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週末は雨だった。朝目を覚ました時からずっと降り続けている。
お父さんは舞台本番を向かえ、ここ数日、朝から晩まで家にいない。僕はレオンと一緒にずっと部屋に閉じこもって留守番をしていた。
午前中は部屋の片付けなどをして時間を潰したけれど、午後はいよいよすることがなくなり、ビデオを見ることにした。
「またそれを見るのか? 見飽きたぜ」
窓際でレオンが呟く。
「一緒に見ようなんて言ってないだろ」
そう言いながら僕は、『鎖と剣』と書かれた一本のビデオテープをデッキに入れ、再生ボタンを押した。レオンの言う通り何度も見たものだ。そう。何度も見たくなるくらい僕はこのビデオを気に入っている。
テレビの画面にかすかにノイズが走り、しばらく真っ黒な映像が続く。その後、夜が明けるように徐々に舞台が照らし出される。そこには、鎖に繋がれた数名の男女が立っている。みんな、なぜか笑顔だ。詩のような台詞を其々が言い終えると、派手な音楽が鳴り響き、舞台奥の台の上に刀を持った男が登場する。
これはお父さんが主役を務めた芝居のビデオだ。僕が生まれて間もない頃に演じられたものらしく、映像の中のお父さんは若い。
昔このビデオをお母さんと一緒に見た時、お母さんはこんなことを言っていた。
「この頃のお父さんはとっても素敵でね。いつも主役だったの」
確かに、そこに映るお父さんはとてもカッコ良かった。
『……待て…………
……キンッキンッ…………
……裏切るというの…………
……この世界は穏やかに死へと向かって…………
……生きるための破壊だ…………
……キンッ、ズバッ…………
……ここに求める正義はない…………
……ズバッ、グサッ…………
……助けて…………
……待たせたな…………ズバッ…………
……革命未だならず…………』
芝居の内容は、一人の剣士が革命を理由にして悪行を繰り返す集団を退治するといった、いわゆるヒーローものだ。架空の時代、架空の世界が舞台になっている。登場人物達は日本式の刀を携え、ぼろ切れを羽織った姿をしている。お父さんはもちろん剣士役。鮮やかな剣さばきで次々と敵を倒していく。
どのシーンも魅力的だけれど、特に好きなのは最後の場面だ。
革命集団だけではなく政府までもが敵になり、多勢に囲まれて剣士は絶体絶命のピンチに陥る。ここまでして戦う必要があるのかと迷った時、剣士はわずかに生き残った仲間のことを思い出し、刀を構えながらこう言う。
『……正義のための戦い? それは誰のための正義だ。どんな思想も屁理屈も、聞いてくれる奴がいなければ意味がないだろ。醜くても、悪と罵られても、俺は大切な者のために生き、守るために戦う。かかってこいよ。このクソッタレ』
台詞が終わると、太鼓の音が鳴り始める。
『……ドンドコドンドコ…………』
音は徐々に激しさを増し、その盛り上がりに合わせるように剣士はゆっくりと刀を上げる。真っ赤な照明が舞台を包み込み、その他の色は失われて人と刀の輪郭だけが彷徨う。
『……ドコドコドコドコ…………』
更に太鼓のボリュームとスピードはあがる。
そして、剣士の刀が頂点に達した瞬間、音はピタリと止まり、剣士は雄叫びをあげながら敵の群れへと切りかかる。
台詞の意味なんて良く分からない。でも、傷付きながらも仲間のためだけに戦うその姿に、いつも心を奪われてしまう。最後には有り得ないほどの強さで剣士は勝利を収めるのだけれど、そんな都合の良い展開さえも僕を興奮させた。
一時間半ほどのビデオを見終えた時、レオンは拗ねたように窓際で丸くなっていた。
「なんだよレオン。見てなかったのか?」
尋ねると、レオンは面倒臭そうに答えた。
「一緒に見ようなんて言われてないぜ」
彼は外に目をやり、続けてこう言った。
