第二十五話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その十七
塞いだ耳に忍び込む重低音が、ぶつりと途切れた僅かな一瞬がどれほど長く感じられたであろうか。
「彩藍くん、到着しましたよー」
人の持つ根源的な恐怖など搭載されているはずもありません、とでも言いたげな悠抄の平坦な声に促されて薄く目を開けると、先ほどの青一色の世界とは一転、朝焼けに照らされる人の世の秩序ある雑踏が眼下に広がっていた。
「今回の道選びは当たりでしたねー。ちょうど富豪さんの街の上空に出られましたよ」
さらりといい加減さを混ぜ込む悠抄の言葉を聞き逃した青年は、己の座す神獣の艷やかな毛並みに手を付き詰めていた息を大きく吐き出した。
「彩藍、大丈夫か?」
誤差の範囲であるが相棒よりは幾分か社会適応性を持つ猫面の少年がどうでもよさそうに彩藍に調子を尋ねるが、事務官は顔を伏せたまま数度深呼吸をした後、何とか声を絞り出す。
「だい、じょうぶ、ですけど、次はせめてもう少し早めに教えてください」
「別に良いけど、そうするとお前嫌がるだろ? 拘束するのが面倒なんだよな」
「そういう問題じゃないんですよ! 社会人としてせめて事前通達をしてくださいと言っているんですよ、社会人として!」
ばしばしと床たるくろさんの背中を叩いて抗議する彩藍であるが、床神獣から抗議の低い唸り声を上げられ、急いで平謝りをする。
「なんだかよくわからないですけど、彩藍くんも元気になりましたので、富豪さんのお家に向かいましょう」
哀れな青年の心情を解すると言う発想を持つはずもない悠抄は、優しくくろさんの首を叩いて町外れの大きな邸に向かうよう促した。
〜〜
「その節は私どもの家族をお助けいただきまして、まことにありがとうございました」
唐突に訪れた客人に富豪は、私邸の応接間で使用人を含めた家人一同、深々とした礼をもって出迎えた。
「お久しぶりです。お元気そうで何よりなのですよ。小鈴さんもお元気ですか?」
「おかげさまで、年の割にはよく食べゆっくりと過ごしてくれております」
平素より幾分優しげな悠抄の声音に、彩藍が異物を見たかのように身を引くが、富豪一家は柔らかな笑顔で応じる。
「営業猫鬼その一はまだ顔を見せているのか?」
「はい。数日に一度は顔を見せてくださるので、今では私どもにとってもよい茶飲み友達となっていただいております」
ややおどけた当主の言葉に、後ろに控える妻と娘が顔を見合わせると、袖で口元を隠して小さな笑い声を上げる。
「相変わらず調子の良い。ただ、あれでも鬼は鬼だ。いざとなったら用心棒かわりにでもすればいい」
想定内の図々しさに、ひらりと面倒くさそうに手を振る天猫の言葉に、富豪が黙って頭を下げる。
「本来ならば宴でもとお誘いしたいところではありますが、お忙しい皆様のこと、まずは御用の向きをお伺いいたします」
主の申し出に、悠抄がごく自然に北の羅漢床に上着の裾を払い胡座を組み、並んで左手に天猫が膝を立てて腰を下ろす。
出遅れた彩藍が一瞬戸惑うも主人より脇座の椅子を勧められ、家主も下座の椅子に収まる。
客人の着座を合図に、夫人と令嬢が茶の準備をすべく使用人を従え退室していった。
「富豪さんにお願いと言うか、八洲の姫様のお願いを聞くために営業猫鬼その一さんに会いたいので、場所をお借りしたいのです」
ひとまずざっくりと要望を切り出した悠抄が人さし指を立てると、詳細はこうです、と経緯を説明する。
「やしまのおひめさま、ですか。いえ、私どもはお聞きしない方がよろしいのでしょう。かしこまりました。人払いをした場をご用意いたしますので、ご自由に」
立ち位置を弁えた富豪の賢明な台詞に、理不尽価値観二人は満足そうに頷き、青年事務官は尊敬の眼差しを送る。
悠抄が袖から取り出した鈴を振ると、ころりと軽やかな音が重なり合いながら四方へと散っていった。
〜〜
富豪より借り受けた表屋敷の客間の一つで、ずらした蓋碗の蓋より立ちのぼる青茶の香気を楽しんだ営業猫鬼その一が一口味わおうと顔に近づけるが、未だ冷めやらぬ熱に断念をし、かたりと几に器を戻した。
「なるほど、仮面様のご要望は私どもの出入りの行商人に宝物の手配を頼みたい、と」
「はい、何やら手広く商っていると言う事になっているようですからねー。ぼく達の望む物もきっと手に入れられるはずですよ」
