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「今日も暑いなあ」
「・・・・・ああ、今日は本当に暑いなあ~」
真上から肌に突き刺さるような鋭い日差しが照りつけ、梅雨は明けたとは言っても、むわっとした湿気に包まれた川原沿いの道を、必死の形相といえばそれほどではないが、それでも一生懸命に二人の少年が走っていた。
ところどころに土の汚れがついた、練習用の白いユニフォームの胸元には、(白石)と(土屋)と言う名札が縫い付けられていて、袖口から前後に振られている腕は真っ黒に日焼けして、先ほど飲んだ水分が汗となって噴出し、それが乾いて白い痕となって浮き出していた。
市内に続く大きな川沿いにある県立愛北高校は、10キロほど走れば散策路が整備された標高250m程の山もあり、豊かに自然に囲まれた環境が70年ほど前から変わらず、のんびりとした雰囲気の中にあった。
校風も環境そのものの、のんびりしたもので、勉強もスポーツも特に自慢できるものもなく、いわゆる「よくある公立高校」のひとつとして認識されていた。
そう聞くと多くの大人は、豊かな自然の中でのびのびと学生生活が送れて羨ましいなどと口にするが、当の学生たちにしてみればとんでもない事なのであった。
駅からは20分も歩き、コンビニもファミレスも駅前にしかなく、無駄にグラウンドも広く、その上すり鉢の底のような場所に校舎があるので、途中で抜け出そうとしても、東西南北どこの方向も職員室や体育準備室からみられてしまう最悪な環境だったりするのである。
ただ山が近くにたくさんある県の、郊外と呼ばれるような地域なわけなので、夏には避暑を楽しみにやってくる隣町で、都会からやってくる男の子や女の子と夏休み中に出会えるとチャンスがあったりした。
それというのも特にリゾートという施設もないので、無駄に敷地面積だけ広いこの高校の色んな施設を、夏休みの間だけ、部活の邪魔にならない時間帯を利用してもらっているのであった。
その中でも、学校の周りを一周するきちんと整備された部活用のランニングコースは、一周6kmもの長さになっており、健康志向の都会の人は、小さな筋トレ用の部屋とともに、部活の人間と一緒に利用したりするのだった。
その長いランニングコースを、夏休み前の土曜日練習を終えた後に、すでに3周している二人なので、必死というよりも、何かの責任感から一生懸命走っているという雰囲気が、身体中から汗が噴出すのと同じように湧き出ていた。
「なあ、哲・・・今更だけど・・・なんで愛北入ったん?」
(土屋)と書かれた名札の、身長は175cmぐらいで、肩幅ががっちりして、顔も四角く太い眉毛が印象的な少年が、額から流れる汗を首からたらしたタオルで拭きながら、枯れた喉元から搾り出すように尋ねた。
「・・・・・う~ん・・別に・・・・まあ、近かったからかな?」
土屋に比べたら、少し華奢な印象を受けるが、身長は180cmを越えていそうで、しなやかに伸びた手足を振り出しながら、子供っぽい笑顔を浮かべた口元から、同じように喉の奥から声を絞り出した。
それを聞いた土屋は、少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに大声で笑い出した。
「お前らしいなあ~・・お前の実力なら、中日大付属とか名工電とか西邦とかでも、十分レギュラーで
やっていけたはずやのになあ~・・・近いからか・・あははははははは」
そんな土屋の笑い声に、白石は少し怪訝そうな顔をして、逆に問い掛けた。
「勉の方こそ、なんでそういう名門にいかなかったんだよ?俺と違って、小中ずっと野球やってたんだろ?」
「うち貧乏なんだわ・・・だから、私立は・・・・それに名門って層が厚いだろ?レギュラーにとなろう思えば、こっちのほうが簡単だと思ったわけや・・・それにいくら好きでも試合に出られないんは・・・・・とはいえ、ここまで来るのは結構しんどかったなあ」
一瞬、悲観的な表情を浮かべたと思ったら、すぐに持ち前の明るい表情に変えた勉が、今までの苦しかった練習を思い返したように吐いた。
6月の終わりに始まった甲子園の県内予選、高校3年になる哲と勉にとっては、最後のチャンスの夏となったのであった。
2年からレギュラーの上、ピッチャーとキャッチャーである二人は、文字通りチームの中心として引っ張ってきているのだが、昨年の夏の予選が終わり、先輩が引退してからは、その責任が今まで以上に重いものになっていったのであった。
「あと、一周で今日は上がるか?」
本音を言うと、もうすでに終わりにしたい気が見え見えのような走り方の勉ではあったが、それ以上の意地っ張りの性格が邪魔をして、素直に弱音は吐けず、哲がいつものように『俺はもう少し走るから、勉はもう付き合ってくれなくていいよ』と、言ってくれるように促した。
「いや、今日はこれで上がろう・・・監督が疲労が溜まってるから、ちょっと休めって・・」
勉に比べたらまだ十分余力がありそうに見える哲が、珍しくいつもの半分で終わりにするといったことに
