第十三話 悠抄、仮面の秘密を明かすの事 その五
魂が抜け出た漁師を休ませる為に通された奥の部屋は、慎ましい村の暮らしに相応しく簡素なものであった。
全体的に灰色で統一された室内に、野花が素朴な彩りを添える。
「先ほども言いましたが、ご主人の今の状態は魂が抜けていることから起こる虚脱ですね」
貪狼から破軍へと、寝台に横たえた漁師の額に北斗を表す点を朱墨で書き込んでいた悠抄が、見守る細君に向かって現状を再度説明する。
「旦那は……旦那は目を覚ますのかい?」
「はい、大丈夫ですよ。日数がそんなに経っていないので魂魄の結びつきがまだ強いのです。なので、七星で魂の帰り道を確保して、身体は安静にして体力を温存させます」
だから安心して良いのだと太鼓判を押す悠抄に、光明を見た細君が自然と室内の祭壇に向かい手を合わせた。
少しの間細君が祈りを捧げるのを見守っていた悠抄であるが、やや飽きたのかその肩を軽くつついて説明を求める。
情緒を解さない悠抄に急かされた細君が呆れを滲ませながらもここ数日の出来事を記憶の限り語って聞かせる。
「なるほど、ではご主人は川蟹が好物で自分で罠を仕掛けてたんですね」
症状の出始めた日の行動を聞き取り熱心に頷く悠抄に、細君が困惑の表情を浮かべてやや距離を取る。
何気ない日常が目の前の不思議と何の関係があろうか、と言う感覚に囚われているのだろう中年女性を、彩藍が部屋の隅で何とも気の毒そうに見やる。
「言っては悪いが単に阿呆だな。日の入り時に離の方角に向かい、流水に留まったか。確かに魂の抜けかねない迂闊な行動だ。ただ、この村の地脈の強さを考えると原因にはまだ弱いな」
傍らで呆れと共に首を捻る相棒の言葉に何事か気がついた様子の悠抄が天井を見上げると、そのまま指を折り始めた。
「やっぱり水難と離により自ずを囚われると言う卦が出ていますね。あと、本命年の徴も出ていますがご主人の年齢は?」
「今年三十六になったばかりだけど、それが何か関係あるのかい?」
「ありますよ。干支、要するに十二年一巡りは終わりであり始まりなので、そもそも存在が揺らぎやすいのです。ここは地の加護も強いですが、これが見事に裏目に出ましたね」
ここまで見事な応報は中々見ないですね、と感心傍ら懐より符を数枚取り出した仮面少年が、手招きで事務官を呼び寄せるとその手に細長い紙を乗せた。
「悠抄さん、これは?」
「招魂符、五雷護身符、四方護衛符のお手本ですよ。それぞれ五組ほど作ってくださいね」
言葉に続いて筆道具を一式取り出すと、あっちとばかりに部屋の隅の卓を指差される。
せめてもの抵抗に自分で書けと言う思念を送ってみる彩藍であるが、丁度良い練習だと言う相棒に甘い猫面の一言で蹴散らされてしまった。
鮮やかな朱の塊を清水に擦り溶かすことしばし、広いとは言えぬ室内にわずかな清涼感を伴う甘やかな香りが漂う。
「すっげぇ、なんだこれ!」
「かぁちゃん、にいちゃん、あの兄ちゃんいい匂いする!」
「……世の中不公平だ。目にも綾な真朱に層成す香気って、どれだけ高給取りなんですか。僕なんて安っい弁柄の赤なのに……」
極上の香りを聞くと言う未知の体験に目を輝かせる子どもたちとは対照に、彩藍は現実の厳しさに黄紙に朱を走らせた。
一枚二枚と、複雑な文様を追い精神を集中することにより却って疑問を強めたのか、青年がふと筆の手を留め柄を面の額に当てた。
「すみません、先ほどのお話は僕には何が何やらさっぱりなんですが。方向によって魂が抜けるなんてあるんですか?」
