破寺
暗い。闇が、である。空には厚い雲が低く垂れこめ、そこからそぼ降る雨が陰鬱に地面を湿らせていた。
梅雨に入ろうとするこの時期、ただでさえむせる様な湿度で着衣が張りつく。
そこにきて今夜は雨だ。
男は肌に張り付く着衣に嫌悪感を抱きながらも蓑の合わせをしっかりと掴みながら、破れ築地の続く無住となった寺へと足を進ませていた。
その崩れかけた築地の隙間から覗く破寺の奥に、一つぼうっと火明かりが灯っている。どうやら目的の人物は先に到着していたようだ。
腐った階を登り、がたがたと鳴る木戸を引いて中に顔を突き入れた。確かに火皿に火が灯り、誰かが居る事は分かる。しかし人影が無い。
「いるか」
抑揚のない声だった。闇を抜けて破寺全体に静かに低く通るような声である。
返事が無い。
蓑笠の男は辛うじて残る天井のある場所まで来ると蓑笠を脱いだ。
裃に袴、帯に刀を差し、髪の毛を茶筅に結っている。
武家である。名を弥藤三郎と言った。
奥からの返事が無いままにずかずかと板の間に上がり込むと、どっかと胡坐を掻いて座りこんだ。
「はよう出せ」
三郎はいらついていた。今夜も嫌な男に会わねばならぬとの思いが言葉に刺を持たせていた。
全く嫌いな虫を扱うような気分だった。
出来る事なら両足をもいで地面に踏みつけてやりたい感情が沸きだすほどだ。
そんな思いで埃にまみれた板の間に座っていると、火皿の奥の板襖が一寸ほど滑り同時に何か重い塊の様な物が投げ込まれた。
僅かな刹那中空に居たそれは重い金気の音を立て、三郎の目の前の板の間に落ちた。
「良銭一貫文じゃ」
銭袋が落ちたと同時に、襖の裏から闇夜と同じような陰鬱な声が流れて来た。
感情の籠らない事務的な響きが聞く者の感情を逆なでして行く。
この声を聞いた三郎、癇癪をおこし、べっと唾を吐いた。
「もっと寄こせ!何が一貫文じゃ」
闇の中に雷鳴のように響いた三郎の声だったが、板襖の裏に居る人物から返事は無かった。
ちっ、と口を鳴らしながら三郎は一貫文の入った袋を懐にねじ込ませると、いらいらする様子で立ち上がった。しかしそれは板襖を開く行動ではない。踵を返して元来た道へ戻ろうとしていたのだが、二、三歩進んだところでふと火皿の方に振り返った。
「無事なのか」
唯一気がかりな事を姿を顕わさぬ陰鬱なモノに問いかけた。
この時外では一層雨足が強まった。
抜けた屋根から滴り落ちて来る雫も強さを増し、辛うじて残る軒先からも滔々と零れ落ち始めている。
時折稲光も辺りを照らすようになった。
しばらく返事を待ったが、もうそこに人は居ないのか、何も答えは帰って来なかった。
「返事が無いならば死んだ事として儂は手を切る」
そう言って再び外に向かって歩きはじめたとき、「無事さ」と、そう声が投げかけられた。
三郎は再び崩れかけた床に唾棄すると、傍に置いてあった蓑笠を素早く身に付けて足音もけたたましく破寺を去って行った。
梅雨時の雨は明け方まで降り続いたようだ。
明朝、陰鬱な雨も上がり青空が広がった。
相変わらず筑波の山塊から吹き降りて来る風には湿気があったが、日が射せば最早夏の加減となって下総と常陸の国境にある豊田の郷を彩りも鮮やかに映し出していた。
在野の百姓達が部落総出での田植えを始めている。
皐月五月。燕も南の国からやって来たようで、百姓達の頭上で弧を描きながら羽虫を捕っていた。
田植え唄や鼓の囃しが鳴り響き、一種村祭りのようにも見えた。
初夏の筑波下ろしも農作業で汗ばんだ肌には心地よい。畝の上で籠に入れられていた赤ん坊も余程気持ちが良いのか、ぐずる事も無いようだ。
一見すると太平の世がそこには現れている様な風景でもあった。
この豊田の里、先の通り下総と常陸の境に接し、東を小貝川、西を鬼怒川に洗われ、中央には蛇沼と呼ばれた沼が大きく横たわる土地である。
領主は豊田治親と名乗る高望王流常陸平氏の裔孫であり、根を辿れば坂東の地を領した新皇平将門にも繋がる人物だ。
その豊田治親の城閣、小貝川の西の畔にある豊田の城にとある噂が舞い込んでいた。
西館と石毛の城主が其々に領地を接する常陸下妻の領主、多賀谷政経に誼を通じる。との噂だった。
西館とは豊田郷の西に流れる鬼怒川を更に西に越えた、飯沼郷の入り口にある豊田氏配下の城であり、石毛とは鬼怒川東側にある豊田治親の弟、次郎政重が籠る城である。
共に豊田本城には近い位置に有った。
「どうだ?治親はこの噂、信じそうか」
石毛城下にある掘立の鍛冶小屋では、焼けた鉄を打つ鎚音が鳴り響いていた。