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さよなら喋る猫  作者: gojo
三、 吾輩
10/10

3. 3

 結局、ヒデオは間宮家に引き取られた。


 そして俺は、陽子の世話になることになった。




 ファーストフード店での昼食を終えると、ヒデオは歩きながらカバンから錠剤を取り出し、それを当たり前のように飲み込んだ。幻を見なくなる薬だ。ヒデオがその薬を飲む度、俺の意識は益々薄れていった。俺の体から転げ落ちた思考する能力、即ち自我は、辛うじて尻尾の先辺りにぶら下がっていた。


「花屋にでも寄ろうか」


 街路を行くヒデオが俺に話しかける。俺はキャリーバッグの中から、「ニャー」と返事をした。


 小さなブーケを購入し、安隆のもとへと向かう。


 目的地に着き扉を開けると、真白な部屋の真白なベッドの上で安隆が、どこで手に入れたのか、オーディションのチラシを見ていた。


「おう。見舞いに来てくれたのか」


 安隆はこちらに気付き、明るく声を出した。


「はい、これ」


 ヒデオがブーケを差し出す。


「なんだよ、大袈裟だな。念の為に検査をするんで入院しているだけだぞ。結果さえ出れば明日には退院だ。ハハハ」


 安隆は必要以上に気丈に振舞った。


「お芝居の後には、出演者に花束をあげるものでしょ」


 それは含みを持たせた訳ではなく、ただの冗談のつもりで言った台詞だろう。しかし、的を射ていた。二日前のあの夜、俺達はヒーローには救われず、駈け付けた救助隊員に助けられたのだった。


 長い芝居は終わったのだ。




 病院を出ると、一台の車が近付いてきて目の前で止まった。


「オンタイム! ぴったり時間通りだね。しっかりしてるとこはお母さん似かな?」


 車内から陽子が明るく声をかけてきた。


 ヒデオは陽子と病院の入り口で待ち合わせをしていた。俺を受け渡すためにだ。陽子はついでにヒデオを家まで送り届けるからと、わざわざ車で出向いてきたのだった。


 ヒデオは陽子の誘いに応じ助手席に座ると、俺のことをバッグから取り出して膝の上に乗せた。そして、感慨深く俺の頭を撫でた。


「お父さんはどうだった?」


 陽子が尋ねる。


「すぐに退院出来るみたい。お父さんに会ってないの?」


「うん。稽古場で会えるし、それに、寝込んでいる姿をわたしには見られたくないでしょ」


 陽子は全てを悟ったような目をしている。


「寝込んでるって感じじゃなかったよ。元気そうだった」


「元気そうねえ。まあ、無事で良かったよ」


 ヒデオは意味深げにゆっくりと頷き、窓から遠くを見つめた。救助された時のことでも思い出しているのだろう。その時のことが俺の目にも浮かんだ。


 川から救い上げられた時、安隆は意識を失っており、至急、待機していた救急車に乗せられた。ヒデオと俺も付き添いとしてそれに同乗した。


 移動する車中において、安隆は若干状態が回復したのか、薄く目を開けて朦朧としながら寝言のように呟いた。


「俺は駄目な人間だ。誰のことも守れやしない。俺は、俺は……」


 何度も同じ言葉を繰り返し、安隆は洪水のように涙を流した。時折しゃくりあげ、まるで子供のようだった。

 俺はヒデオの心配をした。こんな様子を見てはまた取り乱すのではないか。しかし、それは杞憂であった。ヒデオは冷静に現実を見つめていた。



「僕が……」


 陽子の方に向き直し、ヒデオは口を開いた。


「僕が期待を抱き過ぎて、お父さんを追い込んじゃったんだ。僕が必要とし過ぎたからお父さんは苦しい思いをして、僕のせいで、僕が悪くて、こんなことに……」


 陽子は人差し指の爪でハンドルをコツコツと叩き、唸った。


「うーん。そんなことないと思うよ。誰だって誰かに必要とされるから存在出来るんだよ。必要としたり、必要とされたり、期待に応えるために頑張ったり、応えられなくて悲しんだり、願い叶って笑ったり、そういうのって生きていく上でとても大切なこと、って、お姉さんは思うな」


「お姉さん?」


「どうして、そこを気にするの」


 陽子はヒデオの頬をつねった。車内に二人の笑い声が響く。


 俺はそれを聞き、

「陽子、お前はなかなか分かってるじゃねえか」

 と言った。


 しかしその言葉は誰の耳にも届かない。単なる猫の鳴き声が笑い声と重なった。




 間宮の家の前には和泉が立っていた。しばらく外で待っていたようだ。和泉は車が近付くと軽く会釈をした。その表情は昔から変わらない優しい笑顔だった。ヒデオと良く似た薄い唇が三日月のような形をしている。


 陽子が車を止めると、ヒデオは俺を座席に残したまま降りた。そして、開いた扉の向こうから陽子に礼を述べた。


「ありがとう、陽子さん」


「うむ」


 陽子は微笑みながら偉そうに頷いた。


 車内からヒデオを眺めると、扉の枠が額縁に見え、こちら側と現実が隔てられているかのように感じられた。


「じゃあな、レオン」


『じゃあな、ヒデ坊』


 猫の鳴き声を聞いたヒデオは、勢い良く扉を閉めた。


 鈍い音と同時に未練がましく体にぶら下がっていた自我がプツリと千切れ落ち、宙に舞う。

 俺はそれを見上げた。否、残された肉体を見下ろしたのか。分からない。分からないが、俺という自我と猫の肉体との距離が離れていくということだけは確かであった。


 視界の靄は濃さを更に増し、全てが真白に溶けていく。


 心の中の靄も真白になり、思考が、きしみ、呟いた。繰り返し、ただ、くりかえし、つぶやいた。


 さようなら


 さようならオレ


 さよなら


 サヨナラ シャベルネコ…………



 さよなら喋る猫 (了)

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