クラスの可愛い子が雨の日の公園でめっちゃ笑いながら踊ってた件について
我が子にあげる羽虫を追いかけ、母燕が宙を低く飛んだ。
さっきまでやかましく鳴いていた初夏の蝉たちが、不思議なほどにいっせいに鳴り止んで、静寂が訪れる。
道の端を蟻が列を成して進み、生ぬるい不快な風がひゅるりと頬を撫でていった。
(傘、持ってこなかったのミスったかもなぁ)
遠くの方でモクモクと力を蓄える入道雲を眺めて、心の中でそう思った。今日の朝は忙しくて、天気予報を見る暇がなかったのだ。あれだけ大きな雲だ、こちらに流れて来るのなら、学校が終わる頃には土砂降りかもしれない。
今引き返せば間に合うかもしれないが、遅刻した時にクラス中から集まる視線を思うと、この足は取りに戻ることを躊躇する。
「はぁ……」
梅雨の時期は嫌いだ。雨は降ったり止んだりまちまちで、その癖しっかりと太陽は夏の暑さを発揮するから、毎日蒸し暑くて仕方がない。それに……
「あ、おはよう!小暮くん!どうしたの?元気ないね」
「……おはよう、藍川。いや、別になんでもない」
肩を叩きながら声をかけてきたのは、クラスメイトの藍川だった。誰にでも気軽に話しかけることのできるやつで、特に仲がいいわけでもなく、そっけない返答しかできない俺にも、通学路の途中で合えばこうして笑顔で声をかけてくれるのだ。
「そう?それよりさ、夕方からすごい雨らしいよ?夏に入ったと思ったら、そういえば梅雨があったかぁ、って感じだよね」
最悪だ、聞かなきゃよかった。
こちらが更に憂鬱な気持ちになっていると、藍川の端正な顔がこちらを覗き込んできた。
「小暮くん?どうしたの?」
「………」
「あー、傘持ってない?」
「……ああ、ミスった」
「あはは……僕も今日は雨で部活は中止でミーティングだから。うん、お互い災難だね」
そう言ってフォローになっていないフォローをする藍川の手には、しっかりと傘が握られていた。
今更取りに帰ろうかと思ったところで、校門はもう目の前だった。つくづく、自分の決断力の無さに嫌気がさすものだった。
昔から、思ったことを言葉に出して相手に伝えるのが苦手だった。
パッと思ったことを、口に出そうとして、一旦思いとどまって、相手を傷つけないか語る言葉を推敲して。
そんな手間をかけて言葉を選んでいるうちに、みんなの会話は大抵、次の段階へ進んでしまっている。そんなことが何度も続けば、必然的に俺は無口でノリの悪い奴だと判断されて、周りから人間は離れていった。
実際、生まれつき無口なのはそうなのだ。その上口に出す言葉をいちいち考えるから、言葉は尚更出てこない。おまけに目つきも悪く、無駄に身長だけは高くて、よく怖がられたものだった。
今は慣れて、気にもしなくなってしまったけれど。
他人と関わらないで、他人を傷つける心配がないのは、悪くないことだ。
……本当に?いや、結局は。
自分が傷つくのが、怖かっただけかもしれない。
教室の中の俺の席は、窓際の、一番後ろの隅っこだ。下手に周囲の会話を邪魔することもなく、でかい図体が邪魔にもならない。ちょうどいい場所だった。
「で、ここの条件を代入して判別式を———」
かつかつとチョークの細かい粉を散らしながら授業を進める教師の言葉を聞き流し、窓の外に視線を向ける。もう六限だが、案の定黒く澱んだ雲が空を覆っていて、もう間も無いうちに大粒の雨を降らせ始めそうだった。
そこでちょうどチャイムがなって、授業はちょうど終わった。急いで走って帰れば、雨が降り始める前に帰ることができるかもしれない。
そう思って席を立ち上がったところで、声がかかる。
「あ、あの、小暮くん……」
