畢竟の卑怯
「全洞、若様はやめぃ。儂は多賀谷の主ぞ」
「いや、これは御無礼申し上げました。御容赦下され」
彦太郎にしてみれば全洞が心底嫌いな訳ではない。むしろ重要な家臣として必要だからこそ、この隠居屋敷への出入りを許している。
全洞のその仕草である。その癖を目に入れるまいと、彦太郎は風景の見えぬ締め切った障子に目を向けた。そのとき障子紙を透かしてさっと影が横切ったが、雀でもいたのだろう。
「して、儂に用とは豊田からの知らせでも参ったのか」
再び、ひひひと響く笑いと息が、全洞の前歯から漏れる様子は如何にも『それらしく』見えた。
「来年の夏、我らが豊田に出陣するようでございます」
「ようでございます。とは、どう言う事じゃ」
「ほれ、あの女人」
全洞は唇を舐めながら自分の城に押し込めてある人質をそう呼んだ。今年、梅雨の始まる前に豊田から拐かした妻子を大曾根の城に取り籠めてある。
「豊田の人質か」
そう言った彦太郎はむっとした表情に変わった。
若い多賀谷の主人はその若さのせいか、人質などを取ると云う行為が人道を外れているような気がして好きではなかった。どうにも卑怯で腑に落ちない。雌雄を決するなら合戦でこそ黒白をつけるべきとの考えを持っている。
「全洞、その方の考え、儂は好かぬ」
この言葉に全洞はえも言われぬ笑顔をみせた。声もなく笑っているその貧相な面に彦太郎は危うく癇癪を起しそうになるのを堪えた。
「何が可笑しい」
「重経様はお若い」
若様から彦太郎ではなく、今の名乗りである重経と自らの主人を呼んだ。
「当たり前の事を言われても嬉しくはないものよな」
若い主の意外な反論に全洞は楽しくなってしまった。なかなか上手に返すものだ。
「戦は、何も正面から当るだけが能ではござりませぬ」
「だからと言って人質を取る事は卑怯ではないのか」
全洞から見れば若者特有の危うさが見え隠れする彦太郎だったが、その単純で実直な性格は嫌いでは無かった。
「調略とは畢竟、卑怯なものでござるよ」
洒落のつもりだったのか全洞は三度目の下卑た笑い声を出した。
「武士にあるまじき行為じゃな」
「それがし、先代様から買われた軍師でございます。どのような手をつかっても多賀谷の家を大きくするのが役目であり楽しみにござる。卑怯などは二の次」
おそらくこの老人に何を言っても変わるまい。彦太郎は話の趣旨を変えた。
「それで、人質がどうした」
「人質はどうと云う事もありませぬが、その女人の連れ合いが良い働きをしてくれたようにございます」
「話が長いな」
「これはこれは」
彦太郎は不服ながらも全洞の話につい惹きこまれていることに気が付いた。これがこの軍師の手か。
全洞は、その女人の連れ合いは豊田の使い番でございますと今更ながらに彦太郎へ説明を始めると、その男、こちらの都合が良い噂を撒くための間者に仕立て上げましてござる。そう嘯いた。
ところが、という。都合のよい噂を撒けと命じてはいたが、こちらの思わぬ事を口走ったことを伝えた。
「全洞にすら予期できぬことだったか」
「おそらく口から出まかせで同僚達に話したんでしょうなぁ。機転がききましてござる。我が多賀谷が来年の梅雨時、豊田に攻め寄せると大風呂敷を広げました」
全洞は弥藤三郎以外にも間者を豊田に置いていたようだ。あの使い番詰所での会話までもが筒抜けになっている。
間者とは敵方の様子を探る者、諜者の事を言う。別に忍である必要は無い。この場合であれば下妻抱えの者が豊田に出向いて活動するのが普通だ。しかし二つに割れている豊田家中、多賀谷派のものであれば後日の為に恩を売ろうと率先して諜報活動を買って出る者もいた。使い番のうちの誰かが内通していたのだろう。
「法螺か」
「左様、法螺」
全洞の口から隙間の広い前歯が覗いた。笑っている。
「その法螺、利用致しとうございます」
「どう使う」
「重経様、貴方様の多賀谷での重み、増やしとうござる」
「儂の重みを増すと」
障子を見ていた彦太郎が改めて全洞に振りかえった。
「さよう。御当家は先代様がお亡くなりあそばされてから少々家臣達の気が漫ろになっている様子。ここでひとつ、重経様が来年豊田を攻めると御触れを出されれば、まずは緊張を強いられましょう。そして来年、その時が来るまでに御当家を引き締めるタネと致しましょう。またこれが豊田に広まれば、只でさえ川面の浮草の様な家中にござる、ひび割れは更に広がるは必定」
貧相な面構えをした全洞のどこから知恵が沸いて来るのだろうか。確かに父が身罷ってからの家中は聊か儂を軽く見ている重臣も居る。何れは家中を纏めて行かねばと思わぬでもなかったが、あては無かった。ところがこの老人、敵対する家をたねとして家中を纏めると云う。
「豊田を分裂させ当家を鎮める策、と申すのだな」
「御意にござる」
「で、一年も先の戦、どうする」
「まずは陣触れを」
「そのような先の戦の為に今陣触れか」
「この陣触れ、豊田に流します」
彦太郎はこの気の長いとも思える全洞の思惑に興味が沸いていた。




