第1話 旅立ち
「……」
違和感に気付いたのは、目覚めてすぐのことだった。
無理もない。
起きたのであれば、恐らくはそこに見える光景…感じる雰囲気。
それらが、僕の予想をあまりに覆すものだったからだ。
「……」
ベッドとは明らかに違うガサガサした草むらから、
僕は横たわった体を起こす。
首を西へ東へと振り向かせ、周囲の状況を見てみる。
草、木…土、岩…空、雲。
目に映るものといえば、そんなものばかりだ。
自然は嫌いじゃないが、今この時は、何かしら人の気配に触れたい気分。
「……」
果たして、何があったんだろう。
見ると、どうやら服装もパジャマ姿ではない。
群青色の上着に、やや色褪せたジーパン。
僕がよく着るファッションの1つだ。
靴まできっちりと履いている。
「……」
僕に夢遊病の気は無い。
確かに、頭にちょっとした腫瘍はあるが、こういった症状が
現れた記憶はまだ無い。
…となれば。
何者かに服を着替えさせられ、そしてここまで運ばれたのだと
考えるのが妥当だろうか。
「……」
妥当とは言われても、誰が何のためにそんなことをしたのだろうか。
僕のこの195cmの体を運ぶのは、それなりに重労働の筈だ。
誘拐犯が狙うには不向きな体格だし…そもそも僕の家は、
そんなにお金持ちでもない。
「……」
すると、誰かのイタズラ…あるいは、嫌がらせの類だろうか?
僕はそれほど他人の怨みを買うような言動はしていないつもりだが、
人間、その辺りは誤解やすれ違いがあるものだ。
とはいえ、仮にそうだとしても…怨みを晴らすのなら、もう少し
別の手段を取りそうな気がしないでもない。
「……」
しばらく色々と考えてみたが、1つの結論が出た。
それは、このまま色々と考えてみても、結論は出そうにないということ。
そう…あまりにも情報が少な過ぎる。
答えを導くなら、まずは情報収集が先決だ。
「…ふぅ」
1つ溜め息を吐いた後、僕は木の幹に預けていた背中を離す。
突如として、当てもない旅に繰り出されるわけだ。
少々、憂鬱な気分にもなる。
でもその反面…ちょっとワクワクするような気持ちもあった。
何はともあれ、最初の一歩を踏み出す。
「……」
訳も無く、さっきまで寄り掛かっていた木を振り返る。
僅かな付き合いではあったが、多少の感慨があった。
ここに戻ることは、もう二度と無いかもしれない。
そう思うと、ちょっぴり切ない気分にもなる。
「…行ってきます」
小さくそう告げて、僕は再び歩き出した。
一体、何が起こったのか。
この先、何が待ち受けているのか。
今の僕には知る由も無い。
今はただ、前に進んでみるだけだ。
「……」
手頃なサイズの岩の上に座り、ぼんやりと空を眺める。
木々の葉っぱの間を縫って射し込む太陽の光は、キラキラと輝き…。
小鳥のさえずりと穏やかな風が、静寂な空気に彩りを添える。
「……」
さて、あれから30分程度は歩いたと思うが…。
残念ながら、これといった発見は無かった。
1つ気付いたことは、ここが森ではなく山であるということ。
とりあえず斜面を下るように歩を進めているが、道無き道を進んでいる
とあって、本当にこれが下山コースなのか、いまいち自信が無い。
「……」
まぁ、他に収穫と言えば…。
僕は視線を下ろし、脇にある小さな水溜まり場を見る。
どうやらここからは、湧き水が出ているらしい。
人間、生きてく上で水は欠かせないものだ。
「…う~ん」
もしかすると、ここでしばらくサバイバル生活を送らねばならぬのか。
そうなると、このポイントは非常に重要となってくるかもしれない。
勿論、出来れば一刻も早く、元の暮らしに戻りたいものだが…。
「……」
再び、空を見上げる。
みんな、今頃どうしているだろうか。
僕がいないことに気付き、大騒ぎになっているのだろうか。
まぁ僕の親しい人間の中だと、あまり大騒ぎするような
タイプの人は少なそうだが…。
「……」
…いや、待てよ。
僕の身に起こったことが、彼らにも起こっているということはないだろうか?