「……はい」
「ひゃっ……」
声に振り返れば、小柄な少女がびくりと肩を振るわせた……いや、悲鳴を上げられるのは、流石に傷つく。
小林さん、と言う名前のクラスメイトだったはずだ。年度初めに席が前後だったくらいで、当たり前だが特に交流もない。わざわざ声をかけてくる理由が見当たらなかった。
「あの、えと、柴山先生が、集めた課題のプリント運んでおいてくれ、って……」
「……わかった、そのプリントはどこに……」
そう言いかけたタイミングで、雨粒の一つが窓を叩く音が聞こえた。
降り始めた雨は、あっという間に豪雨に変わり、窓をばつばつと無造作に叩きつける。
「ちょっと、めっちゃ雨降ってるじゃん!」
「うわホントだサイアク、あたし傘持ってない……」
「あ、じゃあ、私の傘使う?」
教室の中央の方で一際騒がしくなった集団があった。クラスの中でも中心的で、煌びやかな女子たちのグループだった。
輪に加わって、傘を貸す提案をしていたのは朝比奈さんだった。可愛くて愛想が良く、運動もできる上に成績も優秀。非の打ちどころなんて全くないのに、そのことを少しも鼻にかけないでいつも控え目にしているから、クラスの、いや学校の誰からも好意的に見られている子だった。
「え、でも、陽菜のぶんの傘は……?」
「私は折り畳みのやつがあるから大丈夫だよ、気にしないで!」
「……陽菜!優しい!好き!」
「わわっ」
ギャル風の女子が冗談っぽく抱きついて、朝比奈さんが少しよろけた。
そんな様子をなんとはなしに眺めていたら、小林さんが声を上げる。
「えと、プリントは、教卓の上においてある奴なんですけど……小暮くん?」
「……」
「あの?」
「小林さん、俺が運んでおくから、先帰っておいていいよ」
「え、でも……」
「……ほら、雨も降ってきたし。あれくらいなら、俺一人で行るから」
そう小林さんに伝えて、先に帰ってもらうよう促す。実際あの程度の量であれば一人で十分だ。もしかしたらプリントを運んでいる間に雨が止んでくれるかもしれないという、願望に近い期待もあった。
「あっ……」
後ろからかかってくる声に手をあげてから、プリントを持ち上げる。もう一度窓の外を見てみたけれど、雨が止む気配はさっぱりしなかった。
「はぁ……」
結局あの後、届けた柴山先生と、近くにいた担任に雑用を押し付けられて、結局帰る時間が遅くなってしまった。頼まれたら断れない性分なのだ、仕方がない。
「……雨は、止んでるわけないか」
校舎中にこだまして、全方位から聞こえてくるような大きな雨音は、未だ弱まるそぶりすら見せていなかった。これは、諦めて濡れながら帰るしかないかもしれない。鞄の中の教材が少しだけ気がかりだった。
これだけの大雨だ。わざわざ教室に残っている物好きな生徒はおらず、電気の消えた教室は空模様も相まって薄暗かった。
昇降口まで来てから、目にして改めてわかる雨の強さに辟易とする。走れば数分で着くだろうか……いや、悩んでいても仕方がない。家に帰ったらすぐに風呂に入ろう。
そう決意して、せめてなるべく濡れる面積を小さくしようと体を丸めて、濡れたアスファルトの上を疾駆する。通りかかった軽トラの運転手の、気の毒そうな目が少し気に障った。
いつもの通学路を駆け抜けて、見慣れた丁字路にたどり着く。
(……こっちの方が早いか)
選択したのは、いつもは使わない道だった。道の先にある小さな児童公園を横切って、低い塀を越えて細い道を抜けていくのが、家への近道なのだ。
住宅に囲まれた狭い道を走って、児童公園にたどり着く。
この雨だ、流石に遊んでいるような子供なんておらず———
「あははっ」
(……は?)
