
始発の時間まで仮眠でも取っていけば良いのに、そう言おうとしたが、やめた。
今の状況において、彼が泊まるという選択肢を選ばないであろうことは雰囲気から分かった。彼はつまらないところで意地を張る。そんなことは十分過ぎるほど知っていた。
わたしと安隆の付き合いは長い。かれこれ十五年近くになる。その間、わたし達は単なる友人であった。一線を越えたことなど一度もなかったし、異性として意識したことさえもなかった。
だけど今夜は。
酒の勢い、気の迷い、慰め、言い訳はいくらでも思いつく。しかし、相応の感情を抱かずに、その結果に辿り着くことが有り得るのだろうか。今思えば、お互い無意識のうちに、「あわよくば」という気持ちを隠し持っていたのかもしれない。打ち上げの後で彼が弱音を吐いた時、わたしは今抱き合わなければいけないと感じた。彼も同じ気持ちだったのだと思う。
きっと、これはいつか起こり得ることだったんだ。
数時間前は飲み屋にいた。わたし達の芝居、『剣の行方』の打ち上げをしていたのだ。
その席で安隆は二年振りにお酒を口にし、その上、年甲斐もなく無理な飲み方をして早々に酔い潰れた。普段シラフながらも盛り上げ役を担っていた彼が静かになり、ほんの二時間ほどで一次会は終了した。概ねの団員は二次会に行くからと、よりネオンの輝く方へと向かったが、わたしは安隆を連れて自宅に戻ることにした。介抱するため、加えて話を聞くためにだ。
今日の、正確には昨日の夕方、最終公演が始まる直前にわたしの目の前でヒデ君が和泉ちゃんに連れていかれた。ヒデ君が芝居を楽しみにしていたことを知っていたので何度も引き止めたのだが、一瞬ヒデ君が振り返っただけで、結局二人は雑踏の向こうへ消えてしまった。
もちろん親友とはいえ家庭の事情に首を突っ込むべきではないということは分かっている。しかし、明らかに自暴自棄になっている彼を放っておくことは出来なかった。
自宅に着きソファに腰を掛けると、安隆は苦しそうに喉に手をあてた。わたしは麦茶と氷をバーボングラスに入れ、それを彼に差し出した。
すると安隆は、つまむようにグラスを手に取り、それをゆっくりと揺らしてカラカラと音をたてる氷を見つめた。
「カッコ良いところ申し訳ないんだけど、それ、麦茶だからね」
「分かってるよ」
彼は大きな声を出し、それを一気に飲み干した。
そして、ポツポツと話し始めた。
「俺は駄目な奴なんだ…………」
安隆と和泉ちゃんが離婚したのは二年前。それ以降彼はヒデ君と二人で暮らしていた。その生活は決して楽なものではなかった。そんな折、彼のもとに和泉ちゃんから連絡があった。それは、再婚したということと、ヒデ君を引き取りたいという内容だった。
「俺はヒデに、お前のことをずっと守るって約束したのに…………」
約束したのに、彼はすぐにその申し出を受け入れた。
ヒデ君のことを思っての決断だったそうだ。
「俺は駄目な奴なんだ……」
繰り返される言葉。
「そうだ、そうだ、あんたは駄目な奴だ。よしよし」
わたしはそう言って、ぶっきらぼうに彼の頭を撫でた。
ふいにその手を取られ、わたし達は床の上に転がり、そして。
「じゃあ、ミーティングで会おうな」
着替えを終えた安隆が言った。わたしが無言でいると、彼は更に呟いた。
「ごめん……」
なるほど、そういう展開をご所望か。
わたしはしたたかにそのシナリオに付き合うことにした。
「どうして謝るの?」
「あ、ごめん……」
気まずそうに目を伏せる彼。
「後悔しているんだね」
「ああ、ごめん。どうかしてたんだ。今日のことはなかったことにしよう。その方がお互いにとって良いと思うんだ」
「そうだね……」
わたしは寂しげに呟いた。
確かに正論だ。なんだってないことに出来るのであれば、それに越したことはない。
でもね。
