掌
――母の手は、暖かかった気がする。
けれどそれは、想像の中の話だ。私は赤ん坊のときに捨てられた。児童相談所の前に、バスタオルにくるまれて置かれていたらしい。
育ての親に不満はなかった。養護施設での生活も、悪くなかった。友だちもできたし、先生たちは優しかった。
けれど、大人になるにつれて、埋まらない空洞だけが胸に居座った。
「なぜ、私は捨てられたのか?」
名前しかわからなかった母の所在が、ある日ふと届いた通知で判明した。
彼女は死んだ。肝臓の病だったという。身寄りがないため、遺品の引き取りを依頼された私は、指定された市営住宅へ向かった。
小さな部屋。誰かと暮らした気配のない、孤独の匂いがした。
冷蔵庫には水のボトルとヨーグルト。シンクの隅には、使い古されたマグカップ。
机の上に、一冊の封筒が置かれていた。
便箋には、日付と走り書きのような文字。
私はそれを、立ったまま、声を出して読んだ。
─── あなたへ
あの時、私は何もしてあげられなかった。
手放すことでしか守れない命だと思ってしまった。
あなたを抱いたときのぬくもりを、今も覚えています。
忘れた日はありません。
親になる資格なんて、私にはなかった。
ごめんなさい。───
読んでいくうちに、それが「送ることができなかった手紙」だとわかった。
今日は、あなたが生まれた日だったかもしれない。
もしあのまま育てていたら、今どんな顔して笑っただろう。
夜泣きで寝不足になって、でもその顔見て何もかも許せて。
運動会でビデオカメラ回して、こけた姿に泣いたかもしれない。
好きな人ができたって話してくれたら、どんなに嬉しかっただろう。
「ママ」って呼ばれたら、泣いてしまうかもしれないな。
……そんな未来を、何度も夢に見ました。
あの時、あの選択しかできなかった私は、臆病で弱かった。
でもね。
あなたが幸せでいてくれたなら、もうそれだけで、私は救われるんです。
本当に――ごめんなさい。ありがとう。
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私は立ったまま読み終え、何も言えずに便箋を抱きしめた。
文字ににじむ震えに、声なき泣き声が透けていた気がした。
それは、伝えられなかった想い。
会えなかった母が、何度も想像した「ありえた未来」。
この世界では交われなかったはずの温度だった。
その温度が、胸の奥でふいに解けて、ひとしずく、掌に落ちた。
この手が繋げなかったはずの未来から、泪がこぼれた。