思わず、足を止めて、見入ってしまった。
くるり、くるりと。
降り頻る雨の中、そんなことはお構いなしと、彼女は楽しげに踊っていた。
縛られるものなんて何もないかのように、自由に。けれどどうしてか、その笑顔には、どこか悲しげな色があった。
祝福するかのように雲間から差した光が、彼女の周りの雨粒で反射して、きらきらと輝いて。指の動きの一つ一つさえ、目に焼き付くようで。
とても、美しいと、思ったのだ。
ふいに、その青みがかった双眸がこちらを向いた。
「あ」
「……あ」
ピタリと、彼女が動きを止める。雲間から差していた、お伽話から出張してきたような幻想的な光も、スッと消えてしまった。
ざぁざぁと降る雨粒の大きな音だけが、二人の間で響いていた。
「……」
よし、見なかったことにしよう。
俺はそう決めて、来た道を走って引き返すことにした。
「ちょ、まってまってまってまって!!」
パシッと腕を掴まれた。結構、彼我の距離は離れていたと思うんだけど。俺、そんなに足遅いわけじゃないし。
「えっと、こ、小暮くんだよね?」
「……大丈夫、俺は何もミテマセン」
「そうじゃなくてっ」
「ストレスでしょ、大丈夫、わかるから、誰にでもあることだよね」
わぁわぁと、大雨の中押し問答をする。もし今誰かが通りがかったら、学生の面倒臭い痴話喧嘩のようにみられるかも知れない。
「というか、朝比奈さん、傘は?持ってるんじゃなかったの?」
教室での一幕を思い出して、彼女に問うた。
動揺しているからか、自分でも驚くほどにスッと言葉が口から出た。
「あ、うん、持ってるよ、ほら」
「じゃあなんで差さないんですか。雨の中、あんな……」
「えっと……気分転換?みたいな。あはは……」
そんな気分転換があってたまるか。
そのタイミングで、ガラゴロと遠くの方で空が戦慄いた。雷だ、と思う間もなく、雨足は一層強りだしていく。
「……ほら、雷も鳴ってるし、早く帰ったほうが……」
「うん……くしゅんっ」
「……大丈夫?」
「いや、うん、大丈夫だよ」
そう言いながら、彼女の体は震えていた。唇も少し青く、その言葉が嘘であることは明白だった。
とりあえず、傘を差させて、自分の学ランを上から着てもらった。学ランも濡れているけれど、ないよりはマシだろう。朝比奈さんの折り畳み傘は、濃いピンク色の小さいものだった。
「……送ってくよ、家まで……いや、近くまで」
女子が、得体の知れないクラスメイトに家を知られるのは快く思わないだろう。かといって、この場でじゃあねというのはあまりにも外聞が良くない。そう思ってのことだった。
「いいよ。私の家結構遠いし、その……学校の反対方向だし」
「え、なんでこっちまで来たの」
「だから、気分転換だってば……へくちっ」
だからそんな気分転換があってたまるか。
しかし、学校の反対側となると、結構距離がある。それまで持つかもわからないし、明日体調を崩されては自分も寝覚めが悪いというものだ。
傍らでぶるぶる震える朝比奈さんを見て、自分は一つ提案をする。
「……あの、一旦うちに来ますか?寒そうだし、雨が止むまで。ここから近いし、シャワーもあるし……」
ぽかんと見上げた朝比奈さんは、しばらく考えてから、こくりと頷いた。
「シャワーは、廊下の突き当たりです。芯から体を温めたかったら、お風呂も沸かしちゃっていいから……」
「あの、小暮くんは?小暮くんもびしょびしょだよ?」
「いや、俺は大丈夫。体は強い方だから」
実際、小さい頃から風邪をしたことはなかった。これだけ濡れていても、体を拭いて服を着替えればなんとかなるだろう。
「着替えは?」
「体育で使ったジャージが……あ、濡れてた」
「……俺の服でよかったら、貸すよ。洗濯機も、乾燥機能ついてるから使って。着替えは置いておくから、風邪引く前に早く入ったほうがいいと思う」
渋る朝比奈さんを脱衣所に案内して、扉を閉めた。間違っても彼女が着替えている時なんかに開けないようにしなければ、と、そう思っていたら、がらりと向こう側から再び扉が開けられた。
「その、何から何まで……」
「……別に、同級生が雨の中何故か水浸しでいたら、誰だって心配すると思うけど」
「う、ごめんなさい」
そういって項垂れた後、朝比奈さんはまた一つくしゃみをした。いいから早く入ってと言って、俺は居間の方へ足を向ける。
「あの、小暮くん、ありがとう!」
