懊悩の明け方
「読み物だと?」
「んだ、ついさっきもだけど旦那様に朝餉をお持ちしたとき、何やら難しげな書物を読んでおられましたなぁ。まぁオレには読めねぇけどもよ」
下女はきゃっと笑うと、そのまま火吹き竹を口に当て竃の種火を吹きはじめた。
一吹きごとに種火の赤みは増し、薪の下にくべてある小枝から煙が揺蕩って静かに炎の赤舌が薪を舐めた。
「五日も書物をお読みになられておるのか」
弥平が顎に手を当てたとき、竃で熾った火が薪を軽く爆ぜさせた。とその時、奥の座敷で障子が開く音が聞こえた。続いて障子が閉まると濡れ縁を歩く足音が土間の方に向かって来たようだ。
「旦那様」
やつれている。そこには眼の下に濃い隈を浮き上がらせ、若干こけた頬に無精髭を伸びさせた三郎が立っていた。
「どうされたのじゃ、そんなにおやつれになって」
「弥平か」
殆ど睡眠をとる事がなかったのだろうか、虚ろにそう口に出した。
「ちと、出かける」
続けてそう言葉を吐いた三郎はやつれた表情とは裏腹に、そそくさと弥平の脇をすり抜けて屋敷を出て行ってしまった。
「いったいどうしたんじゃ」
訝しむ目を向ける家人達を尻目に、一冊の本を懐に捻じ込むと石毛へと向かう街道に進んで行った。
三郎の脳裏には五日の間、考えに考え葛藤を押え込み抜いた構想があった。そのための品を入手しなければならない。
屋敷に帰ってから五日ほど日を開けたのは、赤須七郎と豊田治親が石毛の城から退散していた方が都合が良かったからでもある。
多賀谷の間諜が居る事は事実だったが石毛の次郎が多賀谷に靡いた事など無いのは三郎が一番良く分かっていた。それを謀反事に仕立て上げたのだから赤須七郎の人数に石毛領内でみつかればいらぬ詮索を受ける事になる。
この為いくら急ぎの用事になったとは言え、自分の言葉で石毛と豊田を不穏な状況にしておきながら人数を連れた七郎が屯する石毛城に向かう訳にはいかなかった。
息を切らせる三郎が向かう先に鬼怒川に掛かる橋が見えて来た。今日は市が開かれる日だった。そこからは開かれた市を俯瞰する事ができる。視界に入るそれは非常な賑わいを見せていた。だが三郎は、それに興味を掻きたてられるでもなく素通りをすると、石毛城下の悪衛門の鍛冶小屋の前に立った。
小屋の前に立った三郎が木戸を叩こうとしたとき、偶然内側から声が聞こえて来た。何を言っているのかは分からないがぼそぼそとした話声が聞こえるのだ。
鍛冶打ちの客でも来ているのだろう。そう思った三郎は二、三度辺りを伺い木戸開くと、相変わらず熱気が籠る蒸し暑くて薄暗い鍛冶小屋がそこにはあった。しかし今はすこし様子が違っていた。
奥で鍛冶打ちをしている悪衛門の他に見覚えの無い入道頭が立っている。外から聞こえた話声の主はこの入道頭だった。
ハッとしたように三郎を見た入道頭は、ぼそぼそと喋っていた小声を止めると突然三郎を押し退けて鍛冶小屋の外に出て行った。
不意に体を押された事で、三郎はよろけながらも入道頭を眼で追うのだが、しかし木戸を出ると直ぐに家の細辻を曲がってしまったようでその姿は消えてしまった。
振り返って鍛冶小屋を見ると悪衛門が今の出来事に気が付かなかったのか赤く焼けた鎌をやっとこで掴み、鎚で打ち叩いている。音も出さずに入道頭が去った為に後ろで何が起こっているのか分からなかったのだろう。
「聞かれるとまずい事でも話していたのか」
入道頭の声とは違う声がいきなり聞こえた為か悪衛門は驚いた様に振り向いた。まさか三郎と入れ換わっていたなどとは思いもしなかったようだ。
「お前か。まったく、お前にはいつも驚かされているような気がする」
「そうでもあるまい」
「今日は何の用だ。何日か前にお前が豊田に向かった日、豊田から馬の身分の者がやって来て一悶着あったようだが」
悪衛門は焼けた鎌を水に漬けて傍らに置くと、何時もの上がり框にやって来た。煙草を燻らすつもりなのだろう。
「あの入道は客か?ワシをいきなり押し退けて出て行った」
煙草台を引いて煙管を手にした悪衛門は、それに汚れでも付いていたのかしきりに吸い口を袖口で拭った。
「あれが商売金坊だとよ」




