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視える子

掲載日:2026/06/08



私が最初に霊を視たのは七歳だった。


正しくは、視たと言った。


嘘だった。


夏休みだった。


祖母の家の居間で、私は襖の隅を指差した。


「あそこに女の人いる」


テレビで怪談番組を見た後だったと思う。


大人を驚かせたかっただけだった。


ところが母は青ざめた。


祖母は手を合わせた。


親戚は言葉を失った。


私は引っ込みがつかなくなった。


だから続けた。


「白い服着てる」


「髪が長い」


「こっち見てる」


適当に。


本当に適当に。


その日から私は親戚中で有名な「視える子」になった。


法事では亡くなった祖父の話をした。


葬式では故人が笑っていると言った。


誰かが泣きながら感謝した。


誰かが救われた顔をした。


今さら嘘とは言えなくなった。


三十七年経った。


五十歳を過ぎた今も、私は霊が視える人になっていた。


もちろん、一度も視たことはない。


一度も。


本当に。


ただの一度も。


───


日曜日の昼だった。


インターホンが鳴った。


玄関を開けると見知らぬ夫婦が立っていた。


二人とも痩せていた。


痩せたというより削れていた。


眠れていない人間の顔だった。


男が深々と頭を下げた。


隣で女が涙をこらえていた。


嫌な予感がした。


こういう予感だけは当たる。


霊感ではない。


人生経験だ。


「突然すみません」


男は震える手で封筒を差し出した。


中から一枚の写真が出てくる。


二十代前半くらいの青年だった。


「息子なんです」


胃が縮んだ。


「あの……」


「三週間前から行方不明で」


背中を冷たい汗が流れた。


「あの人から、あなたなら分かるって聞いて」


私は天井を見上げたくなった。


あの人。


間違いない。


向かいの叔母だった。


人の噂を運ぶためだけに生まれてきたような人だ。


私は心の中で叫んだ。


やめてくれ。


本当にやめてくれ。


───


リビングに通すと夫婦は何度も頭を下げた。


写真を握る指先が白くなっている。


母親の目は充血していた。


ずっと泣いているのだろう。


私は逃げたくなった。


今ならまだ間に合う。


視えません。


全部嘘です。


そう言えばいい。


たったそれだけだ。


だが三十七年積み上げた嘘は、思ったより重かった。


喉まで来ているのに出てこない。


「生きていますか」


母親が言った。


声がかすれていた。


私は答えられなかった。


心臓が速い。


どくん。


どくん。


どくん。


耳の奥で鳴っている。


運動もしていないのに脈が跳ねていた。


写真の端が手汗で湿る。


視えるわけがない。


分かるわけがない。


私はただの事務員だ。


インチキ霊能者ですらない。


ただ嘘つきなだけだ。


「何か……」


母親が縋るように言った。


「何か感じませんか」


私は目を閉じた。


神様。


助けてください。


そう思った次の瞬間。


口が勝手に動いた。


「水」


自分で驚いた。


「え?」


「水の近くにいる気がします」


言った瞬間、後悔した。


なんだそれ。


適当にもほどがある。


ところが夫婦の顔色が変わった。


「川だ……」


父親が呟いた。


「失踪する前の日、友達と川沿いのキャンプ場へ行く話をしてた」


私の心臓がさらに跳ねた。


偶然だった。


百パーセント偶然だった。


当たるな。


こんな時だけ。


───


それから数日。


私は逃げられなくなった。


夫婦から連絡が来る。


叔母から連絡が来る。


近所から噂が広がる。


あの人が探してくれているらしい。


そんな話になっていた。


私は夜眠れなくなった。


もし死んでいたら。


もし見つからなかったら。


希望を持たせた責任はどうなる。


ある夜など、眠ろうとすると突然心臓が跳ね上がり、飛び起きた。


天井を見ながら思った。


七歳の私を殴りたい。


全力で。


───


青年が見つかったのは十日後だった。


川の下流だった。


私は現場へ向かっていた。


断れなかった。


断る資格もなかった。


蝉が鳴いていた。


暑かった。


警察の規制線。


集まる野次馬。


湿った土の匂い。


腐った草の匂い。


私は吐きそうだった。


全部偶然だった。


全部嘘だった。


なのにここまで来てしまった。


ブルーシートの向こうで何人かが動いている。


母親の泣き声が聞こえた。


私は視線を逸らした。


見たくなかった。


何も。


何一つ。


その時だった。


誰かが立っていた。


数メートル先。


川辺の草むらの中。


若い男だった。


私は写真を知っていた。


だからすぐ分かった。


あの青年だった。


行方不明だった息子だった。


───


思考が止まった。


息が止まった。


心臓が一度、大きく跳ねた。


次の瞬間。


足から力が抜けた。


膝が笑うとかそんなものじゃない。


骨そのものが消えたように崩れ落ちた。


尻もちをつく。


呼吸ができない。


肺が動かない。


耳鳴りがする。


視界の端が白くなる。


男はそこにいた。


確かにいた。


風で髪が揺れていた。


服も揺れていた。


なのに誰も見ていない。


私だけを見ていた。


私だけを。


───


男は困ったように笑った。


写真と同じ顔だった。


けれどどこか安心した顔だった。


そしてゆっくり頭を下げた。


ありがとう。


そう言った気がした。


声は聞こえなかった。


でも分かった。


確かにそう言った。


───


私は震えていた。


止まらなかった。


三十七年間。


視えるふりをしてきた。


誰よりも自分が知っている。


私は視えない人間だった。


視えたことなど一度もなかった。


なのに。


今。


初めて視えてしまった。


本物を。


男はもういなかった。


川風だけが吹いていた。


私は地面に座り込んだまま笑った。


乾いた笑いだった。


涙も出た。


笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなかった。


ただ一つだけ分かった。


七歳のあの日の嘘は。


三十七年遅れで、本当になってしまったのだ。




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