1. 4
十年前、お父さんは僕に、『英雄』という称号を与えてくれた。
五年前、お父さんは僕に、レオンを連れてきてくれた。
二年前、お父さんは僕に、一つの約束をしてくれた。
そう。お父さんとお母さんが別れを決めた日のことだ。
その日、僕は暗い部屋の中でレオンを抱きながら泣いていた。襖の向こうからは二人の怒鳴りあう声が聞こえていて、僕は見えない何かにひたすら謝り続けた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
繰り返し言っても、返事はこない。
しばらくするとガラスの割れる音が響き、僕は目を瞑って、助けてと、祈った。
その時、腕の中から声が聞こえた。
「大丈夫だ。安心しろ。俺がここにいる」
それはレオンの声だった。
思えば、レオンはこの頃から喋り始めた。
小さな温もり、小さな理解者に、礼を言おうとした。けれど、唇が震えるばかりで言葉が出ない。その様子を見て彼は僕の頬を伝う涙を舐めてくれた。
かすかに安心した瞬間、それを打ち砕くかのように勢い良く襖が開かれた。突然光が差し込んできたせいで目の前がぼやけた。そのぼやけた景色の中に何かが立っていた。
お母さんだ。
お母さんは駆け寄ってきて、僕の頭を両手で掴んだ。
「ヒデオ!」
それは言葉ではなく、獣の叫びだった。
僕は奥歯を楽器のようにカチンカチンと鳴らした。
「ヒデオ。ねえ、誰が悪いの? 誰が悪いか言ってみなさいよ!」
世界が揺れる。そう思ったら、揺れているのは僕の頭だった。
「ねえ!」
その叫びと共に僕の頭は激しく振り回されていた。
上も下も、右も左も分からない状態になりながらも、真っ赤に充血したお母さんの目だけは、なぜかハッキリと見て取ることが出来た。
僕は、「あぁ、あぁ」とか「うぅ、うぅ」とか声を出した。もう叩かないで。そういう思いを込めて。
すると、お父さんがお母さんを僕から強く引き剥がした。
「ヒデにあたるなよ!」
襖の辺りまで飛ばされたお母さんは体勢を立て直すと、何らかの反論をしようとしたのか、大きく息を吸った。
僕は何も言わすものかと、すかさず叫んだ。
「あれは敵だ!」
お母さんは、吸い込んだ息を力なく吐き出した。そして、口元を三日月型に歪め、ゆっくりと立ち上がった。
「分かった。分かった。分かった」
同じ言葉を三度言い、お母さんは、静かに荷物をまとめ出した。
お父さんは、僕を黙って抱き締めた。
僕は、レオンを抱き締めた。
しばらくすると、お母さんは大きなカバンを一つ提げ、光の中に姿を消した。
玄関の開閉する音が聞こえ、それ以降、静かになった。まるでお母さんと一緒に音という現象そのものもなくなってしまったかのような、そんな静けさだった。
涙が止まらなかった。長い時間、抱き締め、抱き締められたまま過ごした。
「もう心配するな……」
呼吸が少し落ち着いた頃、お父さんが僕の頭をなでながら囁いた。
「……ずっとお前のことを、お父さんが守ってやるからな」
僕は、涙を拭いてお父さんの顔を見上げた。
「どんな敵が来ても、やっつけてくれる?」
「ああ、もちろんだ」
お父さんは深く頷いた。
「お父さんはヒーローだもんね」
「そうさ。お父さんはヒーローだ」
「うん。ヒーローじゃないとね」
その時、レオンが言った。
「確約を得ろ」
僕は言われるがまま、小指を差し出した。
「そうだ。約束だよ」
日曜日、目を覚ますと朝食が準備されていた。
お父さんの舞台は最終日を迎えていた。初日からの四日間、天候にも恵まれてお客さんの入りは上々だと聞いている。
「ええ、こうして公演が成功しようとしているのも、ヒデのおかげです」
お父さんはテーブルの前で改まった態度をとった。