「それよりも、どこか行くか? 雨が上がってるぜ」
その言葉を確かめようと僕は窓から外を見た。日が差し込み、既に道路の所々が乾いている。随分前に雨は上がっていたようだ。レオンは僕に気を遣って、ビデオが再生されている間、そのことを告げなかったに違いない。
窓の縁に腰を掛け、これから何をしようかと考える。その時、再生を終えたビデオが自動的に巻き戻しを始め、キュルキュルと音をたてた。僕は腕組みをしながらデッキに表示されているデジタル数字を見つめた。数字がジワジワと減っていく。そして、そこにゼロが並んだ瞬間、ビデオテープが飛び出し、芝居のタイトルが目に入った。
「そうだ、芝居に行こう」
僕が叫ぶと、レオンは首を傾げた。
もう少しだけ具体的に言い直す。
「お父さんの芝居を見に行くんだよ」
僕は部屋中を漁り、テーブルの上の紙の束から芝居のチラシを見つけ出した。急いで開演時間を見る。今から出れば夜の公演には間に合いそうだ。僕は地図やチケット代金、出演者などの詳細を確認し、レオンに話しかけた。
「お父さんの役名、『スキニー・レギンス』だって。なんかカッコ良さそうだな」
「そうかあ?」
興味なさげに返事をするレオンに、僕は大きな声で言った。
「きっとカッコ良いよ」
話をしながら出掛ける準備を整え、靴を履いてトントンとつま先で足下を蹴る。
「レオンは留守番な。じゃあ、行ってくるね」
僕はヒーローのもとへと急いだ。
劇場に着いた時、辺りは薄暗くなっていた。
都心の繁華街にある小劇場。そんなところに子供が一人で、しかも夕暮れ時にやって来たことを不審に思ったのか、受付の女性は訝しげに僕を見た。
「前売りですか?」
どなたかの紹介ですか? 初めてですか?
事務的な質問に全て「いいえ」で答え、少ないお小遣いから料金を払って急いで会場に向かった。
席に着くと、僕が最後に入場した客だったらしく、すぐに会場全体が真っ暗になり、垂れ流されていた音楽が止まった。
『……チャック・ファスナー博士…………』
照明に照らされたそこは、とある研究所。舞台中央には一体の死体が転がっている。そこへ奇妙な客達が次々と訪れ、助手の『ブラウス・カットソー』は翻弄される。
『客体』やら『主体』やら『アイデンティティ』やら『幸福』やら意味ありげな記号が並び、抽象的な場面が続く。
最終的に、そこが何の研究所なのか、死体は何者だったのか、何も明かされることもなく、物語は終わった。
僕には何が言いたいのか分からなかった。しかも、お父さんはマヨネーズを大量に飲んで自殺を図ろうとするおじさん役だった。
酷く期待を裏切られ、客席が明るくなると同時に会場を出た。
受付の周りにはお客さんを見送るために劇団の人達が列を作っていた。僕は会釈さえせず、うつむきながら足早にそこを通り過ぎようとした。
「ヒデ君じゃない! 久しぶり。大きくなったね」
突然女性が僕を呼び止めた。
「陽子、さん?」
この人はお父さんの昔からの友人であり、この劇団の主宰だ。幼い頃から何度か会ったことがあるけれど、最後に会ったのは一年以上も前のことだった。
「お。ちゃんと名前を覚えててくれたんだね。今日は一人? どう、楽しめた?」
返答に困った。正直に感想を言っても良いのかどうか判断が出来なかった。
僕はレオンに意見を仰ごうと思い、彼を探した。
「レオン! レオン!」
返事がない。
「どうしたの?」
陽子さんが不思議そうに僕を見つめた。
「あ、いえ、何でもないです。あ、芝居、面白かったです……」
戸惑いながら答えると、陽子さんはニッコリと笑った。
「そう。それは良かった。あ、引き止めちゃってごめんね。お父さん呼ぼうか?」
「い、いえ」
そう小声で答えたのだけれど、聞こえていなかったらしく、陽子さんは大きな声でお父さんを呼んだ。
「安隆! 安隆! ヒデ君が来てるよ!」