後ろからかけられたその言葉にちょっと足を止めたけれど、振り返らずに自分は歩き出した。
シャワーの音が聞こえ始めたのをしっかりと見計らってから、慎重に着替えを脱衣所に置いた後、自分もタオルで体を軽く拭いて着替えて、居間のソファにどさりと座り込む。
「ふぅ……」
さほど柔らかいわけでもないソファに身を沈め、息を吐く。
朝比奈さんがああしていた理由は、なんだろうか。気分転換、とは言っていたけれど、誰が聞いてもごまかしにしか聞こえないだろう。まぁ、詳しく問い詰められる間柄でもない。あまり突っ込まない方がいいだろう。
ポケットからスマホを取り出して、電源をつける。
メッセージアプリに通知が来ているのを見つけて、タップして開いた。
「……父さんか」
通知の正体は父であった。『今日も遅くなる。すまないが、春子のお迎えと、世話を頼む』とあったので、了解の旨を返して、スマホの電源を落とす。
春子は、歳の離れた妹だ。今は近くの幼稚園に通っている。父は仕事柄、家に帰るのが遅い日が多く、そんな父の代わりにその幼い妹を迎えに行くことはよくあることだった。今日も父の帰りは日付が変わる頃になるだろう。俺と春子のために仕事をしてくれているのだから、無論文句など出ようはずもないが。
頻繁に幼稚園に顔を出すおかげで、幼稚園の職員とは顔馴染みになってしまった。……あと、迎えに行く時にいつも園児にたかられたり登られたりするのにも、だんだん慣れ始めている。彼ら彼女らからすれば、体の大きい自分は巨人か何かに見えているのだろう。
(風呂上がったら、朝比奈さんを家まで送って……その後迎えに行くか)
窓の外を見れば、あれだけ激しかった雨の勢いも、段々と弱まってきていた。
そのまましばらくぼーっと過ごしていると、廊下の方から物音が聞こえ始めた。
「わ、暗っ。電気つけないと目悪くなるよ、小暮くん」
「……朝比奈さん」
パチリと居間の電気がつけられて、廊下の方に目を向けると、ちょっとダボっとした服を着て、いつもは結っている髪を下ろした状態の朝比奈さんと目があった。上気した頬と、パチリとした青みがかった眼にまっすぐ見つめる。
少し気恥ずかしくなって、顔を逸らしながら問いかける。
「……ごめん、服でかかった?」
「ううん、大丈夫だよ。小暮くんおっきいもんねー」
「……体調は、悪いところない?」
「うん!ありがとう!」
「………」
……どういたしまして、とか、気にしなくていいよ、とか。言えたらいいのだが、その時の自分は、言われ慣れていないお礼に対する照れ隠しと、向けられた笑顔で浮かび上がりそうになる心を押さえつけるので精一杯だった。
ちらりと時計を見れば、もうとっくに5時を回っている。
「……制服とか乾いたら家まで送るよ。あまり遅くなっても親御さん心配するだろうし」
「あー、うん。それは大丈夫、気にしないで。椅子、借りていい?」
「……好きに使っていいよ。お茶出すね」
「え、いいよ、そんな気を使ってもらわなくて」
とは言っても、家に来た客人にお茶も出さないということは、外聞もよろしくない。しかも同級生の同じクラスの女子である。
いいから、と朝比奈さんを手で制して、台所の冷蔵庫に向かう。視界の端に、ムッとした顔の朝比奈さんが見えた気がした。
冷たいのでいい?という問いに対する返答も、どこかむくれていたような。気のせいだろう。
机に冷たいお茶の入ったグラスを二つ置いて、朝比奈さんの対面……は気まずいので、対角線上の椅子に腰掛ける。
「前座ったら?」
「……おっしゃる通りに」
結局対面に座った。
そのまま、美味しそうに麦茶を飲み干す朝比奈さんを眺める。お風呂に入った後だから、やっぱり喉が渇いていたのだろう。自分も、グラスに入ったお茶をちびりと舐める。
あっという間にお茶を飲み干した朝比奈さんは、リラックスした様子で一つ息を吐いた。
「……おかわり、いる?」
「大丈夫!十分おいしかったです」
「そっか」
ニコッと微笑んだ朝比奈さんの顔からまた、自分は目を逸らした。
ぽつんと、静寂が落ちる。その空気に耐えかねていると、廊下の奥から、乾燥完了のあのメロディが流れてきた。
「あ、私取ってくるね!」
パタパタと駆けていくのを見送って、俺も今一度出かける準備をする。服は……それほどだらしなく見えないし、このままでいいだろう。雨はまだ少し降っているようだった。
