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練習を終え、勉とともに自転車で走っていた哲也は、通りの反対側の本屋に入ろうとしている細身で少し長めの髪をなびかせる後ろ姿に、あわててブレーキをかけた。
「哲、どうした?」
「俺、ちょっと本屋寄ってく・・・・」
「お・・おう、わかった・・じゃあ、また月曜の朝な」
哲の表情にかすかなえを緊張が見てとれたが、勉はそれ以上は言葉をかけず、軽く手を振りながら、薄暗くなりかけた街の中に消えていった。
勉がペダルをこぎ出すのと同時に、哲も自転車を押しながら道の反対側へ渡って行った。そして本屋の前に自転車を置き、少し中を伺うようにしながら本屋の中に入り、さっきの後ろ姿を探した。
その姿は、哲の予想した参考書などのコーナーではなく、雑誌置き場の人波の中に、なんとなく不釣り合いな感じで立っていた。
「・・・・・・・順一郎?」
ゆっくりと近づいた哲が、ぎくしゃくした口を動かし、その後ろ姿にそっと声をかけた。
順一郎と声をかけられた少年は、何か悪いことををしていたのを見つかった時の子供のように、表情を強張らせ、手にした雑誌を開いたまま声のほうへゆっくり振り返った。
「・・・な・・なんだ、哲か・・・・久しぶりだな」
声の主が哲だとわかった順一郎は、怯えたような表情は崩したものの、哲のそれと同じような、なんともぎこちない微笑みを浮かべた。
(・・・・・・相変わらずっていうとこか・・・・・)
順一郎の表情で、すべてを察したという感じで、中学3年のあの時のことを哲は思い返していた。
中学3年の3学期、義務教育からの枠を飛び出し、それぞれがそれぞれの足で進路を決めることとなる高校受験が目の前に迫っていた。
新たな世界へ踏み出すための切符を手にするため、この時ばかりはどんなに仲のいい友達であっても同じ学校を受けると判れば、正直敵に思えてならなかったりしてしまう。
そんな中であるにも関わらず、哲也・順一郎・和馬の三人は、まるで受験などしないのかのような、いつも以上にのんびりと毎日を送っていた。
この日の昼休みも昼食を終え、他の生徒は少しの時間も惜しむかのように、教科書やら参考書やらに目を落としているというのに、三人といえば、誰もいない屋上から、遠くにみえる海をのんびり眺めていた。
「なあ、哲は、愛北狙ってるんやったっけ?」
それほど興味があるとは思えないように、哲を見るでもなくフェンス越しの景色をみつめたまま、和馬がだるそうに尋ねた。
「ああ・・・近いからなあ~~~~」
「なんでかなあ~~~~県大会ベスト8の右腕が泣くってもんだぞ・・・名工電とかいって、甲子園とかいって、ヤクルトに入ればお金も女もなんでも手に入るのに・・・・もったいない」
「あははははは・・・和馬らしいなあ・・・・でも、哲はそういうの興味ないんだって・・・それになんでお前がファンだからって、ヤクルトなんだよ」
先ほどまでの興味なさげな言い方から一転、欲にくらんだオッサンのようなギラついた嫌らしさを含んだ物の言い方をする和馬に、さらさらな髪を風に揺らしながら順一郎が銀縁めがねの奥の目を細ませた。
そのあまりにも爽やか過ぎる順一郎の言い方に、もっともな事とは判りつつも
「なんや順一郎・・・その何でも判ってるっちゅう見透かした顔は・・・テニプリの手塚かよ」
と、性格上嫌味のひとつも言わなければ収まらない和馬が、すねた子供のような言い方をした。
哲也と順一郎は、いつもの事と顔を見合わせながら微笑みあったが、
「手塚か・・・・・俺もそう思った事ある」
「・・・・・・・実は俺も」
と、哲也が言った途端、順一郎が自分で言い出したことに、微笑では収まらず、三人は声を出して笑い出してしまった。
一笑いしたところで、話は順一郎へと移った。
「そういえば・・順・・・・おとうさんさんはどう?」
哲也が伺うような感じで、横目で順一郎の顔を見上げると、同じように気になっている様子の和馬も、反対側から心配顔で覗き込んでいた。
「・・・・とうさんは・・・まあ変わらないけど、かあさんが音楽の学校に行くのを応援してくれているんだ・・・・とうさんを説得してくれるって」
「・・・そうか・・まあ、順のとうさんは堅物だけど、結局はおかあさんに丸めこまれちゃうから、今回も大丈夫だな」
和馬の楽天的な言い方に、何の説得力も感じないが、三人は互いが好きなことをやっていけると確信して微笑みあった。
そんな和やかな風の流れをぶち壊すかのように、ゴリラのようないかつい体をした順一郎の担任が、冬だというのに暑苦しく汗だくになって屋上に上がってきたと思うと、あたりを猛烈な寒波のように一瞬に凍りつかせるようなセリフを吐きだした。
