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犬のおまわりさんが「ワン」と鳴けば、もちろんその目の前には迷子の子猫がいる。その子猫は「ニャン」と鳴いている。そう。猫とはそういうものだ。「ニャン」とか「ニャー」とか、そう鳴くものだ。
ところが、我が家の猫レオンときたら、
「ヒデ坊、腹が減ったぞ。飯はまだか?」
良く喋る。
彼は今年で五歳になる白い猫だ。僕が小学校に入学する頃、お父さんが気紛れにどこかから拾ってきた。我が家に来て間もない頃は「ニャー」とも言えず、「ミー、ミー」と呟くように鳴くだけだったけれど、近頃は生意気で仕方がない。
「ヒデ坊。人の話を聞いているのか? 腹が減ったぞ」
まさに今も、ヒゲをピンと立たせ、台所にいる僕を見上げながら偉そうに文句を言っている。
「うるさいなあ。だいたいお前は人じゃないだろ。もうすぐお父さんが帰ってくるから食事の準備をしないといけないんだよ」
足にまとわりつく彼を払いのけ、手際良く野菜を刻む。
我が家ではいつも僕が夕食を作っている。僕の家にお母さんはいない。二年前、お父さんとお母さんは離婚した。今は狭いアパートでお父さんと僕とレオンの、二人と一匹で生活をしている。家にいることが多いので自然と僕が食事当番になったのだ。
熱したフライパンに肉と野菜を入れて炒め合わす。曲芸のように具を宙に飛ばしては直火にさらし、溢さずキャッチ。
すると、レオンが声をあげた。
「さすがだな」
「当たり前だろ。今更、なに言ってるんだよ」
日々の積み重ねは大したもので、誰に教わった訳でもないというのに気が付けば料理上手だ。
畳の上の背の低いテーブルにお皿を並べ、盛り付けを終える。あとはお父さんの帰りを待つだけ。ジャスト八時。予定通りだ。
鼻の下を人差し指で軽く擦り、どんなもんだいとレオンに視線を送る。彼は参りましたと言わんばかりに、土下座のような姿勢で伸びをした。
眠気を我慢しながらお父さんの帰りを待っていると、カチカチと音が聞こえてきた。見ると、壁掛け時計の秒針がメトロノームのように神経質な音を鳴らしていた。ずっと鳴り続けていた音なのだけれど、静けさの中、感覚が敏感になって聞こえてきたようだ。
僕はテーブルの上に両肘を乗せて頬杖をつき、苛立ちを誤魔化すようにそのリズムに合わせて小声で歌った。
「迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのお家はどこですか…………」
出窓の縁に寝そべっていたレオンがそれを聞いて愚痴を溢した。
「おい。不吉な歌をうたうなよ。俺は迷子にならねえぞ」
僕は歌うのをやめて鼻で笑った。
「もう子猫じゃないしね」
彼はどうでも良さそうな顔をしてうつ伏せた。
会話が途切れると、再び時計の音が耳についた。時間は既に十時を過ぎている。僕は目の前の自分の作った料理を見下ろした。
その様子に気付いたのか、レオンが心配そうに再び口を開いた。
「ヒデ坊、先に食っちまおうぜ」
僕はそちらに目を向け、ぼんやりと言葉を返した。
「先にエサを食べるか? 僕はもう少し待つよ」
お父さんの帰りが遅いのは今日に限ったことじゃない。良くあることだ。僕は自分に言い聞かせた。お母さんがいた頃から繰り返しこんな日はあったじゃないか。落ち込む必要はない。
昔のことを思い出しながらまたテーブルの上に目を向けると、レオンが、気を遣ったのか、僕に体を擦り付けてきた。
「俺も一緒に親父を待ってやるぜ」
彼はいつもそうだ。僕が寂しげにしていると、必ずそうやって声をかけてくれる。僕はレオンを膝の上に乗せ、その体温を確かめるように抱き締めた。
「ごめん」
そう呟くと、レオンは静かに目を閉じて丸くなった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