もしかすると、それぞれが世界に散り散りになってたりして…。
「…う~ん」
根拠の無い憶測をしても、仕方がない。
その時は、その時だ。
今はともかく、僕が僕自身を何とかする時だ。
あの湧き水が出るポイントから、そう遠くない場所。
山肌を切り裂くようにぽっかりと開いた、大きな洞穴を発見した。
人でも車でも、余裕で中に入れそうな広さだ。
「……」
こういう場所って大抵は、熊とか大蛇とか…そういう大型の生き物の
根城となっていることも少なくないとか。
人間も、まぁ大型の生き物と言えなくはないかもしれないけど…。
その中でも大型の僕としては、あまり住みたいとは思わないな。
「……」
とりあえず、入り口周辺の様子を観察してみる。
特に変わったものは見られない。
僕はゆっくりと近付き、その中を覗いてみることにした。
「……」
深そう。 …そして、暗そう。
懐中電灯でもないと、奥の方の探索は難しそうだ。
一応僕の目は、通常人よりは暗闇に適応できると自負しているが…。
この奥に人が住んでいるという気配は、まるで感じられない。
「すいませ~ん! 誰か、いらっしゃいますか~?」
穴の奥に向けて、大きな声を出してみる。
場所が場所だけに、エコーが掛かったような音が周囲に鳴り響いた。
……
予期していたことだが、返事は返ってこない。
僕はまた1つ溜め息を吐くと、洞穴に背を向け、歩き出した。
…なんだか、暑い。
いくら地球が温暖化しているとはいえ、今の日本は春真っ盛り。
この気温は、明らかに不自然な気がしてならない。
「……」
もしかするとこの場所は、日本ですらないのだろうか?
事態の異様さを思えば、充分に有り得る話だ。
この暑さからすると、赤道付近のどっかの国とか…。
「……」
まずいな。
僕は日本語以外、まるで話せる気がしない。
英語は、自他共に認める苦手科目だし。
そもそも、英語だから通用するとは限らないわけだし。
「…んっ?」
などと考え事をしながら歩き続けていると、不意に目に止まる物があった。
既に見慣れた草木や岩など、自然の産物とは異彩な空気を放つ物体。
「……」
歩み寄り、その姿をしっかりと観察する。
それはどうやら、石像と呼んでいい物のようだった。
モデルは羽の生えた、長い髪の女性…『天使』という言葉が自然に浮かぶ。
細部まで丁寧に表現された、作り手の誠意を感じる作品だ。
「……」
しかし、長い年月を経たためか、その体は結構傷んでいる様子。
つまり、この像を手入れするような人間は、しばらくここを
訪れていないということになる。
「……」
人工物を見付けたことで、ようやく人の気配に近付いたと思ったが…
どうやら人生、そううまくはいかないようだ。
だが何にせよ、かつてここに誰かがやって来たことは確かだ。
少なくとも、人類がまだ未踏の地というわけではないらしい。
「…う~ん」
石像を入念に調べてみるものの、これといった発見は無し。
製作者の名前とか、何か手掛かりがあればと思ったのだが…。
「……」
ちょっとした徒労感を感じつつ、何とはなしに像の顔を見つめる。
その優しげな瞳と微笑みには、見るものに安らぎを与える力があった。
…うん?
なんだかこの顔、何処かで見覚えがあるような…。
「……」
記憶をダダッと総動員してみるが、ピタリと一致するような人物はいない。
気のせいなのだろうか。
しばらくジッと彼女の顔を見つめていたが、答えが出ることはなかった。
僕は再び、あの湧き水の出るポイントへと戻ってきていた。
カラカラという程ではないが、多少渇いた喉を潤すため
両手で水をすくって、口に運ぶ。
「……」
美味しい。
水ってこんなに美味しいものだったのかと、久しぶりに思った。
やはり、水道の水とは一味も二味も違うものがある。
何が違うのかは、よく分からないけど。
「…ふぅ」
それにしても、どうしたものか。
結構な範囲を歩き回ってみたものの、収穫といえば
あの天使の像の発見ぐらいだ。
これは本格的に、サバイバルな生活を送る覚悟が必要かもしれない。
その時、鼓膜を震わす奇妙な音が聞こえた。
何の音だったかは判断しかねるが、小鳥のさえずりとも
風のそよぐ音とも違うことは確かだ。
文字にするなら、『ブオォォッ』てな感じの…何だろう。
今度は、ガサリと茂みで何かが動いたような音。
背の高い草に阻まれ、その正体までは掴めない。
が…それなりに大きな物体ではあるようだ。
「……」
蛇や狐と見るには、大き過ぎるサイズ。
とすれば、他に考えられる可能性は…待てよ?