「お!・・おう・・こんな所にいたのか ・・・北村・・・す、すぐ帰る用意をしなさい・・・君のお母さんが・・・・・」
少年たちが、何が起こったのか理解できぬまま二日が過ぎた。ただ順一郎の母親が、交通事故によって亡くなったというのは事実なのであった。そして、哲也と和馬が順一郎の母親の葬式に出るために、こうして斎場に来ているのも、まぎれもない事実なのであった。
「・・・・哲・・・葬式って・・・出たことあるか?」
「いや・・・俺初めて・・・・」
「そうだよなあ・・・俺たちの歳で葬式はねえよなあ・・・あってもじいさんばあさんだよ」
葬儀が行われる時間にはまだ少しあるようで、参列者のために並べられた椅子はまばらで、その一番後ろに、決まりが悪そうな顔をした哲也と和馬が座っていた。
「・・・・ふたりとも、来てくれてありがとう・・・・・なんか、とうさんが、二人に話しがあるっていうんだ・・・・来てくれる?」
足音もないように二人の背後に立った順一郎が、精神的にまいっているような青白い顔色をさせながら、それでも努めて明るく二人に話しかけた。
(・・・・・・こんなときに・・・お父さんが何故・・・・・)
順一郎が明るく声をかけた半面、二人の目を見ないことに、何かいやな感じを抱いた哲也ではあったが、とりあえず順一郎のお父さんが待つという部屋へ向かった。
順一郎に案内された部屋は、昼前の日差しが天窓から差し込んで、周りの白い壁と床の畳をより明るく照らしていた。
その真中に順一郎の父親が、こちらを向いてまるでどこかの番人のような威圧的な雰囲気を出して、正座をして待っていた。
「今日は、順一郎の母親のために来てくれてありがとう」
一礼すると、父親は一息ゆっくりと吐きだすと、いつも以上の鋭い眼力を放ちながら、二人に言葉をつづけた。
「私は、回りくどいのが嫌いで、思いやりの言葉もうまくない・・・それでも、二人には誠意を込めて話したいと思う・・・率直にいうと、もう順一郎には関わらないでもらいたい・・・この子は、私の後を継いで、医者になってもらわなければ困るんだ・・だから、もう君たちと話しをする暇もなくなる・・・だからお願いだ、順一郎にかかわらないでくれ」
少年たちに会っても、言葉をかけたことなど一度もない父親が、初めて口に出したセリフが、順一郎との離別を言い渡すもので、哲と和馬は昨日から起こっている理解できないことが、もうひとつ増えたことだけは理解できていた。
「あの・・・お言葉ですが・・・俺達の存在が順一郎くんにとって悪影響だといってるんですか?」
頭の中がぐるぐる回っている船酔い状態の哲也ではあったが、このまま父親のいいなりに承諾してはいけないのだと思い、同じく回りくどいことが嫌いなまっすぐな言葉を返した。
「・・・・・・・ああ、正直に言わせてもらうとそういうことだ・・・まあ、白石君はともかく、高木くんは、遅刻も多く勉強のほうも全く駄目だそうだね・・・・やはり、母親が水商売なんかしているからなのかね・・・とにかく、そういうことだから、二度と順一郎には話しかけないでくれ・・学校でも!・・・・・順一郎、時間だ」
父親は、左手首につけた黒い腕時計に一瞬視線を動かすと、そう言葉を残し立ちあがった。その刹那、今まで何も言わなかった和馬が、父親めがけて飛びかかった。
「おい、どんなに偉くてもな、人間言っちゃいけないことがあんだよ・・・謝れよ、俺の母ちゃんに謝れよ」
力任せに飛びかかったものの、柔道の心得のある順一郎の父親は軽くいなすと、和馬を畳の上に大の字に突っ伏させた。
「そうやって、すぐ感情的になるところが問題だって言っているだ・・・本当に友達のことを考えれば判るはずだ・・・まあ、馬鹿な君には何を言っても判らないだろうがな・・・・いくぞ・・」
どこまでも馬鹿にする言葉を畳みかける父親に悔しさの涙をにじませた和馬の肩を、哲也はこれ以上暴れないようにと両手で抑えたものの、胸の中は和馬と同じかそれ以上に煮えくり返っていた。
しかし、その気持ちをぐっと抑えて、話の最中も一瞬も二人を見ず俯いたままで、今も黙って父親の跡についていこうとする順一郎に哲也は話しかけた。
「おい・・・順・・・こんなんでいいのか?友達がこんなこと言われて、何も思わないのか?・・・それに、夢は・・・・夢はどうすんだよ・・・こんなことで諦めるのかよ・・・・・とうさんのいいなりの人形なんかになっていいのかよ・・・・何とか言えよ」