「どうして敬語なの?」
「一応な、感謝を伝えるための誠意だ。どうだ、飯を作ってみた」
焦げた卵焼きと焦げた魚、ご飯とダシの香りがしない味噌汁。なんとも言い表し辛い出来栄え。強いて言うならば、努力はうかがえるといった具合だ。ただ、お父さんの言うところの、『誠意』に感動し、ありがたく頂くことにした。
僕がご飯を頬張る姿を見て、お父さんは笑顔で話し始めた。
「なあ、ヒデ。今日は何時の回に来るんだ?」
僕はご飯を急いで飲み込んで答えた。
「実はね、陽子さんに打ち上げに来ないかって誘われているんだ」
お父さんは目を丸くした。
「本当か? で、参加するのか?」
「うん。そのつもり。だから、夜の最後の回を見て、片付けを手伝うよ」
一瞬お父さんの表情が険しくなった。明らかに何かを悩んでいる様子だ。僕は不安になり、しばらくお父さんの顔を見つめた。すると、お父さんは目を伏せて唸り声をあげた。
「レオンをどうするかだな……」
お父さんは視線を上げ、僕のことを見た。
「……打ち上げに参加するとなると、朝までドンチャンやる可能性が高い。芝居小屋も飲み屋もペットは持ち込めない。そうなるとレオンの世話が出来なくなるだろ? そうだ、そうか、そうだな。ペットホテルに預けるか」
僕は、そんなことかと思い、安心した。
「一日くらいならレオンは一人で留守番出来るよ」
暢気に答えると、お父さんはまた少し険しい顔をした。
「いやいや、そんな長時間も留守番をさせたことはないだろ? 無難にここはプロの手に任せた方が良いと思うんだ」
レオンに視線を向けると、彼はどちらでも良さそうな顔をして寝そべっていた。
「あ、じゃあ、預けてくるよ」
渋々答える。
「いいや。小屋に行く途中にペットホテルがあったからお父さんが行ってくるさ」
「え? いいよ。僕が行くよ」
そう言ったのだけれど、お父さんは引き下がろうとしなかった。
「これくらい、お父さんに任せとけよ」
自信満々にそう言うので、僕は頷いた。
お父さんは食事が終わると、早速出掛ける準備を始めた。昼の公演まで時間はある。昨日までの家を出た時間を考えると、そこまで急ぐ必要なないように思えた。
「もう行くの?」
尋ねると、お父さんはすぐに答えを返してきた。
「千秋楽だから早めに行って集中したいんだ」
お父さんはレオンの入ったキャリーバッグを抱え、玄関に向かった。そして姿勢を正すと、僕に向かって敬礼をした。
「いってきます。じゃあな……」
日が傾き始めた頃、僕は劇場に向かう途中の商店街を歩いていた。
開園まで時間はある。滅多に遠出することがないので、僕は並ぶ店先を眺めながらゆっくりと移動した。
数件の店を覗き、ついでだからレオンのエサでも買おうと思った時、遠くの方にいる一人の女性が目についた。その女性はペット用のキャリーバッグを持っていた。
レオンのバッグと同じだ。
そんなことを考え、女性の後ろ姿を目で追っていると、急に背筋が寒くなった。なぜそうなったのかは分からない。本能的な反射としか言いようがない。
僕は怖くなって、駆け足で劇場に向かうことにした。
劇場に到着すると、受付には陽子さんの姿があった。
「ピッタリ開場時間だね……」
その顔はいつもと同じ笑顔だった。僕はそれを見て安心した。
「……お父さんのルーズなところは似ないで良かったねえ」
陽子さんは僕のことをしみじみと見ながらそう言った。
「お父さんは本当はやれば出来る人なんだよ」
僕が言い返すと、なぜか陽子さんは大きな声で笑い出した。
「そうだね。その通りだ」
陽子さんは目を擦り、手元にあるチラシやパンフレットの準備をした。そして、それらを僕に差し出し、再び口を開いた。
