調略の始まり
三郎は書院の庭から西館の使番詰所へと歩を向けていた。
屋形の玄関から入ると直ぐ近くにある十坪ほどの板敷きの広間には何時も五人程の使い番が詰めているのだが、ここが三郎本来の職場でもあった。
玄関とは別の入り口である脇の上がり口で草鞋を脱ぎ、自分で用意した水盥で足を拭ってから黒光する階を上がった。詰所は本殿玄関に近い位置にあるのだが、身分の低い使い番は玄関を使う事は許されない。その為に玄関脇にある屋敷への上がり口を使って入るようになっている。
玄関から続く屋敷の長い廊下は糠袋で磨かれて黒く輝き、それは使い番詰所の床でも同様だった。おそらくこの城内にある建物全ての床がそうなのだろう。
忍避けの仕掛けが廊下で歩を進める度にギシギシと音が鳴る。忍にとっては不都合なこの音だが、この城に詰める者にとっては鴬張りとして耳を楽しませる。
廊下の南側に面する壁は蔀戸と木襖で外界と仕切られていた。今日は木襖は全て取り払われてはいるものの、夏の日差し避けの為に蔀戸が半分ほど開かれている。このため蔀戸から差し込む光が詰所に向かう三郎の影を黒光りする廊下に落としていた。
三郎が廊下の床を鳴らしながら詰所に到着すると、そこでは同僚達が其々端正に着座して何か書き物をしているようだった。
使い番とは言え何時もどこかへ出向いていると言う事は無い。日がな一日出納方の手伝いをさせられる事もある。今日も城で使う炭や油などの帳簿付けをしていた。
「皆、いたか」
詰所を見渡しながら挨拶もそこそこに、三郎は中央で空いている文机の前にふわりと座った。そして咳払いを一つ。人数が居る割に静まり返った詰所は、其々が帳簿をめくる音か算盤玉を弾く音だけが響いていた。
三郎は懐に入れていた帳簿を開くふりをしながら、遠慮がちに自らの左隣に座っていた男に小声で話しかけた。
「そう言えば、先ほど気になる事があったのだが……」
少しだけ声音を上げると、これにつられた同僚がふと顔を上げて三郎を視界に入れた。
「どうした」
「うむ、実はな……」
何かを言おうとした三郎だったが、突然口ごもった。
「あ、いや、やはりやめておこう」
これは三郎の手管。話を途中で止められてしまうと続きを聞きたくなるのが人の性である。三郎はわざと何事もなかったかのように顔を文机に向けて帳簿を眺め始めた。
「なんだ弥藤、お前から話しかけておいて途中で止める事はなかろう」
三郎は横目でちらりとその男を見た。食いついて来た事は間違いない。
「いやなに、まさかとは思ったのだが、改めて声に出そうとすると、どうにも大した事が無いように思えてきた」
腹の中でぺろりと舌を出しながら、言葉を途切るとわざと大仰に頭を掻いて見せた。
「や、先ほど此処に参る時な、何やらどこかの下男の様な者が書院の庭に入り込む所を見たものでな」
三郎の話を聞く男は眉間に皺を寄せて訝しむ目を向けている。この西館の屋敷に付属している書院には、下男どころか自分達下級の武士ですら滅多に入り込む事が出来ない場所なのである。
「戯けを申すな。そのような怪しき輩が気ままに入り込んで来れば虎口の番卒が取り押さえるだろう」
「まぁまぁ、話は最後まで聞け」
三郎の巧みさ面白さはこの言葉のやり取りにあった。さきほどは話をやめておこう等と云っていながらその舌の根が乾かぬ内に最後まで聞けとぬかしている。そして続きを相手が聞こえるか聞こえないかぎりぎりの所まで加減した。相手は言葉を聞き取ろうとして嫌でも耳を傾けざるを得ないのを知っているのだ。
「ワシも何事かと思うてな、後をつけたんじゃ。するとその男、書院渡りの白洲に座りおってな」
ここで相手の男は合点が入ったのだろう、眉間のしわが消えた。
「白洲か。ならば百姓から殿への直訴か、急使ではないのか」
ここで三郎は手を打った。その通りと言わんばかりの所作である。これが静かな詰所にぽんと響き、否が応にもそこに居た使い番達の目線をひいた。 続いて今までの聞き取れぬ程の小声を改めると、そこに居る者すべてに聞こえるように話し出した。
「そう、正に火急の知らせだったんじゃ」
二人の会話がこれでその場にいる全員との会話となった。全ての使い番達が手を動かす事を止めて三郎の言葉に耳を傾けはじめていた。
「この事は内密にな」
三郎は口の前に右手の人差し指を縦にかざした。