脱出
三郎が押し込められている控えの間の外が騒がしくなった。
走る大膳屋敷の家人達の声は治親の殿が毒殺されたと言って騒ぎになっている。
やはり。との思いと、どうにもならなかった無念さが全身を走り回った。
毒入り酒を注ぐ瞬間を見極められればとの思いが強かったが、これは土台無理な話しだっただろう。
しかも今は控えの間に囚われの身となっている己には何の力も無い。
運が悪ければ討たれ、良くても切腹だろうな、とは思っていた。
そのとき、控えの間の襖がいきなり開かれた。
これほど早く処分の知らせが来るとは思わなかったが、三郎は観念して眼を瞑り、やって来た者の言葉を待った。
「三郎、何をしておる、急ぎ台豊田の赤須七郎殿の所へ向かえ!」
思わぬ言葉に、開いた目に映った者は悪衛門だった。
「悪衛門か!? なぜここに!」
「それは後じゃ。儂は豊田の城に向かって小田殿を救って参る。急げ!」
悪衛門に急かされながら控えの間を出ると、豊田治親が殺された噂で持ちきりだった大膳屋敷では三郎を構う者などはいなかった。
「全洞は兵を豊田の城に入れたぞ。城は落ちた。大膳はどう動くか分からん。とにかく豊田家の血をひく者はもう台豊田の赤須七郎しかおらん。それを頼り、経緯を話して聞かせてやれ」
悪衛門は一気に捲し立てたが、しかし三郎の頭はそれを瞬時に理解した。
いや、理解するしかなかった。
「お前はどうする?」
「儂は豊田の城よ、小田殿とは城の仏間で縁が出来た。これも因果かな。無事に落とす事ができたら台豊田の城に向かう」
「ならば治親の殿の御子、小次郎(治寅)様も頼む」
「運があればその子も助かるさ、さぁ急げ」
三郎は悪衛門に頭を下げると、床板を踏み鳴らしながら脇目もふらずに走った。大膳屋敷を出るまでには幾人もの飯見家の家人とすれ違ったが、誰も三郎を気に留める者などいない。
式台を降りた三郎は門に続く庭へと出た。
そこは篝火が焚かれて煌々と明るく、走り出た三郎が逃げるには好都合であった。しかも篝火の近くには馬が繋いである。厩から曳かれて来たのか、お誂え向きに馬の背には鞍があった。
篝火近くにあった松明を抜き取ると一も二も無くその馬に跨った三郎は一気に門を駆け抜け、そのまま街道を東へと取り台豊田の城へと走った。
一方の悪衛門である。暗闇は仕事がしやすい。
三郎を脱出させると自らは易々と大膳屋敷を抜けて豊田城の奥の庭へと侵入している。
城門から主殿周辺には白井全洞の引き連れた兵が充満しており、正面から中に入る事は不可能だったが、前日に悪衛門は奥の庭に繋がる道を付けている。
奥周辺にも多賀谷兵が屯してはいたが主殿に比べればいないも同然だ。
最早城の主はこの世になく、奥に居る者は何の力も無い女と年端も行かぬ子供である。全洞にしてみれば、部屋に押し込めておくだけで事足りる相手なのだろう。
木襖がしっかりと閉じられた奥座敷には多賀谷兵が二人ほど立っているのみ。
庭の暗がりに潜んだ悪衛門は小刀を抜いた。
暫く番卒の二人を眺めていると、同じ場所に立っているのが飽きるのか、ふらふらと歩く事があった。
「これじゃな」
悪衛門が暗がりで笑った。
再び番卒が歩いた時、一人が音も無く消えた。もう一人はこれに気が付かない。何やら仲間の話声がする主殿の方を羨ましげに眺めている。
ふむ、と番卒が鼻を鳴らしたその時、真後ろに悪衛門が立っていた。
この者も自分が死んだ事に気が付かなかったかもしれない。声を上げる事無く濡れ縁の下にその骸を放りこまれていた。
濡れ縁に立つと座敷に振り向いた悪衛門、小刀をどう使うのか、さんに滑り込ませ音も無く木襖を開いて行った。




