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泰山庁幽鬼調査課  作者: 十弥彦
仮面編
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第三十一話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その二十三

 海面から切り立つ崖には波風により横穴が穿たれ、黒を纏ったいくつかの影が弧を描き空へと舞い上がる。

 一幅の絵にもなりそうな光景の中、崖際に小さな手が掛けられたと思うと、ぬっと猫を象った面が下から顔を覗かせた。

「悠抄じゃないが崖まで来た甲斐があったな。おかげで良いもの手に入ったぞ」

 猫面越しにもほくほくとした様子を窺わせる天猫の言葉に、険しい崖から生還したと言う安堵感は微塵も感じられない。

 袖口から取り出して見せたるは、五つばかりの金糸のような黄色みを帯びたを半円の酒杯状の燕盞で、中には小指の先程の大きさの子安貝がいくつか巣材として埋め込まれていた。

「確かに燕の巣に貝殻が入っていると言うか巣に練り込まれていますね。これなら姫君も納得してくれますね」

 感心する青年に、採取者本人と彩藍除く観客二人と一匹が不思議そうな沈黙を返す。

「何を言っているんだ、お前は。こんな物を俺が贈り物にするわけないだろう?」

 むしろ事務青年の発言の意味がわからないと言わんばかりの拒絶に、彩藍が大きく仰け反り、悠抄が相棒の袖を引く。

「天猫天猫、ぼくふわふわ卵の芙蓉燕窩が食べたいです。くろさんは定番の針生姜を入れた青湯燕窩が良いそうです」

「わかった、任せろ。玄女はどうする?」

「左様にございまするな、これほどの上物なれば、わたくしといたしましては粥と木瓜燉燕窩は外せぬと申せしょう」

「流石の選定眼だな。それでこそ腕が振るい甲斐があると言うものだ」

 軽やかな悠抄と厳かな玄女による食欲溢れる要望に、猫面少年が静かに闘志を燃やす。

 いざ厨、と直行しかねない一行に、彩藍が慌てて腕を振り回して注意を引く。

「なんでみんな揃ってそんなに食べる気満々なんですか! いくら僕でも食べてなくなりました、すみません、で謝るのは嫌ですからね!」

 九割以上本気で調理へと向かおうとする猫面少年の上着の裾を引っ張って止める彩藍に、天猫が煩わしそうにはっきりと舌打ちをする。

「なんだ? 何か用があるなら手短に言え。ただでさえ燕の巣は下拵えが命だし、魚翅と熊掌の仕込みもあるからな、俺は忙しいんだよ」

「ちょ、今舌打ち……、いえそれよりも、贈り物を食べちゃったら、さすがにまずいですよ」

 些事にかかずらう程暇ではないと言葉のみならず露骨に態度に現す天猫に、彩藍が心理的衝撃をなんとか受け流して暴走を止めようと苦言を呈する。

 天猫が纏わりつく青年の手を面倒くさそうに払うと、いつもの様に袖口に手を入れ、赤褐色の物体を取り出した。

「ほら、なよ竹の姫用にはちゃんと別に用意しているだろ。これで満足したか?」

「赤い燕の巣? なんですか、これ。食べられるんですか?」

 贈答品は別にあるとの天猫の言であるが、贈呈先の用途に関しては言及はしていない。

 火を糸にして紡ぎ上げたように煌めく透明感の品物を前に食用かと問う青年の価値観は、かなり枠外存在に毒されてきていると言えよう。

「世に言う血燕の巣だよ。目を惹くから贈り物に向くだろ」

「血燕ですか。ちょっと縁起が悪そうですね」

「逆ですよ、彩藍くん。確かに八洲には血を忌む風潮がありますが、血燕は血とは関係ありません」

 だからこれは食べて良いのです、と謎理論を掲げて威張る小型食欲に、一度食い気から離れろと青年が先の自分の疑問は棚上げして冷たい念を差し向ける。

「血燕は確かにこの色から、巣を作るときに燕が吐いた血が混ざった物だと言う誤解があるがな、実際は巣材となった海藻の養分が赤変にした物で、戻した時の鮮やかさと珍しさから貴重なものとされているんだよ」

