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「クッ、クッ、クッ…………」
ペット用のキャリーバッグの中でレオンが笑う。
「嫌な笑い方するなよ」
僕は怒った。
「そう言われても、こんな面白いことはなかなかないだろ」
「まあ、確かにね」
始まりは今朝のことだ。
前回の公演が終わってから三ヶ月ほどが経ち、お父さんは舞台設営の仕事だけをしているはずだった。ところが突然、僕に遊園地のチケットを差し出してきたのだ。
「今日の仕事はこれだ」
言っている意味が分からず首を傾げると、お父さんは遊園地のガイドブックを取り出して端の方を指差した。
「刀剣戦隊サムライジャー。お父さんはサムライイエローだ」
僕は傾げた首を今度は反対方向に傾けた。
お父さんは急いで話を繋いだ。
「あいにく変身後の中の人だが、まあ、落ち着け。ヒデは知らないかもしれないが、実はサムライジャーは変身後の方が強い。分かるな? 変身後のほうが凄いんだ。以前、約束しただろ。子供向けの芝居に招待するって。お父さんはヒーローだぞ。今日から出演するんだ。どうだ、見に来るか?」
どうやらお父さんは、大道具の仕事をこなしながら、僕に内緒でヒーローショーの練習もしていたらしい。
僕は長い休みの最中でほぼ毎日家にいる。断る理由は特になかった。横目でレオンのことをチラリと見ると、彼はにやけた笑みを浮かべながら、「うん」と言えと、目で訴えてきていた。僕はそれに従い、返事をすることにした。
「うん。行くよ」
するとお父さんは顔をほころばし、玄関に駆けていった。
「よし。じゃあ、遊園地でまた会おう。さらばじゃ!」
それから遊園地の会場に到着した今に至るまで、レオンは笑い続けている。
「ヒデ坊の親父はやることが極端だよな。笑えるぜ」
「そう言うなよ。お父さんは何にでも一生懸命なんだよ」
レオンは益々にやけた顔をした。
「親父のことだけじゃない。ヒデ坊が嬉しそうにしているのも面白いんだぜ」
「はあ?」
睨み付けると、レオンは顔を伏せて再び笑い声をあげた。
「クッ、クッ、クッ…………」
僕は唇を尖らし、フンッと鼻を鳴らして勢い良く屋外ステージの方に首を振った。
客席は就学前後の子供とその母親達で溢れている。猫をつれた小学五年生は浮いた存在だ。僕は隠れるように隅の席に着いた。
開園時間を迎えると、ステージの上に司会の女性が現れ、客席に向かって応援の仕方など一連の説明を始めた。そして、こう締め括った。
「さあ、みんな。始まりでござる!」
その声を合図にして、悪の軍団が姿を現した。気味の悪い化け物と黒いタイツ姿の兵隊達が会場中を暴れまわる。幼い子供達が絶叫する。ある母親は大声で笑い、ある母親は我が子をなだめている。
そのあまりの混乱振りにレオンが戸惑ったように溢した。
「うわあ」
その時、爆発音と共にカラフルな戦士三人がステージに現れた。
「拙者、サムライレッド!」
サムライブルー。サムライイエロー。
順に自己紹介。
台詞に合わせてポーズを取る黄色い戦士を見た瞬間、僕の鼓動は早くなった。
戦士達がクルクルと回る。兵隊達が次々と倒されていく。
「今日のイエローは動きがキレキレだなあ」
関係者なのか、すぐ隣のバンダナを巻いた若い男性の一団が、感心したように声をあげた。僕は誇らしかった。
戦士達は圧倒的に優勢で、勝利目前に思えた。ところが、化け物がステージ中央で大きな槍を振り回すと、どういう訳か戦士達は倒れて呻き声をあげた。
「おだやかじゃねえな」
お父さんの声ではないけれど、イエローの台詞。
三人の戦士は同時に頷き、一人ずつ必殺技を披露し始めた。一人の戦士がステージ中央で暴れている最中、残った二人は、端の方で目立たないように兵隊とじゃれあったり、ガッツポーズをしたりしていた。
観客の多くが必殺技を放つ戦士を見つめる中、僕は、イエローのことばかり見ていた。
「どうだ、面白かっただろ?」
お父さんは汗を拭いながら言った。
遊園地近くのファミリーレストランで遅い昼食。
お父さんは自分で質問をしておきながら、たいしてその返答に興味はない様子で、喉を鳴らしながら水を飲んだ。そして、プハーッと息を吐き、満足そうに笑みを浮かべた。
「さっさと感想を言えよ」
レオンがバッグの中からそう急かすので、僕はポテトを頬張りながら答えた。
「うん。ワクワクしたよ。カッコ良かった」
「だろ? そうだと思ったんだ」
お父さんは上機嫌に大きな声で笑った。
「でも、惜しかったね」
口の中のものを飲み込み、落ち着いた口調で呟く。
お父さんは不思議そうな顔で僕を見た。
「何が?」
「もう少しで勝てたのに」
そう言うと、お父さんは益々訝しげな表情をした。
