いちばん美味い珈琲の話
侯爵の目から見ると、こんな光景が広がっていました……というお話です。
いやあ、頼んだのはね、ほんっと思いつきだったんだよ。
ほら、僕さ、あんまり細かいこと向いてないのよ。
一族の面倒? そんな器、持ち合わせてないわけ。
医術の才能は確かだったし、せっかく亡命してきてくれたのに、
テキトーに扱って、国際問題にでもなったら洒落にならないじゃん?
でも、だからって俺が面倒見るってのも、うーん……ちょっと荷が重いな〜って。
で、パッと浮かんだのが、あいつだった。
昔から几帳面で、真面目でさ、とにかく頭がいいの。
俺の無茶にも、なぜか文句ひとつ言わずに付き合ってくれる律儀なやつでさ。
頼んだら、断らないの。
……他のやつにはけんもほろろなのにね、俺にはやけに優しいっていうか。
いやぁ、嬉しいじゃん? そういうの。友情だなぁ〜って思っちゃって。
で、つい、甘えちゃったんだよね。
「預かってくれない?」って言ったら、一瞬だけ目が動いたの、覚えてる。
……ちょっとだけ、怖かったな、あの目。
でもさ、すぐに「わかった」って頷いてくれたんだよ。
ああ、助かった〜って、思ったよね。うん。
そっからもう、何年? 十年?
早いもんだよなあ……
あの温室も最初は仮住まいかと思っていたけど、いつの間にか居ついちゃって。
居心地良かったのかな。
細かいところまで気が利く、あいつのところだもんね。
俺もたまにあいつんとこ顔出して、珈琲淹れてもらって、
ぼんやり温室眺めながら「まだ研究してんのかなぁ」なんて、ね。
硝子の向こうで動く影、見るたびにさ、ちょっとだけ胸が痛む。
全く屋敷の外に出ないらしくて……引きこもり?
まさか監禁しているわけでもあるまいし。
大変な人たちを押しつけちゃったか?
……でも、いまさらどうこう言えないしな。
暮らしに困ってるわけでもないし……って、自分に言い聞かせてるところ、正直ある。
僕が中途半端に匿って、碧国にバレてたら守りきれなかったかも……
そう考えたら、やっぱあいつに頼んで正解だったんだよ。きっと。
あいつは僕が何言っても「そうだな」って頷くんだよ。
昔から変わんないよな、そういうとこ。
……ただまあ、弱音を吐いてもらえるほど、信頼されていないかかなぁ。
大変なことを任せちゃった分、愚痴や文句を受け止める覚悟はしているんだけど。
頼りないよね、僕。
でも、そういう無口なところも含めて、あいつは、なんか……いいんだよね。
黙って珈琲淹れてくれて、穏やかな時間が流れて。
そんな空間って、なかなかないじゃない?