じゃないと、行商人さんは妖さん達に接触する意味がなくなりますからねー、と朗らかに宣う悠抄の言葉は、内包する棘を気が付かせることなくその一を通り過ぎて背後へと送り届けられる。
「ご要望にお答えしたいのは山々でございますが、依頼の先の方々に私どものような軽き者の言葉をお聞きいただけましょうか?」
言外に厄案件であると伝える営業猫鬼その一であるが、その回答を想定していたのか否か、悠抄が袖口から細長い飾箱を取り出すと、無造作にその一へと手渡した。
ごく軽い開けてみよと言う指示に従い、黒漆に沈金の外箱と言う視覚の暴力を封する綾糸と金銀糸の組紐を解いて開けると、中には軸装された巻物が一本。
さらに許可を得て巻物を拡げると、銀粉の漉き込まれた紙に青味がかった墨で「悠」と言う一字だけが大書きされていた。
上もなければ下もない書面をぼんやりと眺めていたその一であるが、次瞬で我に返ると跳ねるように床にひれ伏した。
「仮面様!」
「びっくりしました。どうかしましたか?」
営業猫鬼その一想定外の平伏と鋭い呼び掛けに、声掛けられた方である悠抄はのんびりと己が胸あたりを押さえる。
「驚きましたのはこちらでございます!何という物をお寄越しですか。私に盲よとでもお申し付けですか」
床に額を押し付けながら見える範囲の毛を盛大に膨らませるも、調査官組は不思議そうに顔を見合わせ、青年事務官は事態を理解していない。
「大げさですよー。断られないためのぼくからのお願いのお手紙て言うだけです」
自分の名前がわかれば安心してくれるので相手は断るはずもなし、と薄い胸を張る異形面の少年に、猫面の相棒はその通りと相槌を打つ。
「悠抄の名前だけでも十分だが、その一が心許ないなら俺からも保険をつけてやろう」
言うが早いか、天猫が紅染めにされた絹織の帯に提げた玉飾りを抜き取ると、ことりと箱の隣に無造作に置いた。
小さな物であるも、燭台の灯りを溶けるように照り返す青玉の精緻な猫の帯飾りは、当人にとっては善意の塊であろうが、預けられた側としては厄の割り増しでしかない。
煌めきながら不穏の気を渦巻かせる卓の上の光景に、その一が視線を上げることもできずさ ら後退って距離をとるのを哀れに思ってか、彩藍が歩み寄って細かく震える肩に手を置いた。
「あの、大丈夫ですか? 取り敢えず悪気だけはないので少し落ち着いたほうが良いですよ」
「お助けを、付人様! このままでは心の臓が止まってしまいます!」
先程までの余裕ぶった小物さはどこへやら、天の助け、ではなく、ここで会ったが百年目とばかりの勢いで青年の腕に縋り付く営業猫鬼その一。
「ずいぶんと怯えてますけど、あなた達またどんな無茶をしたんですか」
溜め息混じりの非難を向ける青年事務官だが、非難された側は不思議そうに顔を見合わせる。
仮面と猫面が視線だけで意思を疎通した後、小型化した神獣と揃って三対の目で少し妖鬼を見た後揃って天井に顔を向け、またその一に視線を戻して首を傾げた。
「ちょっと、お二人とも……」
「お手紙ですよ。ですよねー、その一さん?」
「あぁ、手紙だな。だよなぁ、その一?」
「はい、わたくしはたいへんきちょうなおてがみをおあずかりしました」
にこやかな調査官組の声に、哀れ営業猫鬼その一は諾以外の返答を許されるはずもない。
かたかたと操り人形じみた動きを披露するその一に興味を引かれたのか、小型化した狻猊が歩み寄り妖の衣装の裾を咥えて引っ張る。
我に返った営業猫鬼その一が口の中で悲鳴をあげたのを聞いて何か思い出したのか、天猫が左手の拳で右手の平を打った。
「そう言えば、必要経費と報酬の話をしていなかったな」
「猫面様、これ以上はどうかどうか……」
泣きを入れる哀れな妖に構うことなく、悠抄と天猫が頼る以上は重要だ、と難問に頭を悩ませる。
「そうですねー。必要経費は都度請求で、お礼は道人の門下に入れて貰えるようぼくらから頼む、と言うのはどうでしょうかね」
良い案だと自賛する理外の存在達を尻目に、二等事務官が慄くその一の肩を優しく叩いた。
「あの、こうなってしまった以上、必要分に関しては僕宛に、良いですか、僕宛に請求書を回してください」
方相氏面越しにもわかる同情を湛えた目線を送る彩藍が、その一の手を取りくれぐれもと念を押す。
「あと、あなたもおわかりと思いますが、あの二人はあれ以上刺激しては駄目です」
武運を、と応援する形で見捨てた青年の言葉を受け、哀れ営業猫鬼その一は光る水滴を振りまきながら煙のごとく消えていった。