「勝っただろ。見事に化け物を退治した」
言いたいことが上手く伝わらず、僕は少し苛立ち気味に言葉を付け足した。
「違うよ。とどめの役をレッドに取られたでしょ。もう少しでレッドに勝てたのにねって言ってるんだよ」
お父さんはようやく意味を理解したらしく、腕を組んで頷いた。
「そういうことか。なかなか難しいな」
頭の中で何か考えをまとめているのか、お父さんは黙り、口をへの字にしながら更に何度も首を縦に振った。そして、しばらくするとカバンを漁り出した。
「よし。こうなったら、とっておきの必殺技だ!」
突然お父さんは大きな声を出し、カバンの中から一枚のチラシを取り出して、それをテーブルに叩きつけた。僕はレッドに勝つ方法でもあるのかと思い、そこに視線を落とした。
「内緒にしていたが、実はうちの劇団の次回公演が決定しているんだ。稽古は順調に進んでいて、もうすぐ本番だ」
チラシには、『剣の行方』というタイトルが刷られていた。
「お父さんは主役だ。十年ぶりに剣士の役をやる。どうだ、勝てそうか?」
僕は勢い良く返事をした。
「うん。勝ちだ!」
お父さんの忙しい日々が続いた。
ヒーローショー、舞台設営の仕事、加えて芝居の稽古と、休む暇もない。僕は出来る限り助けになりたいと思い、食事の準備はもちろん家事全般を一生懸命こなした。
そんな日々にあっても、僕は一日の終わり、真夜中には必ずお父さんと言葉を交わすことにしていた。お父さんは、「先に寝てろ」と言うけれど、僕からしてみれば、睡眠不足になることよりも待ち続けたまま眠りに就くことの方が余程苦痛だった。夜に顔を合わさなければ、僕の精神は朝まで待ったままの状態になってしまう。
そうして、「ありがとう」や「ヒデのおかげだ」という感謝の言葉を聞きながら眠りに就くのが、僕の日課になった。
「ヒデ、まだ起きてるか?」
ある晩、お父さんは僕にお願いをしてきた。
明かりをつけたまま僕が布団で横になっていると、帰宅したばかりのお父さんが隣に正座をし、両手を合わせてこう言ったのだ。
「急で申し訳ないんだが、十人分くらいの弁当を作ることって出来るか? 明日、稽古場を借りることが出来なかったから、すぐそこの川原で殺陣の練習をするんだ。みんな金がないから弁当があると助かるんだよな。どうだ?」
僕は目を上に向け、段取りを思い浮かべた。
「十人分だと一度にご飯を炊くことが出来ないなあ……」
お父さんは困った顔をして眉毛の辺りをポリポリと掻いた。
僕はその様子を見て、話を続けた。
「でも、何とかするよ。お父さんが出掛ける前までに準備を終えるのは難しいけど、お昼に川原に届けに行くのでも良いなら準備は出来るよ」
お父さんは表情を明るくし、身を乗り出した。
「本当か? じゃあ、おにぎりでも何でも良いから、それでお願い出来るか?」
僕は快く引き受けた。
「ありがとう」
その言葉を確認し、僕はいつものように目を閉じた。
翌朝お父さんを見送ると、急いでお弁当の準備をした。
あらかじめ研いでおいた米を二回に分けて炊き、その間に家にあるものを調理。出来上がったのは予定通り十二時だった。
全ての準備を終え、靴を履く。その時、劇団の人達にまた囲まれたらどうしようという考えが頭をよぎった。自分が人見知りであることは十分分かっている。戸惑い、助けを求めるようにレオンのことを見ると、彼も僕のことを見ていた。
「ヒデ坊、大丈夫だ。俺も一緒に行くぜ」
その言葉で安心し、玄関の扉を開ける。するとレオンが僕よりも先に外へ出た。僕は彼の後を追うように川原へと向かった。
川原に着くと、お父さん達は木の棒をバットにし、どこかで拾ったと思われるゴムボールで野球をしていた。人数が少ないせいだろう、二塁がない。いい大人達は、時折サインらしきものを交わしたり、頭からホームに飛び込んだりと、真剣そのものだ。
その様子を離れた位置から眺めていると、手を叩きながら大笑いしていた女性がこっちに気付き、駆け足で近寄ってきた。
陽子さんだ。
僕は身構えた。
「ありがとうヒデ君! お弁当を作ってくれたんだって? もうすぐ試合が終わるからさ、それまであの辺で待とうか」
陽子さんはお弁当を受け取り、土手を登った。僕達はレフトスタンドに当たる位置に腰を下ろし、時間を潰すことになった。
一瞬の沈黙さえ気まずい。
何か会話をしようと言葉を探していると、レオンが陽子さんの膝の上に飛び乗った。
「コラ! レオン。何やってんだよ」
僕が怒ると、陽子さんは笑った。
「いいよ、いいよ。気にしないで。昔から動物と子供には懐かれるんだよねえ」
その言葉を聞いて、レオンが呟いた。
「ヒデ坊はガキだから懐いちまうな」
「僕はガキじゃないよ」