顔を起こして、恐る恐る挙手にて疑問を差し挟む彩藍に、面倒な説明をどうしたものかと悠抄と天猫が顔を見合わせる。
しばしそのまま無言の押し付け合いを繰り広げていたが、方角だけで魂が抜ける訳では無いが、と押し負けた天猫が渋々説明役を買って出る。
「八卦だよ。離の宮は火の性を持ち明るく暗い、相は平なれど揺らぐ、門に入れば惑う。水難はそのままだな」
天猫曰く、いずれも常であればさしたる障りもない凶だが、いくつも重なれば増幅しあい、終いには村の加護の強さが逆に作用して魂を押し出しても不思議はない、とのことである。
「小さい害も重なれば、それは立派な凶相だ。占術の基本と応用は新人研修で習っただろ」
「習ってませんよ! どこの世界でそんな怪しい知識を新人に植付ける研修があるんですか」
世の常識の如く語られる非常識に咄嗟に否定の反応をしてしまい、誤った手元により符を駄目にしてしまう青年である。
あーあ、見た目少年どもと実年齢子供たちから容赦のない声が上がった。
「失敗ですねー。書き直しです」
「彩藍、修行が足らないぞ。書き直しだ」
「あんた達、僕の事嫌いでしょう……」
揃って棒読みで書き直しを命じると言う鬼の所業を見せた二人に、青年が泣きながら筆に再び朱墨を含ませた。
やいのやいのと騒がしい室内で、横たわる亭主を眺めていた中年女性が、ため息を一つついて振り返る。
「あたしも小難しい事はわからないけどね。つまり何かい、川蟹にはしゃいで気がつけば頭の中身がどっか行った阿呆がここにいるってことかい?」
「はい。まったくもってその通りです!」
「理解が早くて助かるな」
原因のあまりのくだらなさに、先程までの悲壮さを放り投げた漁師の妻が頭を抱える。
そしてその正面で、調査官二人組が明るく力強く馬鹿馬鹿しさを肯定した。
「いっそのこと、離縁を考えたほうが世のため人のため子供のためかねぇ」
「なるほど、それも立派な離の災いだな」
柔らかい笑みを浮かべつつも横たわる漁師の頭を叩いて妻が冗談を口にすると、天猫が受けて軽口を返す。
心配の反動とは言え肝の据わりすぎた女傑の言葉に、慌てて立ち上がり掛けた彩藍は脛を打ち悶絶し、悠抄は痛そうですねぇとのんびりと子供に語りかける。
「お、奥さん、あまり早まると旦那さんが気の毒では」
「冗談だよ。夫婦やってりゃこの程度の軽口は普通だろうに、そそっかしい子だねぇ」
「……うちの両親も喧嘩しては離縁だって騒いでいたので、他人事には思えないんですよ」
「ほう? 喧嘩後はどうしてたんだ?」
「僕を置いて、しょっちゅう仲直りの夫婦旅行に行ってましたよ。僕は半分は置いて行かれましたけど」
帰宅すると家は留守、厨に置き手紙と言う非常識さが分かるかと訴える彩藍であるが、天猫からは知らんの一言で終わった。
頭を一つ振って子供時代から現在に意識を戻すと、雑談の間に乾いた符を束ねて悠抄に提出する。
「悠抄さん、符の複写終わりました」
「はい、確かに。招魂符は彷徨う魂を呼び寄せ、五雷護身符は虚ろの身体に寄る邪気を退け、四方護衛符は場を清め悪鬼退散の力を持ちます。よく使うので覚えておいてくださいね」
これも昇進試験に出ますよ、と明るく断言する悠抄に、一抹の不安を覚えた青年が覚える。
「あの、僕が受けるのは事務官の試験なんですが、わかってます? まさか、調査官の話じゃないですよね」
「事務官も調査官も試験なんて合格すればどれも一緒だから、些細な事は気にするな」
教本を覚えれば問題に苦労することもないだろう、と事も無げに言い放つ猫面の背後で、異形面も軽く頭を上下させる。