「ヒデ君のために特等席を用意しておいたよ。入口のスタッフに声をかけてくれれば案内してくれるから」
僕は笑顔で頷いた。すると陽子さんはわざとらしく何かを思い出したような素振りをした。
「あ、それから。開園まで時間があるから、その前に、ちゃんとトイレは済ませておきなさい。分かった?」
「僕はガキじゃないよ」
そんな会話をしながら互いにクスクスと笑っていると、背後に誰かの気配を感じた。同時に陽子さんが顔を強張らせ、僕の背後の何かを見ながら呟いた。
「和泉ちゃん……」
それは、おどろおどろしい響き。スッと血の気が引く感触を覚え、僕は恐る恐る後ろを振り返った。
そこには、お母さんが立っていた。
「お久しぶりです。陽子先輩」
涼しい顔でお母さんは陽子さんに声をかけた。
陽子さんは戸惑いがちに笑顔を作った。
「あ、久しぶり。芝居を見に来てくれたの?」
お母さんは一瞬だけ僕に顔を向け、それから陽子さんに向き直ると、一言一言確実に意味を伝えようとするかのように、ゆっくりと言葉を口にした。
「いいえ。今日はヒデオを迎えに来たんです」
クラクラと目眩がした。胸の奥が痙攣し、呼吸が乱れ、吐き気をもよおした。単語の意味は分かるけれど、それらが組み合わさって出来たその短い文章は、僕の知識を遥かに越えた異質なものに感じられた。
「ヒデオ、行きましょうか」
お母さんが僕の手を取ろうとした。
僕は咄嗟にそれを払いのけた。するとお母さんは、どういう訳か納得したように頷いた。
「お父さんから、何も聞かされていないのね?」
僕達のやり取りを見た陽子さんが、慌てたように口を挟んだ。
「和泉ちゃん、どういうことか良く分からないけどさ、今から安隆が主演の芝居なんだよね。なんだったら一緒に見ていけば良いじゃない。話はさ、それからにしようよ」
「すみません。あまり時間がないんです」
そう言ってお母さんは目を細め、僕の方を向いた。
「……さあ、ヒデオ。行きましょう」
「嫌だ。お父さん、助けて」
僕は懸命に訴えた。
それに対して、お母さんは酷く落ち着いた調子で口を開いた。
「お父さんにも了承は得ているの。ね、行きますよ」
体の中にある全てのものを吐き出すように僕は叫んだ。
「嘘だ!」
一瞬の静けさの後、お母さんはその手に提げていたキャリーバッグを差し出し、溜息をついた。
「ほら、レオンはもう預かっているの」
バッグのシースルーの布の向こうから、レオンが恨めしそうに二色の目で僕を見ていた。
「ヒデ坊、この女の言うことは本当だ。ついていくしかないようだぞ」
全身を冷たい何かが駆け巡った。指先からどんどんと温度が失われ、やがて全身が固まり、意識が遠のく。
頭の中が真っ白になると、目の前の景色も真っ白に染まった。そして気が付くと、僕はバッグの持ち手を握っていた。
お母さんはそれを確認すると、受付に背を向け、靴音をならしながら歩き始めた。僕は引きずられるようにその後をついていった。
振り返ると、劇場の二階の窓にお父さんの姿が見えた。お父さんはジッと僕達のことを見つめていた。ただ、台本らしきもので顔を半分隠していて、その表情は分からない。
なぜ? と、すがるような視線を送ると、お父さんは僕に向かって小さく手を振った。
裏切り。二人と一匹で過ごした二年間は嘘だったんだ。剣の行方は、僕の剣士はどこへ行った。
進むべき道を探ろうと、目の前の風景と、過去の記憶を漁る。でも、何も分からなかった。どこに行けば良いんだ。そんなことを考えていると、いつか口ずさんだ歌が、頭の中でグルグルと流れた。
迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのお家はどこですか…………