少し待っていると、乾いた制服に着替え直した朝比奈さんがやってきた。さっきまで下ろしていた髪を今度はポニーテールにまとめている。いつもと違う装いだった。
「忘れ物はない?」
「うん!」
家に来た時はどこか空元気な感じがしたけれど、今はもう、すっかりいつもの朝比奈さんの、あの朗らかな状態に戻っているようだった。
玄関脇のクローゼットから、自分用の大きめの傘と、春子の小さい花柄の傘を手に取って、鍵を開ける。
「あれ?その小さい傘は?小暮くんのじゃないよね?」
自分の持つ二つの傘に目を向けた朝比奈さんが、靴を履きながらそう問いかけた。
「……ああ、妹の分。この後、幼稚園に迎えにいくから」
「え!?」
そういえば、妹がいるとは言ってなかった。多分クラスの誰も知らないだろう。朝比奈さんの驚きの声は、多分俺に妹がいたことから出たものだろう———
「なにそれ!?私も行きたい!」
違った。
「………別に、面白いものでもないと思うんだけど」
「私、小暮くんの妹さん見てみたい!」
「………あんまり遅くなるのも、親御さんが心配すると思う」
「大丈夫!私一人暮らしだから!」
そういう問題じゃない……いや、そういう問題にしちゃったのはこちらなんだけど。でも、一人暮らしとはいえ、さっきも言ったようにあんまり遅くに帰すのは……
「……ごめん、迷惑、かな?」
こくりと首を傾げて、眉尻をわずかに下げて、そう言われると。断るという選択肢は、どうしても選べなかった。もともと自分は、押しには弱いし、頼まれたら断れないタチなのだ。
わかった、と一言だけ呟いた。
渋々、だったのかもしれない。けれど、自分の返答を聞いて、パッと笑顔になった朝比奈さんの顔を見れば、その選択が間違いではなかったような気がしてきた。
どうにもやり込められた感は否めないが。
春子を預けている幼稚園は、ちょうど台地の端っこの、急な坂の下に位置している。
お茶の子坂、なんて可愛らしい名前がついてはいるが、毎年何人かは走って転んで怪我をする小学生が出るし、近くの高校が部活動の一環でトレーニングに使用していることがあるくらい、急勾配な坂だった。
「わっ、こっち側、こんな急な坂あったんだ」
「……学校の反対側は、あんまり来たことないの?」
「うん。こっちに引っ越してきてからも、行動範囲は学校と駅の方だけだったから」
では尚更、あの気分転換の意図を図りかねるのだけど。
「気をつけてね」
「うん!」
雨はもう止んできて傘は要らなくなっているけれど、地面は濡れたままだし、万一滑ったら危険だ。朝比奈さんの少し前を歩いて、彼女の足元を気にしながら坂を降りる。
降り切れば、すぐそこに幼稚園がある。立地はそれほどいいとは言えないが、敷地が広くて職員も優しい、安心して春子を預けられる場所だった。門の前まで来てから、中にいる顔馴染みの職員に声をかける。
「あの、春子のお迎えに来ました」
「あらー、朔也くん!こんばんは!春子ちゃんね、今呼ぶわ」
その顔馴染みの女性職員は、近くにいたもう一人の職員に一言二言告げた後で、再びこちらを向いた。
「……春子は、今日どうでした?」
「ええ、いつも通り元気いっぱいだったわよ?……そちらの子は?」
「あ、えと、小暮くんのクラスメイトの、朝比奈です」
「……へぇ?」
……いや、そんな意味深な目を向けられても、何もないですよ、と。
「えっと、今日は私がわがまま言って着いてきちゃっただけで……」
「さくにぃ!!」
朝比奈さんが弁明してくれていたそのタイミングで、彼女の言葉を遮るように、小柄な影が駆け抜けて俺めがけて抱きついてきた。受け止めて抱き上げると、輝く笑顔が目の前に現れる。
「春子、元気にしてたか」
「うん!あのね、はるこね、今日ね、つみ木でしんでれらのおしろつくれたのー!」
「そうか、すごいな」
「でしょー!」
元気よく答えた、ご満悦な様子の春子を地面に下ろす。すると、ぞろぞろと園内にいた園児が集まり始めているのが見えた。
「さくやだー!」
「さくやかたぐるましてー!」
「さーくん、ぶらさがるやつー!」
飛び跳ねる子供、ねだる子供、無断で登り始める子供。わいわいがやがや、はしゃぎ様もそれぞれだった。しばらく相手をする。身長だけは高いけれど、特に運動部に入っているわけでもないし、複数人の子供の相手をするのは最初のうちはキツかったりもした。今はもう慣れたが。