「海藻だけでは駄目なので、岩からの成分が染み込む時間も大事ですよー。このくらいの大きさでも数年は必要ですかね」

 しかも、と指指された先には、先と同じく子安貝と、見た目異質な硬度の茶褐色の半透明な物体が巣材として埋め込まれていた。

「これは、琥珀ですか」

「はい。いわゆる漂着琥珀ですね。琥珀は元は虎さんだったと言われているので、この巣で育った雛さんは怖いものなしです」

 安定して飛躍する異形面の少年の説明を、軽く袖を振った玄女が補足を引き受ける。

「俗信では、永を在った老虎の魂が地中にて琥珀に変じると伝えられておりまする。其が潮の満干に流れ着き子の安楽の願いとされるは、月の姫には何よりの縁起物となりましょうや」

「へぇ、なんだか凄いものなんです……ね?!」

 玄女の解説を受け感心とともに顔を上げた彩藍が、いつの間にやら隣に存在していた人物に仰天して声を上げそうになるところを、人差し指を仮面の口元に当てて見せた悠抄により、既のところで悲鳴を喉奥に押し込めた。

 風がないのに揺らぐ男の輪郭は、薄い気配も相まって見るものの心に不安を掻き立てる効果を持つ。

「件の漁師とやらの影法師にありまするな。子安貝の持つ気配に釣られて知らず現れたのでありましょう」

 視線を転じて茫洋とした表情で海の彼方を眺める半透明の人間を見守りつつ、ぽつりと玄女が呟いた。

「子安貝は、名が如く子が安んじることを願う親の思いが込められた願掛け守りだからな。真っ当な親なら、願いの気配に呼ばれて当然だ」

 冷静に断じる天猫の言を聞き入れたわけでもないだろうが、向き直った漁師の魂が風に吹かれる蝋燭の炎のように一度大きく揺らぐと、前触れもなくかききえた。

「消えてしまいましたけど、漁師さんは大丈夫ですかね?」

「心配ないですよー。子安貝の気配で、今ここに自分がいることが正しくないとく少しだけ思ったので、次の場所に行っただけです」

 それよりも今は舌鼓を打つのが先だと手招きをする悠抄に、彩藍が拳を自らの面に当てて唸り声を上げる。

「より良いものを準備していたからついでに採れた物は料理にしようとしていたのは分かりましたけど、悠抄さんと玄女様がいきなり食べようとしていたのは何故なんですかね」

 半分以上苦情で構成された青年真っ当な問いに悠抄と玄女が顔を見合わせた後、だってと揃って彩藍へと向き直る。

「態々仙境くんだりまで採取に来ておいて、天猫が金絲燕程度で満足をするはずがないです」

「贈呈物に於て能う限りの最上を得んとするは、世が変われど変わらぬ道理にありまする」

 だからその場で見せたからにはついでに食べようと言う事だと、世間には通じない常識を説く天上人二人に彩藍は頭痛を覚えて近場の松の木に助けを求め、天猫は当然とふんぞり返る。

「それはそれとして、悠抄さんならさっきの機会に漁師さんの魂を保護することは可能だったんじゃないですかね」

「そうですねー。保護は可能ですけど無事化は保証できないですね」

 穏やかであるも物騒な悠抄の言葉に、半ば聞き流していた青年がさすがに流すこと叶わず勢い付けて振り返った。

「まず前提としてですね、魂は一つであって一つではなく、一魂はすなわち三魂七魄で成り立つ、と言うのは前に説明した通りですよ」

 常の講釈と同様、指を回し言葉を続けようとする悠抄だが、くぅと鳴るお腹の音に首を傾げる。

「お腹が減ったので簡単に片付けますが、漁師さんは世にあって世にあらずなので、下手に力を加えると魂が散るのですよ」

 気分屋の減衰したやる気に比例した説明は、簡潔にも程があるものである。

「漁師の魂は半分夢の中にいるからな。自分から気がついて帰ろうと思ってもらうのが一番なんだよ」

 いま一歩理解をしきれないらしい青年に天猫が補足説明をするも、基本的に書類を通して現場を見る立場の人間としてまだ得心には僅かに手が届かないらしい。

「それでも、そんなまだるっこしい事しなくても、やっぱり悠抄さんの術でささっと解決してあげた方が、漁師さんの負担にもならないんじゃないですかね」

「それがですねー、魂だけと言うのは中々思い通りにはできないものなのですよ」

 夢界に足を踏み入れた魂の状態を何と説明したものか、としばし思案していた悠抄だが、目の前を過ぎる烏揚羽に良い例を思いついたのか、ひらりと手を振り青年を呼び寄せる。

「彩藍くん、胡蝶の夢というお話は知っていますか?」

「いえ、すみません、初めて聞きます」

 勉強不足を小さくなって詫びる彩藍の頭に、背伸びした悠抄がぽんと小さな手を乗せる。

「昔々、周さんと言う思想家さんが昼にお庭を飛んでいる蝶々を見て、夜寝ている時に蝶々を見ている自分を蝶々目線で見た夢を見たのですね。で、どちらも覚えている今の自分は果たして周さんなのか蝶々なのかはたまた別の何かなのか、と言うお話ですね」