頭の中で、意味を失くした形だけの言葉という音が、グルグルと廻る。
僕は考え直してレオンに言った。
「やっぱり先にご飯を食べよう。お腹減ったよね?」
エサの置いてある棚に向かうため立ち上がろうとすると、レオンは僕の膝からピョンッと飛び退き、棚の前へ駆けていった。
ドライタイプのペットフードを取り出す。箱から響く乾いた音を聞いてレオンは僕の膝にすがりついた。手を合わせてお願いをするようなポーズをしている。そうしている時の彼の姿はなかなか可愛らしく、僕は微笑んでわざと箱を振った。
「いい加減にしろ。早くよこせよ」
レオンが機嫌悪そうにそう言うので、意地悪もほどほどにして彼の愛用の皿にエサを入れてやった。彼は、余程お腹が減っていたのだろう、皿に顔をうずめて勢い良くエサを食べ始めた。
それを見ていると、胃袋がまるで思い出したかのようにグウと鳴いた。僕は再び席に着き、箸を手に取って冷めてしまった野菜炒めを口に放り込んだ。
お母さんの作った料理と味が似ているかな。曖昧な記憶をいじくり返すと、味ではなくて、冷めた料理をお母さんと二人でつついていた時の、重苦しい空気が心の中に蘇った。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
再び言葉が廻る。
「ヒデ坊……」
レオンが言う。
「……俺がここにいる」
彼は僕のことをジッと見つめていた。彼の目は右が青く左が黄色い、いわゆるオッドアイだ。その神秘的な目を見つめ返すと、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
レオンは迷子になることはない。
「そうさ。俺は迷子にならない」
お前は喋る猫だからね。
「ああ。俺は喋る猫だ」
十一時を過ぎてもお父さんは帰ってこなかった。
僕はテーブルを部屋の隅、キッチン側に寄せて布団を敷いた。明かりを消してそこに潜り込むと、レオンも入ってきた。彼の体温は高く、その温もりに触れていると、すぐに眠気が押し寄せてくる。
深い穴に落ちるような感覚を味わいながら、僕はレオンが我が家にやってきた日のことを思い返した。五年も前のことなのにその時のことは良く覚えている。レオンと初めて会ったからだろうか。違う。その時のお母さんの顔がとても印象深かったからだ。
その日も、今日のように料理を前に、お父さんの帰りを待っていた。料理を作ったのはお母さん。その頃の僕は調理台をなんとか覗き込めるほどの高さしか背がなくて、お母さんが食事の準備をする時、その後ろ姿を眺めることしかまだ出来なかった。
料理がすっかり冷めた頃、僕達は諦めて二人だけで食事をすることにした。
それからしばらくすると、ガチャガチャと玄関のドアノブが音をたてた。お母さんは黙って立ち上がり、鍵を開けた。
帰って来たお父さんは酔っ払っていた。
「今、何時だと思ってるの?」
お母さんが問い詰めると、お父さんは部屋の奥に向かって大きな声を出した。
「おーい、ヒデ。起きてるか? お土産だ」
その手には小さなレオンがぶら下がっていた。
お父さんは当時、酔っ払って帰ってくる時には必ずお土産を用意していた。だいたいは居酒屋での食べ残しを箱に詰めたものだったのだけれど、その日は猫だった。
「ヒデ、ほら可愛いだろ?」
「猫さんだ!」
幼かった僕は無邪気に喜び、玄関まで走ってレオンを受け取った。
その様子を見て、お母さんは不機嫌そうに言った。
「あなた、そんなもの拾ってきてどうするの?」
「ヒデが喜んでるんだから良いだろ?」
お母さんは溜息をついて振り返り、しゃがみ込んで僕の両肩を掴んだ。
「ヒデオ、猫なんかいらないよね?」
欲しくないよね? 必要ないよね? 世話しないでしょ?
