地下の生業
「ああ。そう言った」
今日は細々と驚かされるものよと煙管を咥えなおしていると、上がり框に腰かけた悪衛門を押し退けて三郎は板の間にずかずかと上がり込んできた。
ごろりと横になり腕枕をしながら背中を向けてきたと云う事は、寝る、と云う事なのだろう。
「もう寝るのか」
一度予想を越えた出来事がおこると幾度となく意表を突かれる事が起こるものである。
「まだ日は高いぞ」
そうは言うが、特に三郎に対して何をする訳でもなく煙草の残りを吸いきった。
しかし、とは思う。儂は多賀谷の者ぞ。いくら人質を取って手先として使っているとはいえ、いつ用済みとされるか分かったものではないだろうに。 予想外に太い肝を持っているのか、それとも只の阿呆なのか。
この余りの無防備さを見たとき、悪衛門は三郎に好意を持ち始めた。
『窮鳥懐に入れば猟師も殺さずとも云うが、これはちと違うかな』
半ば呆れながら三郎の背中を眺めていた。
「今日は酒はやらんのか」
「ああ。今日は止めじゃ」
だから、と云う。
「明朝までやる事が無うなった」
「ならば儂の鍛冶打ちを手伝え」
悪衛門は鍛冶場の一角に無造作に置かれた修理前の鎌の山を顎で指し示したのだが、三郎はそちらを見る心算もないのだろう。
「そのような地下の生業、御免蒙るわ」
「お前も地下の侍じゃろう」
「なんの」
三郎は横になったまま土壁を眺めていた。
地下とは、今の感覚で言う所の下賎に近い。
数百年ほど遡った時代であれば、昇殿を許されない貴族の身分を指した言葉なのだが、いつの間にか武士がそう呼ばれる様になり、終には庶民をも指す言葉まで落ちている。
あえて三郎は地下と呼んだ。
自らは人質を取られながら好きなように操られてはいるが、武士であるとの誇りをこの言葉に持たせていた。
悪衛門はその意を酌んだのかどうかは分からない。言葉を返す訳でもなく煙管を煙草棚に戻すと無言で毀れ鎌の修繕を始めていた。
日も傾き鍛冶場の槌打ちの音も消えた夕刻。石毛の町並みでは蓆をひいた小屋で商売をしていた者は家路に付き、その場に店屋敷を持つ物はその蔀戸と木戸を締め始めていた。この当時はまだまだ灯し油や蝋燭などは贅沢品だったために滅多なことでは家の中に明かりが灯る事は無い。日が暮れたら質素に飯を食って寝るのが普通である。稀に来客等で囲炉裏の薪を燃やして暖や明かりを取る事もあったが、薪もそうそう無駄には使えないものだ。
蔀の衝立を外し、襤褸小屋の扉につっかえ棒を立てながら悪衛門は板敷きに横になっている三郎をちらりと見た。当の三郎は昼日中から良くも眠れるものよと感心するほどに鼾をかいている。鎚の音も気にならない程に熟睡している三郎が寝返りを打ったところで鼾が消えた。
人の寝姿を初めて見る訳ではないものの、何処となく可笑しく思えたのは久しぶりに他人と軒先を共にする事から湧き出た感情でもあったのだろう。
招いた訳ではない珍客ではある。が、それは悪い感情では無かった。
「さて」
 