 さて彩藍くんはどう思いますか? と話題を振られ、先までの悠抄の平坦な語りに油断をしていたのだろう青年が天地に視線を逃がして思案した末、何やら言いにくそうに呻き声を上げつつ口を開いた。

「あの、大変失礼なんですが、その周さんと言う方は大丈夫ですか? お疲れか何かお悩みとかでは?」

 非常に若者らしい明快な解釈に、数拍を置いた後に天猫と玄女が同時に吹き出し、悠抄はふむふむと興味深げに頷いた。

「彩藍くんらしいとても素直な感想ですね。では重ねて問いますが、大丈夫と大丈夫じゃない境はどこだと思いますか?」

 立て続けに出される形而学的難問に、目に見えて動揺する青年を哀れと覚えたか、助け舟を出すべく笑いの余韻を残したままの猫面少年が軽く咳払いをする。

「自我と他我の関係だよ。世の中は、自分が思うほどに明確な区別を持って成り立っているというわけではないと言う思想だ」

 救難地点に微妙に辿り着かない助け舟に、彩藍が却って迷惑そうな雰囲気を方相氏面の奥より醸し出してから腕を組み思考を巡らせる。

「自分と他人の境は自分で決めるしかないと言うことですか?」

「別に他人の手を借りても良いが、魂の疲労を軽くするには自分で気がつくのが一番、だな」

 青年の導き出した解に天猫が微妙に修正を加え、悠抄はかりかりと頭を掻いた。

「そうですねー。世の中、悩みを持つ人の悩みを全部ひっくり返して、ひたすら質問を投げかけてくる偉いお坊さんもいますけど、彩藍くんが蝶々になったら、どちらを選びますか?」

 ひたすら問答もそれはそれで面白いものですよー、とのほほんと選択肢を提示する。

「付人殿、この場は慎重に考らるるが得策と思いまする。抄幽官にひたすら観察されるを良しとなすか、嬉々とした抄幽官と共に飽くなき問答の苦行林を歩まるるか、御身如何に、と」

 どちらを選択しようと世にあらざる苦難が容易に想像できる別れ道を突きつけられ真面目を以て鳴る青年が思考の迷路に迷い込みかけるが、はたと隠された進路に気が付き顔を跳ね上げた。

「そもそも、選択が必要なのは僕じゃなくて漁師さんの魂ですよね。なんで僕が人格崩壊の危機に晒されているんですかっ」

 理不尽人外の仕組んだ洒落にならない悪戯を看破した彩藍が盛大に苦情を申し立てるが、犯人のうちの猫面と女仙そして霊獣はつまらなそうにそっぽを向いた。

 そして万物の元凶たる異形仮面の少年は、拍手を送った後に袖より取り出だしたる踏み台に上がり、彩藍の頭を撫で混ぜる。

「よく気が付きました。彩藍くんは賢い子なので、ぼくの燕窩炖冰糖を少し分けてあげます」

「それ、さっきの注文に入っていなかった料理ですよね。大体、僕に要求権はなしですか」

 彩藍の非難は例によって真っ当であるが、真っ当さで理不尽の代名詞と呼ばれる悠抄が恐れいるなら世に苦労はない。

「ついでに、玄女様も一緒に食べる気満々ですが、仙人様って卵を食べても良いんですか?」

 青年の素朴な疑問に天猫が愉快そうに短い笑い声を上げる。

「安心しろ、番いのない鶏の卵だ」

「孵る事ない卵とは即ち、花果山の岩卵の如く天地判ぜぬ五気入り乱れし物にございますれば、我が身とするに支障はありませぬ」

 断言を置き去りに、率先して厨へと向かう猫面の少年と天の女仙を呆然と見送る青年の背を、悠抄が小さな手で軽やかに叩いた。

「要するにですね、美味しい食べ物に罪はないのですよ」

 のほほんと言い切ると、仮面の少年も自作らしき芙蓉燕窩の歌なるものを口ずさみ歩を進めた。

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