さっきのはもしかして、この動物の鳴き声だったのではないだろうか。
あんな鳴き声をする、こんなサイズの動物といえば…。
まるで正解発表をするかのように、その物体は茂みから姿を現した。
その鋭い二つの眼は、真っ直ぐに僕を捉えている。
「……」
毛むくじゃらの大きな身体。
突き出た鼻に、緩やかな曲線を描く二本の巨大な牙。
恐らくは、猪と呼ばれる生き物と判断していいだろう。
ただ、1つ気掛かりなことがある。
それは額から突き出した、太く短い一本の角。
僕の知る猪情報には、あんな物が生えているという記録は無い。
――刹那、その生き物は動き出した。
数メートルはあった筈の僕と猪の距離が、みるみる内に縮まっていく。
どうやら、僕に突進をかまそうという気の様だ。
僕は周囲の地形をざっと確認した上で、サイドステップをして攻撃をかわす。
そのまま更に2、3歩、跳ぶようにして猪との距離を取る。
こういう時は、歩幅が広いと助かる。
「……」
『ブルルル…』と一鳴きしながら、奴はこちらを見据える。
その眼には、明らかな敵意が宿っていた。
間も無くして、猪は再び僕に向かって突進してくる。
目前まで奴の巨体が迫った所で、僕は木の枝を掴み、そのまま
クルリと宙返りをして攻撃をかわす。
『ドスン』と鈍い音がし、掴んでいた木の枝から振動が伝わる。
さっきまで僕の後方にあったその木に、猪が激突したためだ。
衝撃と目標を失ったことにより、奴の体がピタリと硬直する。
作戦成功、という所か。
この機を逃すまいとすべく、僕は地面に着地すると、すぐさま行動に出た。
隙だらけのその横っ腹に、右からの回し蹴りを叩き込む。
普通の人間なら、肋骨の何本かは粉砕出来るレベルの威力だろう。
これだけ力を込めて何かを蹴るなんてことは、随分と久しぶりだ。
「……」
しかしながら、相手は普通の人間ではない。
ダメージを受けた様子はあるものの、その鋭い眼は再び僕を見据える。
僕は反射的に、今度は左からの回し蹴りを叩き込んだ。
効いている。
僕は奴の後方に回り込むと、その背中から組み付いた。
猪がジタバタと抵抗し始めたと感じたその瞬間、僕の手から
奴の体は解き放たれていた。
目標として捉えていた巨大な岩に、猪の身体は見事に激突した。
我ながら、綺麗に決まった投げ技。
猪はバタリとその場に倒れ込み、ピクピクと体を痙攣させている。
「……」
10メートル程離れた地点から、僕は黙ってその様子を窺う。
恐らくは、勝負あり…といった所だろう。
ちょっとした勝利の余韻に浸っていたその時、奴がユラリと立ち上がった。
その眼は相変わらず敵意に燃えているが、体の方はブルブルと
小刻みに震え、ダメージを隠せていない。
とはいえ、『窮鼠猫を噛む』という諺もあることだし…油断は禁物。
僕は真っ向から奴の視線を受け止め、その動向に気を配る。
その行動は、少し意外なものだった。
狂ったように再び突進してくる…といった事態も予測していた僕だが、
それは事実とまるで違っていた。
なんと、驚く程緩やかなスピードで、僕にゆっくりと歩み寄っているのだ。
「……」
これがどこぞのRPGの一場面であるなら、もしかすると
仲間になってくれたりするのかもしれないが…。
そんな悠長な期待は出来ない、どうにも不気味な雰囲気がある。
やがて、ピタリとその足が止まった。
その距離、およそ4メートル。
「……」
大丈夫だ。
この距離なら、どんな勢いで突進してこようと避けられる自信はある。
むしろ、そうなれば…今度こそトドメの一撃をお見舞いしてやる。
…うん?
気のせいか、なんだか奴の額の角が青白く発光しているように見える。
太陽の光を反射して…というには不自然な光り方。
その光が、段々と強まっていく。
「…ッ!」
事態に気付いた時には、既に手遅れであった。
光が不意に消えたかと思うと、自分の体に思いも寄らぬ衝撃があった。
真正面から、まるで強靭な風にぶち当たったかのような…。
台風の日に外に出ていた時、これと似た感覚があった。
予想外の出来事に、僕は吹き飛ばされ、受け身も取れないまま
後方へと転がり込む。
軽いパニック状態となった頭に、ドッドッと重い足音が響いた。
慌てて起き上がろうとしたものの、体勢が充分ではない。
どうにか上半身だけ起こした所で、嫌な光景を目にする。
奴が猛烈な勢いで、こちらへと突進してくるのだ。
今の状況を考えると…かわせない。
「……」
僕は仕方なく、両腕を交差して防御の姿勢を取った。
だが、すぐに襲い来るであろうと思ったその衝撃は、全然やって来ない。
頭に『?』マークを浮かべつつ、僕は目の前の景色を見据えた。
そこには、僕の眼前で茫然と立ち尽くす猪の姿。
奴の体をよく見れば、とある異変があることに気付いた。
背中に何か…矢のような物が刺さっている?
と思った次の瞬間、背中に刺さる矢が2本に増えていた。
更に3本、4本…と続けざまに矢が増えていく。
猪はようやく事態を察したのか、忙しなく体の向きを変え、
自らに危害を加えるものの正体を暴こうとする。
「…あっ」
宙に浮かぶものを見て、僕は思わず声を上げた。
逆光ではっきりとは視認出来ないが、それは人影のように見える。
重力に従い、その影はゆっくりと空を下降し…そして、何かを
振り下ろすような仕草を見せた。
その一撃を頭部に受けた猪は、目をカッと見開いた後、
崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。
見ると、奴にその一撃を加えた物の正体は、ビール瓶の様な形状をした
木の棒…俗に棍棒と呼ばれる武器だろうか。
「……」
『彼』と目が合った。
無論、この状況を考えれば、お互い無視するのも可笑しな話だが。
『彼』の右手には棍棒、背中には弓と矢筒らしき物が見える。
この異彩な状況の中、ようやく巡り会えた他の人。
しかしながら、僕の胸に歓喜の感情は芽生えていなかった。
その原因は、『彼』の姿…その見た目にあった。