ふと、朝比奈さんの方を見ると、なぜだか驚いた顔をしていた。子供たちの相手も悪くないが、このまま彼女を置いてけぼりというのも良くないだろう。と思ったら、今度は、春子が朝比奈さんを不思議そうな顔で見上げていた。彼女には俺の妹の矛先が向いてしまったようだった。
「……えっと、春子ちゃん?私、朝比奈陽菜、って言います。よろしくね?」
「はるなちゃん?はることはるがいっしょ!」
「あははっ、そうだね!」
「おそろいー!」
……いつの間にか仲良くなってる。
よじ登っていた4,5人の園児を優しく下ろして、改めて、女性職員に目を向けた。
「今日も、ありがとうございました」
「いいえー。朔也くんもご苦労様。春子ちゃん、また明日ね?」
「うん!先生ばいばーい!」
手を振って、またお茶の子坂を登り始める。
これがまた自分にとってはキツイのだが、驚いたことに毎回一番元気に登るのが春子で、その都度不思議に思うのだ。一体あの小さい体のどこにそんなエネルギーがあるのかと。
今日も今日とて、体力のない兄を置いて先に駆け上がって行った。
「……すごいねぇ、春子ちゃん」
「……朝比奈さんは、大丈夫?」
「うん、平気」
息を荒くしながらも、彼女は笑って答えた。
そんな俺たちの様子を見ていた春子が、危なっかしい足取りで坂を再び降りてきた。ハラハラしながら見届ければ、目の前にやってきた春子が口をひらく。
「はるなちゃんは、さくにぃのかのじょさんですか?」
「!?」
「!?」
純粋な瞳で、朝比奈さんに向けて問いかけている。きっとまだ”彼女”という言葉の意味もわかっていないけれど、精一杯考えて弾き出した結論がそれなのだろう。
「あ、えーっと……」
「春子、朝比奈さんはお兄ちゃんのクラスメイトだ」
「お友達ってこと!?」
「……うん、まぁ、そう?」
広義の意味ではそうかもしれない。
首を傾げながら頷けば、また視界の端にむくれた様子の朝比奈さんが映った。そんなことはお構いなしに、春子は笑顔で言葉を紡ぐ。
「すごい!おにーちゃんお友達できたの!?一人もいなかったのに!」
「グフゥッ」
思わぬ伏兵に無自覚の大打撃を加えられて、思わず地面に頽れた。その様子を見て、朝比奈さんがあははと笑う。作り笑いの入っていない、自然に溢れた笑みのように見えた。
ダメージを引きずりながら、なんとか坂の最後まで登りきった。春子は元気なままだ。
登頂を祝してぴょんぴょんと飛び跳ねる春子を苦笑しながら宥めていると、春子が何かを見つけたように動きを止めた。
「あ、にじー!」
俺たちが登ってきたお茶の子坂の、上空の遥かな空を指差して、春子が声を上げる。虹か。そういえば、雨が止んでから雲も晴れて、登っている時の背中が少し暖かかったような。
そういえばこの坂は夕日も綺麗だったなと思って、振り返ってみる。
まず目に入ったのは、赤々とした目を灼くような夕焼けの色だった。
その沈み欠けの太陽を彩るように、鮮やかな虹が橋をかけている。夕焼けの色が街を照らし、坂の下に広がる街が影となって、一層際立ったコントラストを成していた。
すごいな、こんなのは初めて見た。
「わぁ、綺麗だね!」
隣で、朝比奈さんが弾んだ声をあげる。夕焼けに照らされて、その笑った横顔がはっきりと見えた。
「……そうだね」
答えを返してからも、自分はその横顔から目を逸らせなかった。そうして見つめていたら、朝比奈さんが笑顔の中に、ふと沈んだ表情を浮かべる。
「………私ね、今日、ちょっと嫌なことがあって。それで、まぁ、その、あんなことをしてたんだけど」
ぽつぽつと、朝比奈さんが言葉をこぼしていく。太陽はどんどん傾き、空の赤さも段々と薄れているようで、背後からは宵の闇が近づいてきていた。雨が止んでからしばらく経つというのに、美しい虹はその艶やかさを増していっているようだった。
パッと、朝比奈さんがこちらを向いた。
「でも、小暮くんのおかげで、すごく元気になったよ。ありがとう!」
そう言って、今日一番の笑顔を浮かべてくれたのだ。
奇跡のような、この空よりも。貴女の笑顔の方がずっと綺麗だと言えたら、君はいったい、どんな顔をするだろうか。
結局、小心者の自分にはそんなこと、とても口に出せるものでもなかったのだけれど。
今日一日のことは、多分一生、忘れることはないだろう。そう思った。
好評なら続き書きます