驚きを隠せない勉ではあったが、とりあえず今の状況から開放される事にほっとしていた。
プールの脇を通り、テニスコートエリアの角を回って川原に出れば、あとはグラウンドまで一直線であった。
(あと少し・・・・)
川原に出た二人の目の先に、広いグラウンドが入ってきたと同時に、誰もいないはずのマウンドに立っている白いワンピースを着て、大きな白い帽子をかぶっている少女が目に入ってきた。
「・・・・・・・誰だ?」
女の子を川原の上から横目で見ながら、勉が息を吐き出しながらつぶやいたが、哲はなんだか不機嫌な顔でマウンドの一点を見つめて答えなかった。
「取りあえず・・・・穏便に・・・・」
「おい・・・お前、誰?・・・・誰の許し貰ってそこに立ってんだよ?」
川原からバックネットへ下ってきた哲は、様子をみようと言う勉の言葉をさえぎりながら、そのままの勢いでマウンドに近づくと、白いワンピースと帽子に向かって苛立ちを向かわせた。
「・・・・白石?・・・・あ~・・あんたがここのエースなんだ・・・意外とカッコいいじゃん」
「何言ってんだよ・・・・何でもいいからそこどけよ・・・そこはお前なんかが踏んでいい場所じゃねえんだぞ」
野球をやってる人間にとって、自分たちのグラウンド、そしてピッチャーの魂のこもったマウンドに踏み込まれる事は、どんな大義名分があろうと許しがたいことなのであった。
そんな思いから、哲はワンピースと同じように白い手首を引っ張り、マウンドから降ろそうとした。
「ちょ・・ちょっと何すんのよ・・・やめてよ・・・」
「・・・・未有《みゆ》・・・・どうしたの?」
二人がマウンドでもめ始めたと同時に、銀の大型のワンボックスがグラウンド脇の道路に滑り込んでき、その中から、スーツにメガネと言った、いかにも仕事が出来ますといった感じの30代の女性が飛び出してきた。
そして、ハイヒールのままマウンドに近づくと
「あなた、うちのタレントになにしてんのよ・・・森崎未有・・・知ってるでしょ?」
「・・・・・・・しらねえなあ・・・近頃野球ばっかで、TV見てないから・・・・・」
長い髪をかきあげながら、上目遣いで二人を見上げながら告げたが、言われた二人は顔を見合わせ互いに知らないそぶりをしてみせた。
「いいから、とにかく手を離しなさい・・・こんなとこ週刊誌なんかに見つかったら、大変なことになるんだから・・・」
年上の女性まくし立てられた哲は、苛立ちから力強く握っていた未有の手首をあわてて離した。
「未有も未有よ・・・ちょっと散歩とかいいながら、こんなとこまで勝手に来て・・・何かあったらどうするの?」
「ごめんなさい、島田さん・・・・これからは気をつける」
「じゃあ、いくわよ」
「・・・・・じゃあ、いくわよ・・・って、どういうことですか?」
何もなかったかのように、マウンドに残った哲と勉に一瞥もせず、未有を伴い車に向かう島田の背中に、普段あまり大きな声を出さない哲の声が響いた。
「人のマウンドに勝手に上がって、それもヒールのかかとでズブズブ穴開けといて、そのまま帰るっていうのは、大人としておかしくないですか?・・・・ちゃんと整備してってくださいよ」
その声を聞くか聞かないかで振り返った島田は未有を車へいくように促しながら、180度方向を変え哲の方へ向かい、
「あら、それは申し訳ないことをしたわね・・・でも、私たちちょっと時間がないのよ・・なので、これで・・・あなたたちでお願いできるから?」
脇に抱えていた小さなバックから、一万円を取り出すと、視線は哲に向けながら、聞き分けのよさそうな勉の胸元に半ば強引に押し込むと、先ほどと同じように180度方向を変え、きびきびとした足取りでワンボックスのサイドドアに向かっていった。
「ちょ・・・ちょっと、待てよ」
納得できないといった哲の声がグラウンドに響いたが、それをさえぎるようにワンボックスのサイドドアは閉ざされてしまった。
滅多にお金を使わない高校生にとって、1万なんて大金を手にする事はほとんどないわけで、ましてや貧乏といっていた勉が福沢さんにお目にかかるなんていうのは、年に1度あるかないかであるので、理性とは間逆に身体は車に行こうとする哲を押さえつけてしまった。
「おい・・・・勉・・なにやってんだよ・・・おい・・・いい加減に・・・離せって・・・」
しがみつく勉を引き剥がそうとして哲の目に、方向を変えた車の反対側の窓から、少し悲しそうな顔で見つめる未有の顔がみえた。
高く上っていた日差しが斜めから色を変えて差込み、それが未有の口元がゆっくり動くのをはっきりと映し出していた。
「・・・ご・・・め・・・・ん・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・そう、一言謝りゃいいんだよ・・・・勉、いつまで遊んでんだよ・・とんぼかけて帰るぞ」
その口元を見た哲はそう呟くと、勉の頭を軽く叩いて引き剥がし、バックネット脇に立てかけてあるトンボをつかむと、マウンドの中心から円を描きながら島田と未有と、そして自分たち二人の足跡を消していった。
静かになったグラウンドに、ながく伸びた二つの影に沿って、川原からさわやかな風が吹き始めた。