俺、今でも思うんだよ。あいつに頼んでよかったって。
──ただ、たまーにさ、思うこともあるのよ。
あいつの目が、じっと僕を見てる気がするんだよね。
……観察? されてるっていうか、うん。
頭が悪い人間の生態が、不思議なのかなぁ、ってね。
お互いに「こいつ、何考えてんだろなぁ」って思ってんのかも。
まあ、それでもいいさ。
僕は皆の厚意に助けられてる。
だから、何か使えそうなら、観察でも何でも協力するよ。
僕ができることは、少ないからね。
……けど、最近ふと思うんだよね。
あの一族のこと、あいつはどう思ってるのかなって。
十年って、ただ「預かってる」だけじゃ済まない時間だよ。
あの長老、俺のこと……まだ覚えてんのかなぁ。
それとも、もう忘れちゃったかな。
長男が回復したお礼も言いたかったけど、あいつに、外部との接触を怖れているから遠慮してくれと言われたもんね。
国を密かに脱出して逃げる経験なんかしたら、警戒心が強くなって当然だよ。
温室の様子を見に行くのも、僕の自己満足だよね。
でもさ、あいつが淹れてくれる珈琲、ほんと美味いんだよなぁ。
あれ、お世辞抜きで、世界一美味いと思う。うん。
珈琲の淹れ方ひとつとっても、天才は違うね、ほんと。
■更に二十年後■
あの亡命から三十年以上経ったのか。
親友だったヘムリーズ伯爵――今で言えば「先代」は、もういない。
亡命者たちの世話は、親友の息子のお嫁さんとうちの三男が引き継いだ。
まだ五十代半ばで、まさに働き盛りだったのに……あまりにも用意がよすぎて、まるで最初からそのつもりだったみたいだ。爵位の継承までスムーズに進んだ。
賢すぎるのも、どうなんだろうね。あっさりしすぎてて、残されたほうはちょっと切ないよ。
僕ね、自分がバカだってことは、ちゃんとわかってるんですよ。
もともとは兄の補佐をして、生きていくつもりだったんです。
兄貴はねぇ、そりゃもう頭の切れる男でね。
賢い女当主の家に婿入りでも……と言ったら、父上に「お前をよその家になど出せるか」と叱られました。
そこまでできの悪い息子だったかと、ちょっと落ち込みましたね。
ところが、兄が若くして亡くなっちゃって。大慌てですよ。
周りには賢い頼れる人たちばかりで、いつも「先を読め、裏を読め」って教えてくれた。
でも、僕にはその「何手先」ってやつが、どうしても見えなかったんですよ。
だからね、僕は早いうちに腹をくくったんです。
できないことはできない。だったら、素直に助けを求めようって。
そして、手を貸してくれた人には、心から感謝する。
……僕がやってこられたのは、ほんと、それのおかげなんですよ。
国のためとか、難しい政策とか、派閥の裏とか、遠い未来のこととか、考えても……ちっともわからない。
どれだけ悩んでいても、答えを見つけるのを待ってくれずに、時間ってやつは容赦なく過ぎていくでしょ。
だから、もうね、開き直ることにしたんです。
善意に甘えすぎるのには注意して、その代わり「ありがとう」はちゃんと伝える。
やっちゃった!と思ったら、すぐに「ごめんなさい」して、相談する。
たったそれだけのことだけど、それが僕なりの誠意なんです。
皆さんのおかげで、今までなんとかやってこられました。
ありがたいことに、長男はね、正妻に似て頭のいい子で。
冷静で、先を読む力もある。
……たまに僕のこと、叱ってくるんですよ。兄上を思い出します。
「父上、それじゃ甘すぎます」って。
でもまぁ、それもまた、ありがたいじゃないですか。
頼りがいがありますよ。
「親の威厳」なんて、中身がスカスカなのに威張って見せても、滑稽なだけでしょう。
不器用なりに、足りないなりに、僕は僕で、生きていくつもりです。
誰かに助けてもらいながら、ちゃんと頭を下げて、ちゃんと感謝して。
そうやって生きるのも、悪くないでしょう?
あいつの淹れた珈琲が飲めなくなって、もう二十年になるのかぁ。
いやはや、僕もすっかり年を取ったもんだよ。
もしも、あの世でまた会えたらさ――
「悪いねぇ、一杯、煎れてくれないか」なんて、言ってみようかな。
ちゃんと土産話もある。
君が引き受けてくれたあの仕事、数ヶ月後にはうちの三男が子爵になって継ぐんだよ。
そのときにね、なんと! 君の孫が、僕の孫にもなるんだ!
ちょっと、面白い巡り合わせだろう?
モードに特大パンチを食らう前の独白です。
侯爵は、名門エリート校で平均点を取れるくらいの能力があります。
ただ、まわりがあまりに優秀すぎて「自分はたいしたことない」と思い込んでしまった。
でも卑屈にはならなかったため、その素直さがかえって好かれる理由に。
人との距離を自然に縮めるのが上手で、気づけばみんなに可愛がられているけれど、本人はまったくの無自覚という……。
次は、王様の話をいたしましょう。