似た意味合いの言葉が電子アナウンスのように繰り返された。
僕はレオンを強く抱き締めた。するとお母さんは三日月のように口を歪ませ、目を大きく見開いた。それは、一見微笑んでいるようでもあったけれど、その視線は僕の目の奥、脳みその辺りに定められていて、抵抗し辛い不気味なエネルギーを放っていた。
僕はどうにかそれを振り払おうと精一杯声を出した。
「やだ! 僕は猫が欲しい!」
お母さんは目を細め、息を吐き出しながらゆっくりと大きく首を振った。それを見た僕は寒気に似た感触を覚え、小さく震えた。
その記憶は、ひょっとしたら長い時間の中で大袈裟に書き換えられている部分もあるかもしれない。でも、これだけは断言できる。
あの時のお母さんは、間違いなく恐ろしい顔をしていた。
「ヒデ坊、ヒデ坊」
眠りに落ちて、どれくらいの時間が過ぎただろう。レオンが僕の頭を揺らし、声をかけてきた。
僕は横になったまま目を擦って囁いた。
「何? 今何時だよ」
「悲しいくらいに真夜中。草木も眠る午前二時だ。それより……」
レオンは顎を振り、部屋の隅を示した。そこにはお父さんの姿があった。お父さんは暗闇の中でテーブルに向かい、僕の作った料理を静かに食べていた。
「おかえりなさい。明かりくらいつければ?」
体を起こして声をかけると、お父さんは驚いたように肩をあげ、気まずそうに僕の方に顔を向けた。
「お、おお、起こしちゃったか。悪かったな」
僕はあえて感情を込めずに呟いた。
「遅かったね」
お父さんは少し慌てたように引きつった笑みを浮かべた。
「いやあ、もうすぐ舞台本番だろ。稽古に時間がかかってな」
お父さんは俳優だ。小さな劇団に所属している。だけど、俳優としての収入はゼロに近く、実際にはイベントの裏方などでお金を稼いでいる。ただ近頃は久しぶりに舞台に出演するということで練習に力を入れているようだ。おかげで帰りが遅くなることも多い。昔と違って今では酔っ払って帰ってくることはないけれど、何時に帰ると、一本電話を入れるという発想がないのは相変わらずだった。
レオンが僕の気持ちを代弁するかのようにお父さんのことを軽く引っ掻き、それから僕のところに戻ってきて囁いた。
「いつものように笑えよ。そうすれば丸く収まるぜ」
僕は言われるがまま笑顔を作った。
「連絡もしないで遅くに帰ってくるからレオンも怒ってるんだよ」
「悪かったよ、ヒデ、レオン。これからは気をつけるさ」
お父さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。
レオンの言う通り和んだ雰囲気になった。僕は明かりをつけてお父さんに布団を敷いてあげた。お父さんは、食事を終え、歯を磨き終えると、その布団に向かって大きくジャンプして転がった。
「寝るぞお!」
寝ようとしているとは思えない威勢の良い声を出している。
「お風呂は入ったの?」
呆れたように尋ねると、お父さんは駄々っ子みたいに足をバタつかせた。
「もう疲れた。風呂は明日の朝入るさ」
「じゃあ、電気消してよ」
お父さんは拗ねた顔をしながら立ち上がり、電気を消して再び寝転んだ
それから、僕は穏やかな暗闇の中で会話を楽しんだ。
「……ご飯美味しかった?」
「おう。いつもありがとうな」
内容なんて何でも良い。僕にとっては話をすること自体に意味がある。
「稽古は上手くいってる?」
「当たり前だろ」
徐々にお父さんの声は小さくなっていた。眠いみたいだ。
「今度の舞台、見に行っても良い?」
「次の舞台は大人向けだ。ヒデじゃ理解できないさ。そのうち子供向けの舞台に招待するから、それまで我慢しな」
そう言うとお父さんは大きな欠伸をし、芝居じみた低い声を出した。
「さあ、チビッ子は寝る時間だ」
レオンも欠伸をしたので、僕は素直に眠ることにした。
意識が、夢のない深い穴に落ちていく。