米沢藩入り その3 治憲20歳~
何をおいても≪食≫を確保する。そして可能な限り早期に『間引き禁止』の御触れを出して人口を増やす。当面の方針は決まった。
竹俣を呼び話を聞く。「当綱よ、農村を廻って気になることがあったのだが・・・」と話を切り出す。「領内の米作だが、この米沢の気候では米作は難しくはないか?」と尋ねると、「仰せの通りにございますが、農民からの年貢は米が中心となります故」と答える。
米沢藩の年貢は、半分を米で、残りを青苧(麻の一種)や漆を藩が買い取った現金で支払う『半石半永制』を取っていた。
このため、水田以外の畑では青荢が多く植えられているが、青荢は食べられない。『しかし、主食や年貢を米に頼っていては、何かあった時に被害が大きくなるかも』と考え、「では、米以外の作物を増やそう。麦に蕎麦そして粟、芋など多種多様な作物を育てるように推奨せよ」と当綱に告げ、「米の収穫が減る分は、新たに土地を開墾して田畑を増やせばよかろう」と指示する。
「開墾と言われましても、人手が足りませぬ」と言う当綱に「人手であれば城内に余っておろう」と腹黒い笑みを浮かべながら答えた。
「それは藩士に開墾させよ、との仰せでしょうか?」と驚く当綱に「働かざる者喰うべからずじゃ」と答える。「そもそも城内の藩士など、農民の扶養家族みたいなものであろう」と切り捨てる。
「それは、また千坂殿たち重臣からの反発がありましょうぞ」と心配顔の当綱に、「率先して藩士が開墾する姿を領民に見せることが大事なのじゃ。当然、私も鍬をもって田畑に出るぞ」と当綱に笑いかけ 「『してみせて、言って聞かせて、させてみる』の精神じゃ」 と決意のこもる声で告げた。
開墾地を遠山村と定め、まず初めに藩主治憲自らが荒地に鍬を入れる『籍田の礼』を行う。
当然であるが、重機などない時代。全ては手作業となる。
『憧れのスローライフ』などと言えるのは、機械化により田畑が整備されているからだ。注)私見です。
全てを人力で行う開墾は困難を極めた。しかし、ここに思いがけぬ協力者が現れる。
それは、米沢藩の藩士の次男や三男たちと多くの足軽たちだった。
米沢藩は藩士の数が多い・・・いや多すぎる。
このため、ほとんどの藩士はまともな仕事をしていない状況であった。
このため、治憲自らが開墾する姿を見た多くの藩士たちが、刀を置き鍬を手にした。
鍬を抱えた男が、「私は次男坊なので、家を継げません。このまま放逐されるよりは、農地を開墾したほうが将来が見えます故」と汗を拭きながら私に話しかけてきた。
私は「開墾した土地は、皆に分配する故がんばって開墾して欲しい」と笑いかけた。
「また、あの入り婿がやらかしおったわ」と高敦が怒鳴る。傍らにいた色部と芋川がうなずき、「武士に鍬を持たせて開墾などと、嘆かわしい」「あろうことか、お屋形様までもが荒地に入り開墾するなど、謙信公に顔向けできませぬ」と同調する。
「やはり、このままにはできぬな」と高敦が何かを決意したようにつぶやいた。
城内の高敦らがいつもの文句を言っているころ、私は遠山村の開墾地で、鍬を片手に腰を伸ばしていた。前世でも農作業は経験がなく、慣れない手つきでの作業は腰にくる。「農家の人はやはり大変だな~」と周りを見渡す。
農民や藩士がチラチラとこちらを覗きながら「新しいお屋形様は変わっておる」などとささやいているのが聞こえる。しかし、何となくではあるが、同じ作業をする事で打ち解けたような気配がうれしい。
更に奥に目をやると、湿地なのか小さな池がちらほらと見えた。「あの池には魚はいるのかな?」と離れた所にいる農民に声をかけてみる。米沢藩は盆地のため海がない。当然魚の流通も川魚がほとんどだった。「へえ、ちちゃこい鮒っ子はおりますが」と恐縮しながら答えてきた。
その時、『魚を養殖すれば、天候に左右されないでタンパク質が取れるかも』と思いついた。
この時代に養殖業があるのかは解らないが、少なくともこれまで見たことはなかった。
川魚で大きくて、簡単に育てられる魚と言えば・・・『そうだ、鯉を養殖しよう。餌やりは子供と老人に任せれば仕事になるし、食糧の確保にもつながるだろう。鯉は雑食だから、餌の確保もそんなには困らないだろうし、うまく出荷できれば、現金収入も見込めるかも』と想像を膨らませる。
こうして、藩士と農民に指示して、藩内に池を作らせて鯉の養殖を始め、城の堀にも鯉を離して育てることにした。
~数年後~
『りっぱに育ったな~。食べ方は川魚ならやっぱり甘露煮かな?』と料理の指示を出す。食べてみれば実に美味しい。特に冬場の鯉は、脂が乗って実にうまい。
よし…この料理は『米沢鯉のうま煮』と名づけ、藩で育てた鯉は『米沢鯉』としてブランド化しよう、と決めた。
こうして、ここ米沢に、名物料理が一つ生まれた。