しばらくすると、楽屋から頭にタオルを巻いたお父さんが姿を現した。
「なんだ、来てたのか」
お父さんは動揺しているようだ。
「ご、ごめんなさい」
僕は咄嗟に頭を下げた。
「なに謝ってんだよ。来てくれて、ありがとうな。少し待っててくれ。一緒に帰るだろ?」
そう言うとお父さんは静かに微笑み、楽屋へと向かった。
僕は陽子さんに受付裏の休憩室に案内された。そこにも数名の劇団の人達がいて、僕が入室すると途端に騒がしくなった。
「誰かのお子さん? 嘘? 柳さんの息子さん?」
「柳さんにこんな大きな子供がいたなんて、信じらんない」
「お父さんと違って繊細な感じだねえ……」
何人もの人に囲まれて僕は怖くなった。
すると陽子さんがその人達を叱りつけた。
「こんなところでサボってないで、あんた達も客出しの手伝いをしてきなよ」
「分かりましたよ、姐さん」
その人達はブツブツと文句を溢しながら部屋を出ていった。
「ごめんねえ。あいつら馬鹿だからさ、気を遣うってことを知らないんだよね。安隆、あっ、ヒデ君のお父さん、メイクを落とすのに時間がかかると思うから、まあ、くつろいでてよ。ジュースでも飲む? お客さんからの差し入れだけどね」
無言でいると、陽子さんは豪快に笑って僕の肩を叩いた。
「男なら飲んどけ、食っとけ」
目の前にジュースと沢山のお菓子が並べられる。でも、お父さんはすぐに戻ってきた。
僕よりも先に陽子さんが話しかける。
「あれ? 早い。ていうか、メイクを落としてないじゃない。そのまま帰るの?」
「ああ。あんまり息子を待たせる訳にもいかないからな」
陽子さんは感心したような顔をし、それから冷やかすように甘えた声を出した。
「優しい。たまにはわたしにも優しくしてえ」
お父さんはその言葉を聞くと、わざとらしく笑った。
「ハハハ。うるせえ」
それは普段見たことのないお父さんの姿だった。
休憩室を出ると、劇団の人達が雑談をしていた。お父さんはその人達に向かって大きな声で挨拶をした。
「お疲れ。お先に失礼します」
そして僕にも挨拶をするよう促した。
「あ、お疲れ様でした……」
緊張しながら頭を下げると、何人もの人達から返事がきた。
「おう、また来いよ!」
僕は肩をすくめ、鳩のように首を前に出して頷いた。
「まさか見に来るとは思わなかったよ……」
劇場から帰る途中、お父さんは普段よりも良く喋った。
「……料金は自分で払ったのか?」
「うん」
「そうか」
「そう」
僕は問い掛けに対し、淡々と言葉を返した。
お父さんがポケットに手を入れ、前を向きながら更に質問をしてくる。
「芝居の内容、分からなかっただろ?」
「そうだね」
呟くと、お父さんは苦笑いをした。
「まあ、今回の話は大人向けだったからな。今度は子供向けの芝居に招待するさ」
それから、芝居の解説や劇団員の紹介、これからの仕事のことなど、興味のない話が続いた。お父さんの顔を見上げると、メイクのせいだろうか、とても老けて見えた。僕はぼんやりと話を聞き流した。
そんな雰囲気を察したのか、お父さんは話をやめ、どうしたのかと問う視線を僕に向けた。そこで僕は小さな声で尋ねた。
「お父さん。お父さんはヒーローじゃないの?」
しばらく沈黙が続いた後、お父さんは顎をいじりながら歯切れ悪く言った。
「今度、芝居に招待するよ」
僕の期待する答えではなかった。
それ以降、お父さんの口数は減り、家までの道のりを二人で静かに歩いた。
「お父さんはヒーローじゃないの。お父さんは駄目な人なの」
それはお母さんの口癖。
蛍光灯の明かりの下、見上げればお母さんはただの影。影は呪いの言葉を繰り返し、グニャリグニャリと形を変えた。でも、どんなに形を変えようと、つり上がった目だけはそこにあり続け、真っ赤に輝きながら僕のことを睨んだ。
やがて呪いの言葉は甲高い叫びに変わり、影は何本も腕を生やして、踊った。
いつか見た、夢の話。