だんだん語気が強くなった哲也の言葉に、一瞬足をとめた順一郎ではあったが、二人に視線を送ることなく、そのまま部屋を出ていってしまった。
残された二人は、ただただ悔しいやら悲しいやら情けないやらで、しばらくはそこにいたが葬儀に顔を出さず、そのまま冬空の道へ歩き出した。
そう、あれから2年半・・・・そう、卒業式からだと2年ちょっとなのだが、実際話しをしなくなったのは2年半になる。
「・・・・・勉強頑張ってるか?・・・・」
「・・・・・ああ・・・まあ、やってるよ」
かみ合うというには程遠い二人の歯切れの悪さではあったが、互いに何かを話さなければという気持ちだけはあるようで、良い言葉を探るように沈黙がたびたび埋めていくのだった。
そうしている哲也の眼に、順一郎が手にしたままの雑誌が飛び込んできた。
(オーケストラやクラシックのコンサートなんかの音楽情報雑だ・・・・)
「そんな雑誌みてるって事は・・・・まだ、チェロ続けているのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・うん・・・・・父さんには内緒なんだけど・・・・・」
父親には内緒であっても、順一郎が音楽を続けていることに、哲也は心から安心した。最愛の母親を急に亡くし、子供の心を理解しようとしない父親のために、自分たちとも離れることを余儀なくされ、その父親と一緒に暮らしていたわけなのだから、正直心の抜けた操り人形になってしまっているのではないかという危惧が、哲也の中にあったからである。その上、少し照れた様子で意外な言葉が順一郎の口元から滑り出てきた。
「あのさ・・・もうすぐ音楽のコンクールがあるんだよ・・・・・それに出るんだよ・・・・賞を獲れば父さんだって、少しは判ってくれると思うんだよ・・・」
(順は大丈夫だ・・・まあ、俺たちの友達だから、当り前か・・)
順一郎の瞳がきらきらと輝くのを見て、この2年半自分たちがされたことよりも、傷つきやすい順一郎の心配ばかりしていた自分の気持ちが、徒労であったと哲也は確信していた。しかし、急に順一郎の顔が緊張に包まれて、本屋で会った瞬間の小動物のようなビクついた顔で、哲也の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・・・母さんの葬式の時は・・・・・本当にごめん・・・・母さんが亡くなって、もうどうしていいのか判らなくて・・・・本当にごめん・・・・・・」
まっすぐに哲也の顔が見ることができぬ様子で、それでも誠意を見せようと、順一郎はゆっくり言葉を重ねていった。はやりの歌が店内に響き、本屋という独特の幸せな空間の中は、紙の匂いで満たされていた。その一角で、本屋には似つかわしくない、何とも言えない緊張感をかもちだした二人の少年がたたずんでいた。
「・・・・・・いいよ・・・・もう・・・音楽も続けているようだし・・・許してやるよ・・・まあ、順じゃなきゃ、許せないとこだけどな」
一瞬、鋭い眼差しを送った哲也ではあったが、少しも怒った素振りは見せず、順一郎を安心させるような茶目っけも見せた。その様子に本当にうれしそうな笑みを浮かべた順一郎ではあったが、すぐにまた不安を顔に映し出した。
「・・・・・・・・・あの・・・・・和馬は・・・・どうしてる?」
「・・・・ああ、元気にやってるよ・・・・とはいっても、俺も高校入ってから、あんまり会えないんだけどな・・・・気になるなら、順が会いに行けばいい・・・まあ、一人が嫌なら、俺も付き合ってやるからさ」
「・・・そうしてもらおうかな・・・俺一人じゃ・・・和馬はなかなか手ごわいから・・・・あ、俺塾の時間だ・・・・また、連絡してもいい?」
「何言ってるんだよ・・いいにきまってるだろ・・・いつでも電話してこいよな」
「・・・・・・ありがとう・・・じゃあ、また」
単純で純粋な和馬だからこそ、一番傷ついているのをわかっている二人だからこそ、ちゃんと向き合って話さなくてはいけないのだと判っていた。とはいったものの中学の頃から和馬と順一郎は正反対のところがあり、それを中間の哲也が納めることが多く、二人ではなかなか話しはまとまらないのは目に見えて判っているのであった。
(こりゃ、一波乱ありそうだなあ・・・・・探りをいれておくか・・・)
順一郎の背中を送り出して、同じように自転車のペダルを踏み込んだ哲也は、心に広がる思いとは裏腹に、とても楽しそうな表情を浮かべながら、和馬がバイトしている喫茶店にむかった。辺りは夕暮れが闇に飲み込まれ、街灯と商店の明かりが家路へ向かう人の足元を案内していた。それと同じように哲也も光り輝くライトを灯し夜の闇をまっすぐ走りぬけて行った。