部屋を出る彼の後ろ姿を見つめながら、わたしは十年前の『なかったこと』を思い出していた。その時も、安隆は芝居がかった調子で「ごめん」という言葉を繰り返した。
それは今夜と同じように芝居の打ち上げ後のことだ。『鎖と剣』という思い入れのある作品を成功させた達成感から、わたし達は無闇にお酒を飲んだ。飲み屋を後にし、少しは酔いを醒まそうと自宅までの道をわたしと安隆は二人で歩いた。他意はない。家の方角が一緒だっただけだ。
みんなと一緒にいた時は呆れるほど馬鹿騒ぎをしていたのに、二人きりになった瞬間からは嘘のようにお互い静かだった。当時のわたしは、おそらく安隆も、これからのことについて少なからず悩みを抱いていた。
「……今回の公演を最後に、山田と哲は芝居を辞めるってさ」
わたしは呟いた。
「知ってる。相談を受けたよ」
安隆は妙に落ち着いた調子だった。その態度が気に入らず、わたしは語気を強めた。
「それで良いと思う?」
安隆は動じる様子もない。
「まあ仕方がないだろ。戦うフィールドを変えるだけであって、別に悪いことではないと思うぜ。人其々思うところはあるし、何が正しいかなんて一概に言えないだろ」
理屈は分かる。分かってはいるが、わたしはとにかく悲しかった。
うつむくわたしを見て、安隆なりの慰め方だったのだろう、彼はガードレールの上に立ち、芝居の台詞を口にした。
「さあ、選べ! 鎖と剣、お前はどちらを手にするのだ!」
わたしは自分の言葉で応じた。
「わたしは剣を選ぶ。ずっと攻め続けるよ」
続けて、冗談めかしてこう言った。
「でも、どこかの妻子持ちは家庭と言う名の鎖に縛られるんでしょ?」
安隆は大きな笑い声をあげた。
「馬鹿言うなよ。俺は剣士だぜ。剣を選ぶさ。結婚しても縛られることなく、やりたいように自由に生きるぜ」
その言葉は彼が彼自身にかけた呪いだったのかもしれない。自分の発言が真実であることを証明するかのように、安隆はその後、何年にも亘って一切家庭を顧みない生き方をした。
「……俺はな、食いたい時に食い、寝たい時に寝る。女を抱きたくなったら、ちょちょいと口説く。芸に生きる人間っぽいだろ」
わたしは鼻で笑った。
「食事と睡眠はともかく、あんたは女を口説くことは出来ないでしょ。意外と小心だしね」
「分かってねえなあ。俺はやる時はやっちゃうよ。試しにキスしてやろうか」
「はいはい。ほら、チュー……」
からかいがちに唇を突き出した。
すると、以外にも安隆は真剣な面持ちで顔を近づけてきた。今まで感じたことのない気配に、わたしは怖くなり、逃げるようにそっぽを向いた。
「馬鹿。冗談だよ。あんたがくだらないことを言うから、からかっただけ。口は災いの元だね。もう変なことを言わないように気をつけなよ」
若干しどろもどろなわたしに対し、安隆は何事もなかったかのように、笑いながらいつもの調子で切り返してきた。
「この場合、唇は災いの元の方が良いんじゃね?」
わたしは、動揺と、一人怯えてしまったことへの後悔が相まって、自分でも驚くほど女々しく返事をしてしまった。
「どちらにしても、災いなんだね……」
瞬間、静かになった。
「あ、ごめん……」
小さな声。
「なに謝ってんの? 意味が分かんない」
「なんとなく、ごめん……」
安隆は相好を崩し、言葉を続けた。
「今のはなかったことにしてくれ。全部忘れよう」
以来、お互いその日のことには触れないまま十年が過ぎた。
安隆があの日のことを本当に忘れたのかどうか定かではない。ただ、一つ分かっているのは、彼の本質的な性格はあの頃と何も変わっていないということだ。歳ばかりとって、ちっとも成長していない。その貧困な発想は役者として致命的ではないのかと、ここが稽古場なら説教をしているところだ。
そんなことを思いながら、わたしは裸のまま玄関に鍵をかけた。