浅くも深く横たわる両者の溝は、主に苦労知らずにより日々広げられていると言う現実に、彩藍が拗ねたようにそっぽを向く。
「天上人の戯言は結構なので、さっさと符の出来の確認をお願いします」
つっけんどんに急かされた悠抄が、紙片を扇型に拡げて感心の声を漏らす。
「形は歪ですが、素直な扱い易い符ですね。彩藍くんの性格の滲む良い符です」
「そ、そうですかね。もしかしたら、僕才能あるのかも?」
「はい、自信を持って良いですよ」
仕上がった符を検分した悠抄による想定外の高評価に、彩藍が後頭部を掻き照れてみせる。
ふぅ、と仮面の少年が息を吹きかけると、淡い緑の光を灯した符達があるべき場所へ自ら赴き貼り付いた。
「おお、緑の光を纏うか。心が安定している徴だな」
「これなら技術課にも紹介できますねー」
「え?」
途端に雲行きの怪しくなった評価に、上がり調子になりかけていた青年がその動きを止めて調査官達に顔を向ける。
「あの、それはどう言うお話で……」
「技術課の友達から筋の良い子がいたら手伝いに紹介してくれと言われていたので、話を通しておきますね」
だから、安心して訪ねれば良いのだ、と純粋なる善意を持って言葉を締め括る。
予想外の方向から過酷勤務を約束された彩藍は、上げたはずの腰を再び下ろすと、そのまま机に突っ伏して己が不運を嘆いた。
「さて、お父さんの処置は終わりましたので、村長さんを呼んでくれますか? 先ほどの干物の代金をお支払いしますね」
兄弟の前でしゃがみ込み、小さな頭を撫でながら悠抄が頼み事をする。
数日ぶりに母親の雰囲気が緩んだのを察したのであろう子供達は、笑顔で大きく頷いて走り出した。
村の中央となる広場には老若男女問わず呼び出された村人達が集まり、中央に敷かれた布を囲んで賑やかに世間話に興じていた。
ふらりと悠抄が海側に登場すると、自然と人々は山を背に一塊となる。
「わざわざ集まってもらってすみません。先ほど良い干物を譲って貰ったのでお代を渡しますねー」
気負いも見せず宣う悠抄に村の大人達が好奇の視線を向けるが、気にした風もなく空を仰いで記憶を探る。
「大粒の干あわび一個に黒なまこの干物が数本、龍の落とし子が5個、フカヒレと蛯子と貝柱の醤が一瓶と他干物類ですか。どれも最上品ですねー。特に醤が曲者ですけど、代金は金襴銀襴各十巻錦三十巻、締めて布五十巻ですかね」
何気なく呟いた内容に長老が目を剥くのにも気に留めず、悠抄が鼻歌交じりで袖口より布の巻物を取り出し始める。
10本を超えた辺りで天猫に小突かれた彩藍がほぼ半泣きで広場に敷かれた布の上に、艶やかな色彩を帯びた巻物を積み上げ始めた。
するすると留まることなく取り出される常識を超えた財が陽光を返す様に、村人達がもはや祟りを見るかの如く身を寄せ合う。
「ああ、管理が大変だと思うので、おまけで火伏せと虫よけのお札もつけておきますね。その他は風通しの良いところに積んで置いてくださいねー」
仕上げとして符を乗せまわった悠抄が、良い仕事をしたとばかりに仮面の上から汗を拭う仕草をしてみせると、横から相方が菊花の香りを漂わせる茶壺を差し出す。
大量の布に隔てられた反対側では、怯える幼子を腕に纏わりつかせた長老が口を戦慄かせながらゆっくりと開いた。
「これは御神宝じゃ。廟じゃ……廟を建てねば津波が来て村が沈むのじゃぁ……!」
「長老、落ち着くんだ! 今大工を呼びに走らせたから、気をしっかり持つんだ!」
卒倒する村人達と泣きながら目録を作成する事務官を横目に、少年型理不尽二人は煌めく海を眺めてお茶を啜った。