レオンに対してそう言うと、なぜか陽子さんは益々笑った。
「言うじゃない。そういうところ、お父さんに似てるよね」
そう言って、陽子さんは僕の頬をつねった。僕も、笑った。
「ほら、大丈夫だっただろ?」
レオンは気持ち良さそうに欠伸をし、目を瞑った。
気まずさがなくなり、僕は自然と言葉が出るようになっていた。
「僕はお父さんと全然似てないよ。お父さんは強くて凄いけど、僕は弱くて、何も出来ない。取り柄といえば、料理を作れることくらいかな」
うつむく僕に、陽子さんは笑いながら語りかけてきた。
「料理の出来る男子って尊敬しちゃう。実はわたし、全然料理出来ないんだよねえ。そういえば、安隆も料理は出来ないよね? その点、ヒデ君は凄いなって思う。今日もさ、お弁当を用意してもらって感激してるよ。こんなに作るの大変じゃなかった?」
僕は顔を上げて陽子さんを見ながら返事をした。
「これくらい大したことじゃないよ。お父さんのためだしね。お父さんはヒーローだから料理が苦手なんだと思う。料理をするヒーローなんていないでしょ? 僕は戦うことが出来ないから、代わりに家事をするんだよ」
陽子さんは即答した。
「戦うだけがヒーローじゃないと思うよ」
「そうかなあ。でも、とりあえず僕はヒーローじゃないよ」
僕の言葉を聞くと、思うところがあったのか、陽子さんは頬杖をつき、遠い目をしながら口を開いた。
「十年前ね、わたし達は大学を卒業したばかりで、色々と迷ってたの。芝居を続けるか、普通の職に就くか。でも、誰かに決断を迫られる訳ではなくて、惰性で毎日を過ごしていたんだ。そんな時、ヒデ君が生まれた。劇団内恋愛で生まれた子供だったから、当時の団員達はまるで自分の子供が生まれたかのように喜んでね。ただ、同時に決断の時だって、誰もが思った……」
陽子さんは大きく息を吸い、宝石箱を見つめる少女のような顔をした。
「……安隆がね、その時、言ったの。『大切なのは何をするかじゃなくて、どう取り組むかだろ』ってね。自分達の子供に見られても恥ずかしくないように、本気で芝居に取り組む。それがわたし達の決断だった。安隆は、自分を導いてくれたことへの感謝と逞しく育って欲しという願いを込めて、『英雄』と書いて『ヒデオ』っていう名前を君に付けたんだよ。ヒデ君はね、生まれた時からヒーローなんだよ」
その瞬間、誰かがファインプレーをしたらしく、川原から大きな歓声があがった。陽子さんはその歓声を背景に、僕のことを見つめながら更に話を続けた。
「今回の公演は、わたしが台本を書いたんだけどね。実は、数ヶ月前にヒデ君と再会したのを切っ掛けにして書いたんだ。剣士が主役のヒーローもので、十年前にやった芝居の続編なの」
「鎖と剣?」
僕が呟くと、陽子さんは驚いた顔をし、そして嬉しそうに微笑んだ。
「知ってるの? あれもヒデ君が切っ掛けで出来た話なんだよ。『正しい選択』ってなんだ? 『英雄』ってなんだ? ってね」
僕は恥ずかしくて何も言うことが出来なかった。
会話が途切れたのを察したのか、レオンが目を覚まし、陽子さんの膝から飛び降りて川原を見下ろした。
「いつまで野球をやってるんだろうな」
僕はその言葉に促されて、陽子さんに質問をした。
「あの、この野球は何の稽古なの?」
「これは息抜きっていう稽古だよ。ヒデ君も稽古に参加する?」
陽子さんは首を傾け、僕の顔を覗き込んだ。それから再びクスリと微笑み、首を振って川原に目を向けた。
「あ、ヒデ君のお父さんの打席だよ」
見ると、木の棒の感触を確かめるようにお父さんが素振りをしていた。お父さんはバッターボックスに立つと、背筋を伸ばし、棒の先端をこちらに向けて真剣な顔をした。ホームラン宣言だ。
その様子を見た陽子さんは、手を叩きながらキャッキャッと笑った。陽子さんは良く笑う人だ。
僕は唾を飲み込み、お父さんのことを見つめた。
直後に、パンッと軽い音が鳴り、ボールが高く空を舞った。ボールは僕達の足下付近まで飛んできた。お父さんは両手をあげ、ゆっくりとベースを回り始めた。ところが、土手の傾斜によってボールが川原へと転がり、外野手の人がそれを拾い上げた。お父さんは焦って走り出した。フェンスのないこの川原では、いわゆるホームランは存在ぜず、どんなに長打でもボールは戻ってくる。
結局、お父さんはホーム目前でゴムボールを叩きつけられ、アウトになってしまった。
「次、姐さんの打順だぞ!」
劇団の人が叫ぶ。
すると陽子さんは立ち上がり、僕の顔を見た。
「代打! わたしに代わって柳英雄! 親父の雪辱を晴らすってさ!」
陽子さんはそう叫び返すと、キョトンとする僕に微笑みながら手を差し出した。
「行こう」
その手を、僕は何も考えず、強く握った。