なさけ
「おぉ、いたか」
土間に向かわず直接庭に面した濡れ縁に走ると、そのまま濡れ縁に腰をかけた。だいぶ息が切れている。
「遅れてすまん。色々と調べるのに手間がかかった。昨夜までには戻れんかったわい」
悪衛門は昨日、三郎に雇われた時の約束であった昨晩の内に西館に戻ると言う約束を守れなかった事を素直に詫びた。
「いや、無事に戻って何よりじゃ。多賀谷に捕えられたかと思って気を揉んだぞ」
三郎も悪衛門の隣に腰を下ろした。
「それで、やはり今日、全洞は毒を盛る心算か」
「うむ、それは間違いあるまい。だが儂がこっちに向かう時、大曾根の城から近習を従えた全洞も発ったのだが、その供の中には侍女はおらんかった」
「侍女に盛らせる腹ではないのか」
悪衛門は右手の人差し指を立ててみせた。
「先に全洞が大膳屋敷に贈物を送った事があっただろう。その折りに付いて来た侍女が幾人かおった様なのだが、その侍女達は今も大膳屋敷におる。これを厨と接待の人数として、その内の誰かに毒を盛らせるらしい」
三郎は唸った。手の込んだ計画よと思うと同時に、やはり今日がその日かと思うと、毒殺をうっかり口に登らせてしまった我が身を呪った。
「その侍女のうち、誰が手を下すのかわかるか」
「分かるまい。侍女にそのような大それたことを前もって知らせてしまえば、大事の余りに手が震えてしくじる事もあろう。知らぬが仏よ、全洞もその辺りの考えは深そうじゃ」
「そうか」
悪衛門の知らせによって何か毒殺を防ぎうる手はないかと考えてはいたものの、これでは妙案も思いつかなかった。
いざとなれば我が身で防ぐ事になっても構わぬが、席を別室に離されてしまえば万事窮する。どうするか。
「儂は昨日な」
悪衛門は頭を掻いていた。
「全洞の屋敷に入ってみたが毒の入った入れ物を見つける事ができなかった。代わりと言っては何じゃが、治親殿の奥方に会いに行ってな」
「小田殿に会いに行ったじゃと? まさか、会えるはずもあるまい」
「真っすぐに行っては城門に弾かれるわい。儂は裏に回るのが得意じゃからな。お手のものよ」
「ふむ、そうか。して、どうなった」
「今日の酒宴にはお前の亭主を向かわせるなと言っておいた」
はたしてそう上手く行くかどうか。小田殿は悪衛門などは知らぬ者には違いあるまい。そのような男が『参るな』と言った所で逆に疑われるのが落ちではないか。とも思うのだが、しかし三郎に妙案があるわけではない。気を効かせてくれた悪衛門には感謝こそするものだろうな。とは思う。
「……なるほどのぅ。うまく小田殿が治親の殿を止めてくれると良いのじゃが」
そのとき、土間の方で弥平が三郎を探している声が聞こえてきた。家人達の準備が整ったようだ。
「そろそろ大膳屋敷へ行く頃合いだな。儂が言うのもなんじゃが、くれぐれも気を付けよ。全洞は渋いぞ」
「悪衛門、色々と忝い」
三郎はそう言った後、悪衛門にふと笑みを漏らした。
「これでお主を召し放ちとするよ。美濃行きの足止めをしてしもうて申し訳なかった」
三郎は深々と頭を下げた。
「ならばこれより大膳様のお屋敷に出立する。悪衛門、達者でな」
大紋直垂をばさりと広げ、足音を立てながら濡れ縁を土間に向かって歩いて行く三郎の後ろ姿を、悪衛門は無言で見送っていた。
その奥では障子を開けて座敷から出て来た三郎の女房と息子が、これから起こる事を何も知らずに亭主を見送りに出て来た。
濡れ縁にいた悪衛門と眼があったおさとは、かるく会釈をした。
「不憫よな」
とは悪衛門の独り言である。
三郎から召し放ちと言われた事で、もう豊田領との縁が切れた。
何処へ向かうにも悪衛門の胸先三寸で全て決められるのだが、足が美濃へは向かなかった。
悪衛門は自分に呆れたように独り、うすら笑いを浮かべながら豊田城下へと向かっている。
人が良いとはこれを言うのかな。ふと脳裏に浮かんだ言葉を否定する。
違うか。これは人が良いのではない。お人好しなのだ。そう自分を嘲笑っていた。
嘲笑うのだが、なぜかその事を否定する気持ちにはなれないでいる。
三郎め、やつはただ殺されるには惜しいほど面白いやつだ。これは情と言うものなのだろうか。
自問自答しながら悪衛門は豊田城下の大膳屋敷近くまでやって来ていた。




