石毛の城
西館の使い番詰所で三郎が語った『来年多賀谷が攻め来る』の出まかせが現実となると、下妻では豊田の淡いひび割れからぬるりと這いだして行った間者が送った知らせを利用し、家督したばかりの彦太郎に家中を纏めさせる手筈が決まった。
そんな事など知る由もない三郎、西館の追手門を抜けた所で同僚と別れると豊田の城へ続く道に歩を向けていた。
豊田の土地は低湿地が多く至る所に葦原が繁茂している。西館も裾を大沼に洗われており敷地周囲の三方向はその地面を水面下へと落としていた。この為、城に出入りするには敷地である舌状台地の奥深くまで入り込んだ東の入り江のくぼ地に掛かる、柱のかぼそい橋を渡る事になる。
その橋を追手木橋と言った。その先が向石毛城と言われた西館の追手門である。
この門を出入りする者の目に先ず入るのは、城の南側で湖水を溜めた大沼の中にぽつんと浮んだ『峯』と呼ばれる狼煙台である。城周辺を監視する為に建てられたそれは、この辺りに来ると何処からでも見る事が出来た。
そこを右手に見ながら回り込むように細い街道を進んで行くと石毛の町へと繋がっている道に出る。この道は古来から霞ヶ浦に続く街道であり、その途中には滔々と流れる大川、鬼怒川が横たわっていた。
この当時は今で言う小貝川が鬼怒川、反対に鬼怒川が小貝川と呼ばれていたとも言われる。
鬼怒川の旧名は『毛野川』であり、下毛野国から流れる川との意味である。うがった見方ではあるが、豊田氏の始祖は平将門の血族である。その将門を討った人物は下野押領司である藤原秀郷なのだが、その旧領下野の国から流れる川に挟まれた土地に領地を持つ豊田氏。これに敵対する多賀谷氏の主家は結城氏である。結城氏の祖は小山氏なのだが、この小山氏の祖を辿れば藤原秀郷なのだ。考えようによっては因果なものでもあり面白い。
三郎は毎月市の立つ川岸を横目に、鬼怒川に掛かっている欄干の崩れかけた橋を渡り石毛の町に入って行った。
左程大きくはない町ではあるが一応門前町としての構えにはなっている。町の中央に伸びた、幾重にも折れる大道の両側には城の用事を賄う商家が立ち並んでおり、その家と家との間には、おそらく住民達が植えたのだろう、柿の木が等間隔に植えられていた。
今はまだ青い葉が茂るのみだが、これが秋を迎えるとたわわに実った柿が町民たちの食卓を賄う。
鄙びながらも賑わう大道を葛篭に折れながら北に進んだ先には城の南門の木戸が見える。そこからは次郎政重の住む城閣、石毛城だった。
周囲に堀を広く穿って鬼怒川からの水を引き込んだそれは、水の平野に築かれた関東の城の例に漏れる事無く浮城であった。
何処まで行っても水との縁が切れない関東平野だが、特に常陸・下総境は陸地と沼が半々と言った程に水に漬かっている。
西館から鬼怒川を渡って島のような石毛の地に入っても、直ぐ東には再び湿地が一面に続き、更にそこを越えると蛇沼が広がり、その先には小貝川が流れている。まさに低湿地の平野と言えた。
石毛城はほんの少し周囲から隆起している土地に造られている。三郎が知る由もない事だが、数千年来変わり続けた鬼怒川の流れが土を削り、盛り上げを繰り返した結果できあがったものだ。川が自ら作りあげたそれは少々の水害などはものともしない自然の堤防でもあった。
三郎がその自然に隆起した土地に入って門前町の中ごろまでやって来たとき、酒屋の前に幾人かの見覚えのある城の使いが居る事に気が付いた。
買い物を終えたばかりなのか背負子には乾物や野菜などが詰め込まれ、中には何処から手に入れたのか兎や鶴を手に持つ者までいる。
夕餉の材料とするには少々贅沢すぎるそれは、荷車に乗せられた酒樽と共に晴れの日の食材然としていた。
城でなにごとか催されるのだろうか。
役目柄どこの城に行っても小間使いにまで顔を知られている三郎。その使い達に気付かれる前に道を変えた。
ふと思い立ち悪衛門の鍛冶小屋に歩を向けていた。この城下に居を構える多賀谷の間者であれば何事かの情報は持っているだろう。大した事は無かろうとも思うのだが興味が先立った。




