視える子
私が最初に霊を視たのは七歳だった。
正しくは、視たと言った。
嘘だった。
夏休みだった。
祖母の家の居間で、私は襖の隅を指差した。
「あそこに女の人いる」
テレビで怪談番組を見た後だったと思う。
大人を驚かせたかっただけだった。
ところが母は青ざめた。
祖母は手を合わせた。
親戚は言葉を失った。
私は引っ込みがつかなくなった。
だから続けた。
「白い服着てる」
「髪が長い」
「こっち見てる」
適当に。
本当に適当に。
その日から私は親戚中で有名な「視える子」になった。
法事では亡くなった祖父の話をした。
葬式では故人が笑っていると言った。
誰かが泣きながら感謝した。
誰かが救われた顔をした。
今さら嘘とは言えなくなった。
三十七年経った。
五十歳を過ぎた今も、私は霊が視える人になっていた。
もちろん、一度も視たことはない。
一度も。
本当に。
ただの一度も。
───
日曜日の昼だった。
インターホンが鳴った。
玄関を開けると見知らぬ夫婦が立っていた。
二人とも痩せていた。
痩せたというより削れていた。
眠れていない人間の顔だった。
男が深々と頭を下げた。
隣で女が涙をこらえていた。
嫌な予感がした。
こういう予感だけは当たる。
霊感ではない。
人生経験だ。
「突然すみません」
男は震える手で封筒を差し出した。
中から一枚の写真が出てくる。
二十代前半くらいの青年だった。
「息子なんです」
胃が縮んだ。
「あの……」
「三週間前から行方不明で」
背中を冷たい汗が流れた。
「あの人から、あなたなら分かるって聞いて」
私は天井を見上げたくなった。
あの人。
間違いない。
向かいの叔母だった。
人の噂を運ぶためだけに生まれてきたような人だ。
私は心の中で叫んだ。
やめてくれ。
本当にやめてくれ。
───
リビングに通すと夫婦は何度も頭を下げた。
写真を握る指先が白くなっている。
母親の目は充血していた。
ずっと泣いているのだろう。
私は逃げたくなった。
今ならまだ間に合う。
視えません。
全部嘘です。
そう言えばいい。
たったそれだけだ。
だが三十七年積み上げた嘘は、思ったより重かった。
喉まで来ているのに出てこない。
「生きていますか」
母親が言った。
声がかすれていた。
私は答えられなかった。
心臓が速い。
どくん。
どくん。
どくん。
耳の奥で鳴っている。
運動もしていないのに脈が跳ねていた。
写真の端が手汗で湿る。
視えるわけがない。
分かるわけがない。
私はただの事務員だ。
インチキ霊能者ですらない。
ただ嘘つきなだけだ。
「何か……」
母親が縋るように言った。
「何か感じませんか」
私は目を閉じた。
神様。
助けてください。
そう思った次の瞬間。
口が勝手に動いた。
「水」
自分で驚いた。
「え?」
「水の近くにいる気がします」
言った瞬間、後悔した。
なんだそれ。
適当にもほどがある。
ところが夫婦の顔色が変わった。
「川だ……」
父親が呟いた。
「失踪する前の日、友達と川沿いのキャンプ場へ行く話をしてた」
私の心臓がさらに跳ねた。
偶然だった。
百パーセント偶然だった。
当たるな。
こんな時だけ。
───
それから数日。
私は逃げられなくなった。
夫婦から連絡が来る。
叔母から連絡が来る。
近所から噂が広がる。
あの人が探してくれているらしい。
そんな話になっていた。
私は夜眠れなくなった。
もし死んでいたら。
もし見つからなかったら。
希望を持たせた責任はどうなる。
ある夜など、眠ろうとすると突然心臓が跳ね上がり、飛び起きた。
天井を見ながら思った。
七歳の私を殴りたい。
全力で。
───
青年が見つかったのは十日後だった。
川の下流だった。
私は現場へ向かっていた。
断れなかった。
断る資格もなかった。
蝉が鳴いていた。
暑かった。
警察の規制線。
集まる野次馬。
湿った土の匂い。
腐った草の匂い。
私は吐きそうだった。
全部偶然だった。
全部嘘だった。
なのにここまで来てしまった。
ブルーシートの向こうで何人かが動いている。
母親の泣き声が聞こえた。
私は視線を逸らした。
見たくなかった。
何も。
何一つ。
その時だった。
誰かが立っていた。
数メートル先。
川辺の草むらの中。
若い男だった。
私は写真を知っていた。
だからすぐ分かった。
あの青年だった。
行方不明だった息子だった。
───
思考が止まった。
息が止まった。
心臓が一度、大きく跳ねた。
次の瞬間。
足から力が抜けた。
膝が笑うとかそんなものじゃない。
骨そのものが消えたように崩れ落ちた。
尻もちをつく。
呼吸ができない。
肺が動かない。
耳鳴りがする。
視界の端が白くなる。
男はそこにいた。
確かにいた。
風で髪が揺れていた。
服も揺れていた。
なのに誰も見ていない。
私だけを見ていた。
私だけを。
───
男は困ったように笑った。
写真と同じ顔だった。
けれどどこか安心した顔だった。
そしてゆっくり頭を下げた。
ありがとう。
そう言った気がした。
声は聞こえなかった。
でも分かった。
確かにそう言った。
───
私は震えていた。
止まらなかった。
三十七年間。
視えるふりをしてきた。
誰よりも自分が知っている。
私は視えない人間だった。
視えたことなど一度もなかった。
なのに。
今。
初めて視えてしまった。
本物を。
男はもういなかった。
川風だけが吹いていた。
私は地面に座り込んだまま笑った。
乾いた笑いだった。
涙も出た。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
七歳のあの日の嘘は。
三十七年遅れで、本当になってしまったのだ。




